第54話「燃えつきた流星」

 夏休み、最後の登校日……私立萬代学園高等部しりつばんだいがくえんこうとうぶは興奮につ。

 噂は噂を呼んで、あっという間に一般の生徒たちはお祭り騒ぎを現出させていた。

 萬代の白い流星、阿室玲奈アムロレイナに無謀にも挑戦状を叩き付けた一年生……楞川翔子カドカワショウコ

 二人によるテニス対決が行われると知って、校内のテニスコートには大勢の野次馬たちが集まっていた。誰もが皆、終わりつつある夏を惜しむ中で自ら熱狂に熱くなる。

 その中心にいる日陽ヒヨウいづるは、粟立あわだつ肌に寒ささえ感じる。


「凄い人だかりだ……ど、どうするんだ、翔子。……阿室さん」


 いづるの小さな呟きが、それをかたどる声を震わせる。

 余りにも多くの生徒たちが、我先にと詰めかけてひしめき合っていた。

 その中で今、テニスウェアに着替えた翔子は黙って玲奈を待っている。彼の側にはジャージ姿の富尾真也トミオシンヤが付き添っていた。すぐ側にいるのに、いづるには二人がとても遠くに感じる。

 翔子の強張こわばった表情は、まるで燃え盛る紅蓮ぐれんの炎を想起させる。

 大きな瞳には今、闘志の光がともっていた。


「富尾先輩、わたし……わたし。あの人、許せない。かも」

「落ち着け、楞川! いいから柔軟運動、身体をスタンバらせろ!」

「どうして……どうして逃げるのかなあ。なんで、いづちゃんから」

「それを聞き出すために、楞川。お前が阿室を倒すんだ」


 翔子は静かに燃えていた。それは、普段は炭火すみびのような温かさのある家庭的な少女を、逆巻く業火ごうかごとたぎらせている。

 いづるは、こんなにもやる気に満ちて緊張感をみなぎらせた翔子を見るのは初めてだ。

 その翔子のストレッチを手伝いつつ、真也は言葉を続ける。

 真也もまた、いつになく真剣に翔子のセコンド役を買って出ていた。そう、さながら今の翔子は、リングでの死闘を待つ拳闘士ボクサー……コロッセオで猛獣に挑む古代ローマの剣闘士グラディエイターだ。


「いいか、楞川。阿室は常に、こちらの弱点……お前のフィジカルの弱さ、テクニックのつたなさを

「はい!」

「阿室が打ち返してくる球は全て、お前が打ち返しやすい球だ。奴はそういう女だ」

「……手を抜いてるって、ことですかあ?」

「違う。だが、手加減してくる。今まで阿室を本気にさせた者などいない。……俺でさえ、時々思うことがあるのだ。阿室の本気、一度は見てみたいものだが」


 その時、周囲でテニスコートを囲む生徒たちから、一際強い歓声があがった。

 そして、この学園の副生徒会長、誰もが憧れるスーパーヒロイン、阿室玲奈が現れた。彼女は夏服……制服姿だ。テニスラケットすら持っていない。

 さらに、いづるは驚きの余りに目を見張る。

 玲奈の目には、全く光がなかった。

 あの星屑ほしくずを閉じ込めたような、大きく愛くるしい瞳が暗くよどんでいる。

 なにより、額のアホ毛が……Vの字アンテナの前髪が今、閉じて一本に収斂しゅうれんされているのだ。


「……翔子さん」

「阿室先輩っ! 着替えてください。わたしと、勝負ですう!」

「それは、できないわ。お願い……もう、私のことは――」

「逃げないで、!」


 ビクン! と玲奈が身を震わせた。

 周囲から「おお!」とどよめきが上がる。

 あの翔子が、いつも大人しい翔子が、えた。

 あれほどまでに声音を鋭くとがらせた、冴え冴えときらめく刃のような翔子は初めて見る。そこには、いづるの知らない幼馴染のいきどおりがあった。

 激怒とさえ言ってもいい。


「玲奈、どうして? ねえ、なんで? わたしたち、なにか気にさわることしたかなあ?」

「違う……違うの。翔子さん」

「わたし、玲奈のこと好きだよ? 大好き。でも……わたしより好きな人がいて、玲奈にその人のことを好きになって欲しいの。ううん――」


 静かに二人は、テニスコートのネットを挟んで向き合う。

 翔子は首を横に振りつつも、ゆっくりと玲奈に歩み寄った。


「好きになれなんて言えないけど、向き合って欲しいの。好きも嫌いも、ちゃんといづちゃんに向けてあげて? 玲奈、そゆことできる女の子だって、わたし信じてるから」

「……ごめんなさい」

「謝らないでっ! ……わたしに謝らないで。なにか悪いと思ってるなら、いづちゃんに謝って! どうして、どうして……いづちゃん、玲奈の初めての友達なんだよ? どうして!」


 それ以上、言葉は必要なかった。

 言葉が必要とされない時間が訪れようとしていた。

 タレ目をうるませ必死の形相で翔子がにらむ。

 その険しい死線を受け止める玲奈は、まばたきさえ忘れたように空虚な瞳で、視線を宙に彷徨さまよわせるだけだった。

 誰もが、二人の少女を固唾かたずんで見守る。

 そんな中、真也が阿室へとゆっくりラケットを放った。


「阿室っ、楞川と戦え。嫌でも構わん、嫌ってくれて結構! ……だが、楞川に向き合え。いづる少年のために楞川は今日まで、やれるだけのことをやってきたんだ」

「富尾君、キミ……」

「逃げれば俺は、お前を軽蔑できてしまうのよ。わかるでしょう! いいから戦いなさいよ、楞川と! 俺が長年憧れ挑んだお前は、阿室玲奈は……萬代の白い流星は、退かないのよね」


 真也からラケットを受け取った玲奈は、小さく頷いた。

 そして、いづるは周囲の生徒たち同様に驚きの声をあげる。

 なんと玲奈は、その場で制服を脱ぎ出した。

 ……ワイシャツにチェックのプリーツスカートを、皆の前で脱いでみせた。

 残念というか幸いなことに、玲奈は下にスパッツをはいていた。黒いスパッツに、上は緑のランニングシャツ。脇から僅かにのぞ下着ブラが、いづるには途方もなく刺激的だった。加えて、無地のスパッツのピッチリ感が、着痩きやせする玲奈の質感をいやがおうにも意識させる。

 こんな時でもいづるはムッツリスケベなのだった。


「……あまり、時間がないの。少しなら」

「それはわたしも同じだよぉ……きっとわたし、そんなに長くは持たない。三日くらい特訓しただけじゃ、玲奈に追いつける訳ないもの。付け焼き刃の体力だもの。でも、倒す!」


 玲奈はいまだにうつろな無表情で、その姿は氷の女神を思わせる。

 激情の炎を燃やす翔子とは対照的で、その美貌びぼうはいづるの背筋へ寒いなにかを走らせた。

 翔子がポジションにつくと、玲奈もまた脱ぎ捨てた制服をコートの外へと放り投げる。

 その時、いづるは隣で真也の意外な声を聞いた。


「阿室は……そう、いつも手加減するのだ。それは、手加減と呼ぶにはあまりに高潔こうけつ過ぎる。強者故に孤高、孤独な戦いだ」

「そ、それって?」

「阿室は、相手の弱点を絶対に攻めてこない。だから、必然的に楞川の打ち返せる球を放ってくるだろう。それが俺にはわかるんだよ、阿室っ!」

「どうして……だって、スポーツですよ? 勝負なんです」

「そうだ。だが、阿室は常に王者の風格、そして横綱相撲よこづなずもう……舐めている訳ではない。だが、周囲のプレッシャーの中、阿室は正々堂々と真正面からしか戦えない。そういう自分が周囲に求められてると知れば、それしかできないのだ」


 真也の話によれば、玲奈は今まで一度たりとも小細工をろうせず、一度として相手の弱点に付け入るようなたたかいをしなかったという。それは、萬代の白い流星とまで言われた、パーフェクトお嬢様故のかなしい王道……玲奈には、なりふり構わぬ闘いも、ただ勝つだけの試合も許されないのだ。

 恐らく、彼女自身が自分に許さないのだろう。

 改めていづるは思い出す……玲奈の生真面目に過ぎるいさぎよさを。


「その潔さを、なんでもっと上手に使えなかったんだ! ……と、俺は思うのだがな。ン、始まるぞ。よく見ておけ、いづる少年」


 玲奈と翔子、二人は同時にラケットを構えた。

 同時に、校内放送が高らかに敷地内に鳴り響く。


『レディース・アンド・ジェントルメン! ファッキンな登校日にビーッグイベェェェント! さあ、萬代の白い流星が勝つか、それとも挑戦者の新入生が勝つか! 少女たち、俺を夢中にさせてみろ! 実況は放送部でお届けしておりますっ!』


 続いて、放送部の有志たちがジャックした校内放送がルールを告げてくる。

 通常のテニスとは異なり、内容はラリー対決……有効ポイント、つまりフィールド内で弾んだボールを打ち返せなかった方が1ポイントを失う。2ポイント先取で勝敗が決する、事実上の三本勝負だ。

 このルールは、時間がないとだけ言った玲奈から提案されたものだった。

 そして、運命の一戦が始まった。

 弾むボールが乾いた音を立てる中で、玲奈と翔子がラリーを始めた。


「玲奈っ! どうして、いづちゃんをっ、拒むのっ! ……突然、どうして!」

「それは……っ! 鋭い!? 翔子さん、貴女あなたは」

「舐めない、で、くだ、さいっ! わたし……特訓、したんですから! そこっ!」

「そう……でも、ごめんなさい。私は、やっぱり……誰も、巻き込めない」


 感情のたかぶりそのままに、翔子が力強いドライブを次々と打ち込む。

 それを拾うだけの作業に翻弄ほんろうされつつ、力のない言葉を漏らしながら玲奈が球を返す。

 まるで炎と氷……熱く灼けた球筋が、正確無比な絶対零度の返球になる。

 やはり、玲奈が翔子に返すのは真っ直ぐな球だった。

 それは、性根の清らかで素直な玲奈そのものにいづるには思えた。


「甘いです! ……これならっ!」

「クッ! 翔子さん、よくぞここまで。凄いわ、本当に凄い……」

「いっつもそうやって……やれると思わないでエエエェェェ!!!」


 鋭い球を翔子が繰り出した。

 黄色いボールがスピン気味に曲がりながら、玲奈のフィールドへと突き刺さる。そして、見守るいづるが、盛り上がる誰もが予想もしない方向へと跳ねた。

 それは、玲奈がラケットを持つ右手とは逆方向。

 だが、流石に玲奈は萬代の白い流星……スポーツ万能の才女だった。

 咄嗟にスイッチ、左手にラケットを持ち変えると、玲奈は難なく翔子のフルパワーを打ち返す。そして、次の瞬間には攻守は逆転していた。

 利き手ではない左からとは思えぬ重そうな球が、真っ直ぐ翔子へと吸い込まれる。

 コースこそ甘いが、渦巻く空気が見えそうなほどに鋭い攻撃だ。

 ――だが。

 だが、しかし……いづるは隣で真也の落ち着いた声を聞く。


「甘いな、阿室っ! ……楞川、特訓を思い出せ! 俺との三日間を、思い出せっ!」


 次の瞬間、翔子がラケットを持つ手を精一杯伸ばす。

 ボールを受け止める翔子の、その手のラケットがギシギシとしなってたわむ。その音が聞こえてきそうな程に、玲奈の放った球は弾丸のように……砲弾のように重かった。

 そしていづるは、信じられない光景を目にするのだった。

 いづるだけではない……狂騒に盛り上がる周囲のギャラリーでさえ、沈黙してしまう。

 それは、あたかも悪夢のような試合の始まりだった。

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