第53話「今は考えずに走れ!」
あの夜、突然
そして始まった、想い人と幼馴染の
そう、
なにが起こっているのかわからぬままに、一夜が明けてしまった。
「今日も阿室さん、いなかった……そもそも、御屋敷の雰囲気自体がおかしかった」
昨夜、電話のあとでいづるは家を飛び出した。
だが、向かった先の阿室邸は、闇の中で不気味に静まり返っていたのだ。
今日になって再び訪れても、やはり同じ。どういう訳か、広大な庭を持つ大邸宅が今は、まるで廃墟のように静まり返っていた。そればかりではない……時折出入りするのは、黒服にサングラスという、体格のいい男たち。彼らの正体は? そして、阿室家に……玲奈になにが起こったのだろうか?
その答を探し求めるも、いづるにできることは少ない。
あれからもう、玲奈の携帯には電話が繋がらない。
恐らく電源が切られているのだろう。
「……せめて、
再び自宅へと戻ってきたいづるは、玄関の前に意外な人物を見る。
あちら側でもいづるに気付いたのか、彼は……タンクトップの細マッチョは、眼鏡のレンズに陽光を反射させつつ振り向いた。
それは、玲奈や翔子とも共通の友人、
「おはようございますだな、いづる少年!」
「お、おはようございます……あれ、富尾先輩? どうしてここに? いったいなにが」
「なにが? 妙なことを、いづる少年。……もう、なにかが起こっているのだ!」
なんだか知らないが、今日の真也は少し
そして、いづるには心当たりがある。
どうやら彼も、玲奈の身に起こった異変に接したらしい。
「昨夜遅く、阿室から電話があってな……
「まあ、僕もそれを設定させられましたけどね」
やはりというか、玲奈は真也にも電話していたのだ。
その内容は、やはりというか当然のように、一方的な別れだという。
「阿室は、突然妙なことを言い出した。もう会えないと、お別れだと! 君はっ!」
「……僕もです、富尾先輩」
「ええい、勝ち逃げなど許さん! 許しはせん、許しはせんぞお!」
「逃げ、なんでしょうか……逃げたとすれば、いったいなにから」
勿論、あの玲奈が真也との勝負から逃げているというのは考え難い。
ずっと玲奈を見てきたいづるにはわかる。
真也の一方的なライバル心すら、好意的なコミュニュケーションの表現だった。
そしてそれをわかっているから、いつも玲奈は嬉しさを隠して対決してきたのだ。二人はガンダムの趣味こそ違えど、同じガノタとしていづるのわからないところで知らない
「富尾先輩、他に阿室さんの連絡先は……」
「知らん! あのメイドさん、確か
真也は悔しそうに親指の爪を
気持ちはとっくにいづるも同じだったが、真也は玲奈とは長い付き合いだ。それこそ、いづると翔子と同じくらいの年月を、彼もまた玲奈と共に過ごしてきた。競い合って生きてきたのだ。
ふと、いづるは思った。
真也なら、いづるの中の不思議な疑問に答えてくれるかもしれない、と。
「あの、富尾先輩」
「ン、なんだいづる少年!」
「富尾先輩、阿室さんとは付き合い、長いんですよね」
「まあな……好敵手、そして宿敵。腐れ縁という奴だ。そして……お、俺は、俺はあの人に勝ちたい」
「その……た、例えばですよ?」
そう、例えばの話だ。
そんなことはありえない、前提からして間違っている。でも、いづるは思った……君の姿は僕ににている、と。いづるにとって翔子が幼馴染で生活の一部であるように、真也にとっても玲奈は日々の暮らしの一部である気がしたのだ。
だから、そっと聞いてみる。
「例えば、僕が突然阿室さんを拒絶……避けて遠ざけたら、怒りますか?」
「仮定の話など! ……どうかな。ありえない話過ぎて、どうにも考え難いのよ。もうちょっと簡単な話にしなさいよ!」
「え、あ、すみません……実は、昨日なんですけど……翔子の奴、
真也はしげしげといづるを見て「ふむ」と形良い
「話せよ、いづる少年。……昨夜、楞川に……お前と楞川になにがあった」
「実は、僕も阿室さんから変な電話があって」
いづるは現時点で起こったことを全て真也に話した。
それで得心がいったのか、真也は大きく頷く。
「……そうか? 楞川は説明を求めていたのか。それで、それを俺は勝負に感じて、楞川をマシーンにしたんだな」
「え? いや、それは――」
「阿室玲奈は、お前の恋人になってくれるかもしれなかった女性だ!」
「なっ、なな……なにを言ってるんですか! と、突然!」
だが、事実だ。
玲奈と恋人同士になって、楽しく付き合いたい……そういう気持ちは常にあったし、その
つい先日までは。
だが、一方的にそういう可能性は断たれた。
祈りと願いが呪いに変わると言う、泣き濡れた玲奈の声と共に。
そして、その瞬間から仲良し四人組のなにかが壊れてしまったのだ。
その時、意外な人物が息を切らしながらやってくる。
「ひー、ひー! ハァ、ハァ……ふいー! もぉ、駄目……これ以上、無理だよぉ」
それは、立派な胸をたゆんたゆんと揺らして走る翔子だった。スポーツウェアの彼女は汗だくで、二人の前に来るなりその場に崩れ落ちる。地面に手をついた彼女の
「しょ、翔子? お前、なにやってんだ……?」
「あ、いづちゃん……お昼ね、適当に食べてぇ……わたし、も少し……特訓だよぉ」
なにを言ってるんだろうか?
いづるを安心させるように笑う翔子は、その表情はいつも通りだ。だが、彼女の瞳は強い光を灯している。そこにはある種の決意が、決然とした意志が感じられた。
そんな翔子の顔を見るのは、いづるには初めてだ。
彼女はいづるにとっていつも、いつでも隣にいる
翔子はゆっくりと、よろけながら立ち上がる。
そして、待っていたかのように真也は、手にしていたボトルを手渡した。翔子はボトルの中のスポーツドリンクを、喉をゴクゴク鳴らして飲み始める。
「悪くないペースだぞ、楞川」
「はい、コーチ!」
「へ? ……コーチ!?」
思わず
「登校日のテニスコートを抑えておいた。生徒会書記の権限、甘く見ないでもらおう」
「わー、ありがとですぅ! 富尾先輩、助かりますー」
「今の俺はコーチ、それ以上でもそれ以下でもない。楞川……俺はもう容赦しない。お前みたいな娘を増やさないために体力を鍛える。徹底的にな」
「は、はいっ! がんぱりますう!」
真也は翔子にニ、三のアドバイスを与え、時計を見てから再び送り出した。
翔子は疲労も
翔子の姿はすぐに、角の向こうへと曲がって見えなくなった。
それを満足気に見送りつつ、真也は眼鏡を僅かに上下させる。
「しっかりやれよ……君は強い女の子じゃないか」
「あ、あの、富尾先輩?」
「走れ楞川翔子! 走れ……楞川……そうだ……楞川翔子……いいぞ」
「えっと、あれは――」
「特訓だ。楞川の奴が、俺に申し出て来たのだ。どうしても阿室と対決して、勝つ必要があるらしい。そんな楞川に手を貸すのはやぶさかではないのさ、俺はな」
昨夜、電話に叫んだ翔子の決意は本物だったのだ。
彼女は、再びいづるの前で玲奈に事情を説明させる気だ。果たして、そんな勝負に今の玲奈が乗るだろうか? そもそも、勝負を受けたのだろうか?
それ以前に、翔子がなにをどうやったら玲奈に勝てるんだろうか。
その時、いづるは真也の寂しそうな声を聞く。
「いづる少年……お前のために楞川は必死になっているんだ」
「え? ぼ、僕のため? ですか?」
「俺はそんな楞川の力になると決めた。それが独善でも偽善でも、俺には関係ない! たとえ自分のしていることで地獄に落ちようとも――俺は彼女を鍛えて支える! それだけだ!」
いづるは察した。
翔子に並々ならぬ覚悟があるように、それを後押しする真也にも
恋愛を楽しみにしているいづるには、翔子の身体を通して出る力がわからないのだ。
なにがそう駆り立てるのか……翔子が怒りに立ち上がり、そこに真也が肩入れして助力する。その構図には、玲奈のライバルとして以上のなにかが真也にあることも、わからないのだ。
「フッ、今まで阿室に負け続けた俺だから言える……楞川は、勝つ」
「え、でも……さっき、テニスコートって。テニスも阿室さん、滅茶苦茶
「加えて言えば、楞川は
並々ならぬ自信を見せつつも、真也は「……寒い時代だとは思わんか」と呟いた。その独り言が、誰に向けられたものなのかも、いづるには理解できなかった。
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