第52話「嘘だと言ってよ玲奈」
夏の夜空を見上げれば、都心の闇に見知った星座は見つからない。
今夜は
そんなことを思いつつも、いづるの心は不思議と落ち着かなかった。
「なにか、あったのかな……阿室さん、明らかにあの後、様子がおかしかった。気がする、かもしれない」
父親からの電話に対して、いづるの勧めで折り返しの連絡を入れた玲奈。彼女はパーティを十五分ほど中座して、奥の部屋で話し込んでいたようだった。
その時はいづるは、
だが、そうはならなかったようだ。
電話を終えて戻ってきた玲奈は、顔面蒼白で表情を失っていたのだ。
気遣う仲間たちに平気そうな自分を演じていても、動揺は明らかだった。
いったい玲奈になにが?
その問に対する答を、いづるは知りたくても知りようがない。
「いづちゃーん? お皿を出してくださぁい。もうすぐゴハンですよぉ~」
相変わらず脳天気でぽややんとした声が、キッチンから響いてくる。
立ち上がったいづるは、窓を閉めて少し遅目の夕食を取るべくダイニングへと歩いた。
エプロン姿の翔子はいつものゆるい笑みで、ニコニコとフライパンを手にコンロの前にいる。今日は彼女は、ある意味でいづる以上にゴキゲンだった。いづるにはそれが、玲奈と翔子もまたいい友情関係を育んでいるのだろうとしか、そうとしか思えなかったが。
だが、どうやら翔子がご満悦なのは他にも理由があるらしい。
「今日はいづちゃんの大好きな、生姜焼きでーす! ふっふっふ、今度ね……わたし、阿室先輩にお料理教えて欲しいって言われちゃったのぉ」
「ああ、なんかそう言ってたね
「そう! 阿室先輩もやっと気付いたんだよぉ~! 心を
「ん? なにそれ」
「エヘヘ、秘密でーす! ささ、食べよ食べよー?」
熱々の香ばしい匂いが、いづるの渡した皿に盛りつけられてゆく。
いづるの携帯電話が鳴ったのは、そんな時だった。勇壮感に溢れたメロディが着信を告げて、その調べにいづるの心臓は高鳴る。何故かスマホを操作する手が驚きに震える。
メールではなく、電話の通知だ。
逆襲のシャアとかいう映画で使われた「
それは、愛しの玲奈からの連絡を意味していた。
迷わずいづるは立ち上がるや、電話に出る。
「もしもし、いづるです。阿室さん?」
玲奈から携帯に電話というのは、割りと珍しい。
それというのも、玲奈は極度に
よく繋がったなと思いつつ、言い知れぬ不安が胸中に広がる。
いつものハキハキと明朗で
「あ、あの、阿室さん? どうかしましたか……なにか、ありました?」
『……いづる、君』
酷くか細い、不思議と力のない声だ。
まるで、玲奈の
まるで今の玲奈の声は、暗い闇の底から響く
酷く無機質なのに、聞きそびれそうな小声が不思議と澄んで透き通る。それは、いづるの好きな玲奈の全てをこそぎ落とした、彼女ならざるなにかの声にさえ思えるのだ。
『いづる君……ごめんなさい』
「え? いや、なにが……どうかしたんですか?」
『……声が、聴きたくて……最後に』
「阿室さん?」
明らかに様子がおかしい。
そして、いづるには玲奈の落胆と放心に心当たりがあった。
思えば、あのパーティで父親と電話をしてから玲奈は様子が違った。どこか心ここにあらずといった雰囲気で、ともすればみんなとの会話も上の空だった。
やはり、原因はあの時の電話しか考えられない。
そして、一度途切れた父との対話を、こちら側からやり直すよう勧めたのはいづるだ。
もしかして自分は、よかれと思って最悪のことをしてしまったのか? 気付けばいづるは携帯を握る手に汗をかいていた。じっとり不気味な湿度に濡れた手は、僅かな震えを感じる。
「あ、あの! 阿室さん、なにか……なにか、あったんですよね」
『……私、大丈夫よ。平気だわ……平気』
「全然そんな……僕が平気でいられないです! ……僕、余計なことをしてしまったんじゃ。やっぱり、お父さんとの電話は」
『ううん、違うの。いづる君は悪くないわ。……ねえ、もう少し……もう少しだけ、いいかしら』
ちらりといづるは翔子を見やる。
どうやら翔子にも、なにかしらの重大さ、特別な緊急度が伝わったらしい。
「あ、じゃあ……僕、そっち行きますよ。会って話したほうが……そうだ、阿室さんはファミレスって行ったことあります? ドリンクバーっていう庶民御用達の――」
『今は、会えないわ。電話で、お願い。……ごめんなさい』
「い、いえ……」
玲奈の声は僅かに湿っていた。
涙に濡れた泣き声だったのだ。
『いづる君、人は皆……よかれと思って行動してると思うの。私は、そう思うわ』
「えっ!?」
『人類が地球を食い潰すのを避けるため、一部の人間がよかれと思って地球連邦を作り……よかれと思って立場の弱い人間たちを宇宙へ解き放ったの。それは紛れもない善意だったわ』
「あ、ああ……ガンダムの話? ですよね?」
僅かに震える玲奈の声は、こんな時だがいづるの胸に静かに
『よかれと思っての行動も、始まる前から悲劇や悪意を招くと知って……それでも、地球連邦を樹立させた人たちは、可能性という名の神を信じた。そして、祈りと願いを託したの』
「は、はあ」
『それが、ラプラスの箱と呼ばれる呪いになったわ。ガンダム
「ちょっと、面白そうですね。阿室さん、また一緒にみましょうよ! 僕、それみたいです」
返事は、なかった。
ただ、漠然とだがいづるは理解した。
やはり玲奈の身になにかあった……彼女が、周囲がよかれと思って選択したなにかが、呪いへ変わって彼女に降り注いだのだ。祈りと願いを紡いで束ねた、希望という名の可能性。それは一度見方を変えて使い方を誤れば、呪縛となる。
変わった自分や誤った手段に当事者が気付かぬまま、ただ悲惨な結果だけが生まれることもあるのだ。
「まだ夏休み、一週間近くあるんですし。またガンダムみましょうよ、阿室さん」
返事は、ない。
いづるからガンダムの話をすることは
そして、玲奈の声はとうとう震えも顕な
気丈な彼女は、それでもなんとか言の葉を
『ごめんなさい、いづる君……私、最後に声が聞けてよかったわ』
「最後!? 阿室さん、なんで――」
『好きだったわ、いづる君。ありがとう……さよなら』
「待ってください、阿室さん! さよならってなんですか、切らないで! ちょっと待っててください、僕行きます! そっちに行きますから!」
その時だった。
不意にいづるは、携帯電話を取り上げられた。
なにごとかと振り返った時にはもう、意外な人物が声を凍らせている。
そこには、いづるの携帯を持ち直した翔子の姿があった。
「阿室先輩、翔子です。なにか、あったんですね?」
あの温和で
「そゆの、駄目ですよ? なにがあったかも教えてくれないと、いづちゃんだって困ります」
『……ごめんなさい』
「わたしに謝らないでください。ね、力になりますよ? みんな、みーんな阿室先輩を助けます。なにより……いづちゃんが絶対に阿室先輩に寄り添いますから」
『それは……駄目よ。駄目……もう、終わりにしなきゃ』
いづるには、よく会話が聞き取れない。
だが、受話器を潰れんばかりに握り締める翔子が言葉を尖らせる。
「いづちゃんから……わたしのいづちゃんから逃げるんですか! どうして! 説明してください、いづちゃんに!」
『……巻き込めないわ、だって……だって私、いづる君のことが』
「じゃあ、逃げないでください! 振るにしても終わるにしても、いづちゃんに向き合って……いづちゃんの気持ちに気持ちで応えてあげてください!」
いづるが手を伸べ携帯を取り返そうとするが、翔子は背を向け玲奈と喋り続ける。その言葉は口調こそ普段と一緒だが、全く違う気持ちに鋭くなっていった。
翔子は怒っているのだ……一方的に全てを終わらせようとする玲奈に。
そして、その
「わたしにいづちゃんを返すなんて……いづちゃん、物じゃない! いづちゃんの気持ちは、阿室先輩が直接本気で、本音の本心でいづちゃんに伝えてください」
『もう、無理よ……ごめんなさい、これ以上は』
「……どうすれば阿室先輩、いづちゃんに……わたしたちに説明してくれるんですか」
『迷惑はかけられないわ。もう会えないかもしれないけど――』
「三日後、最後の登校日! 学校で会う、会えますよ! なに言ってるかな……ねえ、阿室先輩! わたしの大好きないづちゃんに、なんでそういう……どうして!」
そして、決定的な言葉が翔子から飛び出す。
いつものゆるい笑みからは想像もつかぬ、翔子の
「いーです、阿室先輩! じゃあ、約束してください……三日後の登校日、もう一度いづちゃんに会うって……ええ、ええ。うん、えっ? ……まだそんなこと言うんですか?」
いづるが見兼ねて携帯電話を取り上げようとした、その時だった。
翔子は自分でも自分の言葉に気づいていないのか、感情の
「じゃあ、わかりました! わたし、阿室先輩を倒します! 勝負です……わたしがなにか一つでも阿室先輩に勝ったら……もう一度だけ、いづちゃんに向き合ってください!」
通話はその言葉を最後に切れた。翔子が自分から切った。
立ち尽くす翔子は、いづるを見やると力なく笑った。
残暑厳しい夏の終わり、いづるたちの運命が大きく悪夢へと転がり始めていた。
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