第50話「恋と愛と」

 コミケの会場、ビッグサイト内は走ってはいけない。

 だが、そんな大事なことさえ忘れて、日陽ヒヨウいづるは全力疾走していた。阿室玲奈アムロレイナの手を握って引き、振り返る多くの視線を振り払うように。

 気がつけばいづると玲奈は、ビッグサイトの外れの区画まで来ていた。

 こちら側は別のもよおものをやっているらしく、コミケの熱狂と興奮が耳に遠い。東京都内でも有数の展示場なので、こうしたイベントを複数開催することは珍しくなかった。どうやらヨットやクルーザーの展示会をやってるらしいが、人影はまばらだ。


「はぁ、はぁ……ふう! 阿室さん、無事ですか!」


 いづるは立ち止まって、玲奈を振り返る。

 流石の玲奈も息が切れたようで、いづるの手を離すと両膝をつかむようにして呼吸を貪っていた。赤いドレスの華奢きゃしゃな肩が、大きく上下している。

 だが、いづるはガンダムのマスクの中で額に感じる汗に満足を感じていた。

 不思議な充足感があった。

 それは、結果的にベストとは言えない中でも、自分がベストを尽くしたという充実感だった。確かにもっとスマートな解決方法があったかもしれないし、コミケ参加者の全てに迷惑を掛けてしまったことも事実だ。

 。それでも、といづるは心に再度結ぶ。

 それでも、いづるは自分で玲奈を助けた、救い出したのだ。


「えっと、お茶を買ってきたので……あ、あれ? おかしいな……あ! お茶を、放り出してきてしまった。すみません、阿室さん。喉、乾いてますよね――!?」


 目の前の玲奈は、呼吸を整えると顔をあげた。

 そこには、星屑ほしくずのような涙を瞳に潤ませた、今にも泣き出しそうな顔があった。

 その、普段は見たことがない、誰も見たことがないであろう表情が、目の前に迫る。

 あっという間にいづるは、玲奈に抱きつかれてしまった。

 ちょうど同じくらいの背格好が、ぴたりと身を寄せてくる。ガンダムフェイスの狭い視界に、玲奈の金髪だけが揺れていた。

 玲奈はいづるを、強く強く抱きしめてくる。

 どうしていいかわからず、頭が真っ白になる中で……辛うじていづるも、玲奈の細い身体を抱き返した。自分と玲奈との間で、たわわな胸の膨らみが密着する感覚がある。じんわりと熱気を宿した玲奈の体温が、服に浸透しんとうして肌に染み渡る。

 頭も身体も動かないままに、いづるは玲奈を抱き締め、その背をポンポンと優しく叩いた。


「怖かった……怖かったわ、いづる君! あんなことに……私、怖かったの」

「えっと、その、すみません」

「どうしていづる君が謝るのかしら? ううん、私がお礼を言わなきゃ……助けてくれてありがとう、本当に……もっ! ビックリしたぞ? ……怖かったんだから」


 玲奈はかすかに震えていた。

 その小刻みな振動が、いづるの腕の中、胸の中で止まらない。

 普段の気丈でりんとした涼やかな立ち振舞が嘘のように、玲奈はいづるに身を預けて泣きじゃくっていた。よほど怖かったのだろうか、まるで幼子のようだ。

 普段の玲奈とのギャップに驚きつつ、いづるは優しくあやすように受け止める。

 きっと普段なら、誰も知らない自分だけの玲奈に優越感を感じていただろう。ムッツリスケベな自分は、密着してくる玲奈の柔らかさにムラムラしてたかもしれない。だが、今は黙って玲奈が落ち着くのを待ちながら、震える身体を抱き締め続けた。


「……いづる君。いづる君も、こんな私が少しおかしいでしょう? びっくりしてるんじゃなくて?」

「いやあ、確かに珍しいですけど」

「グスッ……そ、そうなのよね。富尾トミオ君なんか、私がいつだって平然と言い寄る誰彼構わず撃退してると思ってるんだわ」

「違うん、ですよね?」

「……本当は、怖いもの。私だって、女の子だから」

「僕もそう思いますよ」


 むずがるように鼻をすすりながらも、玲奈はいづるから離れようとしない。

 そろそろガンダムの頭部を脱ぎたいなとは思っていたが、両手が塞がった状態でいづるは身動きが取れなかった。

 だが、今は玲奈を受け止めてやることが一番大事だと思う。それくらいは、朴念仁ぼくねんじんのいづるでも理解していた。彼女は先程、本当に恐ろしい目にあったのだ。まかり間違えば、あのならず者たちに連れて行かれそうになったのだ。

 そのことを思い出しただけでも、いづるはゾッとする。

 そうこうしていると、少しずつ玲奈は落ち着きを取り戻したようだった。


「……私って、ねえ、いづる君。私って、そんなに軽薄そうな女に見えるのかしら?」

「えっ? いや、それは」

「いつもそう、どうして男の人って……私、粉をかければなびきそう? チョロい女の子に見える? そうなのね、きっと。いつも適度にあしらって撃退するけど、内心怖いのよ」


 意外な心境を吐露とろする玲奈が、ようやくいづるからわずかに離れる。

 ガンダムのツインアイの形しかない狭い視界に、玲奈の泣き笑いが広がった。彼女はまだ頬を濡らしていたが、ようやく安堵の笑顔を見せてくれたのだ。

 だが、まだいづるの背に回された玲奈の腕は、両者の距離をゼロにしていた。

 密着の距離で額を突き合わせるようにして、玲奈がいづるの顔を覗き込んでくる。


「男勝りだね、って……毅然きぜんとしてて格好いいって。みんなそう言うわ、でも……私は怖いの。もう嫌よ、どうして放っておいてくれないのかしら」

「そ、それは……」


 いづるはこの時、ようやく理解に達した。

 阿室玲奈という完璧な美少女が、自分の洗練された美しさに無自覚であることが。

 玲奈は、端的に言うと美形だ。整った顔立ちに宝石を散りばめたような目鼻立ちで、その大きさや配置は神の采配を思わせる。たおやかな長い金髪も綺麗で、まるで黄金の秋に稲穂が揺れるようだ。

 スタイルも抜群で、過不足のない女性的な膨らみが優雅な曲線を描いている。

 横に並べばいづるなど、玲奈の美しさの前ではいないも同然、存在感など消失してしまう。

 百人が擦れ違えば、老若男女を問わず百人が振り返る。

 玲奈はそういう少女だ。

 外見だけが彼女の全てではないが、知的で優しく凛々しい内面は、彼女をかたどる全てに形となって現れているのだった。

 だからいづるは、もじもじと言葉をつむぐ。


「それは、阿室さん。阿室さんが……き、きっ、きき、きっ!」

「き?」

「きっ、綺麗だから! 阿室さん、自分で気づいてないかもしれないですけど、すっごい綺麗なんです! かわいいんです! お近付きになりたくなるですよ! それが男の子っていうもんなんですよぉ!」


 身を重ねて間近に見る玲奈の顔が、グボン! と赤くなった。

 耳まで真っ赤になった彼女は、そのままいづるを見詰めて固まってしまう。

 思ったことをつい、そのまま喋ってしまっていづるは気まずさに黙ってしまう。だが、そんないづるにピッタリと抱きついたまま、玲奈は目を逸らさない。


「いづる君……」

「は、はいぃ」

「そう、なの?」

「はい……」

「私、かわいくて綺麗なのかしら」

「ええ、はい」

「ふふ、またお返事ばかりになってるわ、いづる君」

「ハイ」


 クスリと玲奈は笑った、笑ってくれた。

 いづるは嘘をついたつもりはないし、それが世の男性の共通認識だと思う。自然の摂理で人の道理だと思う。誰もがみんな思ってる……玲奈はかわいくて綺麗で、でもちょっと近寄り難い高嶺たかねの花。

 見上げて愛でる花は、一部の人間には無理矢理摘み取りたくなる魅力があるのだ。

 いづるだってそうだ、気持ちの根っこは同じだと思う。自分は高尚こうしょうなデキた人間じゃないし、めの思い出をきっかけにお近付きになりたい、下心だってあるしねんごろになりたいし。だが、崖の上に咲く一輪を、そっと手ですくって植え替えたいような、そんな気持ちだ。もっと日の当たる場所で、いい土で、他の花も並ぶ場所で咲き誇って欲しいのだ。


「いづる君……いづる君も、そう思ってくれてるの?」

「えっ?」

「私、いづる君にもかわいく見えてるのかしら。ちょっと、自信がないわ。我儘わがままだし、結構いづる君を困らせてる気もするもの」

「そそ、そっ、そんなことないですよ!」

「そうかしら」

「そうです、そうなんです!」


 その時だった。

 玲奈は頬笑み、間近に顔を近付けてくる。

 なにごとかと思った次の瞬間には、いづるの頬に……その頬を覆うガンダムのダクトに唇が触れていた。

 ほんの僅かな一瞬、一秒に見たぬ時間だったかもしれない。

 だが、コスプレの被り物を通して確かに、いづるはくちづけの柔らかさと熱さを感じた気がした。

 永遠にも思える刹那せつなの瞬間は、あっという間に過ぎた。

 そっと唇を離した玲奈は、次いで身体もいづるから離す。

 そうして、両手でいづるの被るガンダムを脱がしてくれた。

 蒸れた肌を外気がでて、いづるを外の空気が包んでくれる。


「いづる君、今日はありがとう。……ふふ、やっぱりいづる君にはガンダムは似合わないわ」

「す、すみません」

「私、ガンダムは好きだけど……今はいづる君の方が、好きかもしれないの。それって、いいのかしら」

「す、好きっ!? そそそ、それって」

LIKEライクじゃなくてLOVEラブよ? 好きだわ、大好き」


 笑顔の玲奈はガンダムの頭を両手で抱き締めながら、いづるを見詰めてくる。その吸い込まれそうな瞳の星空に、いづるもまた言葉を選ぶ。


「僕も、好きです。ずっと、好きですよ、好きでしたから」

「そう。一緒ね。私たち、同じね」

「は、はい!」

「さて、と……戻りましょう? もう長居は無用だわ。騒ぎになっちゃったし、少し残念だけど……着替えるから、外で翔子ショウコさんや富尾君を待ちましょ」


 そう言うと、玲奈が手を差し出してくる。

 自然といづるは、その手を握って並んで歩いた。

 今はもう、相思相愛という仲になった……その実感というものは、あまり感じない。気持ちが動いて伝わった、それだけでなにが変わるということはなかった。

 玲奈がはっきりと心情を言ってくれた、その気持ちは以前から感じていたから。

 自惚うぬぼれというのもおこがましいが、いづるは玲奈の想いを受け止めていた。自分の想いを伝えることで始まった恋は、玲奈から伝わるものに玲奈自身が形を与えることで決着した。

 間違いなく今、恋は愛を確かめ、恋愛へと発展していた。

 ――その先に数奇な運命が二人を別つとも知らずに。


「ところで阿室さん、それ……ガンダムの頭。どうしましょうか」

「これ、海姫マリーナのよね? よく作ったわね、こんなの。いいわ、あとで返しておきましょ」


 因みに余談だが、その夜のコミケを報じるTwitterツイッターのタイムラインに、ガンダムの格好をしてツンと澄ましたMSモビルスーツ美少女が現れたという目撃談が話題になる。だが、首から下がガンダムのまま、スーパーロボット系の同人誌を買い漁る来栖海姫クルスマリーナのことは、誰も知り得ぬままに夏を過ごすのだった。

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