後編

(テオ――さん?)

 エイボンは我が目を疑った。

 テオの黄金の髪が、無限長に伸びて、ヴーアミ族どもをがんがら締めにしていたのだ。

 ヴーアミ族どもは必死で身をよじるが、テオの髪はびくともしない。それどころか、大蛇の如くうごきながら、さらに強く、みしみしと締め上げ――。

 ぐしゃり!

 潰した。熟れたスヴァナ果のごとく、いとも易々やすやすと。降り注ぐのは、文字通りの血の雨。

「お退きなさい。さもなくば、このようになりますよ」

 原型を留めていない死体を、残りのヴーアミ族の前に放り出して、脅しつける。仮面のような無表情で、あくまで淡々とした口調で。

 その姿は、あたかも美しくも無慈悲な、殺戮さつりくの女神。

 ぐらぐらと視界がゆがむ。すぐ目の前のいるはずのテオの姿が、全てが遠くにあるように感じられる。

 目は確かに眼前の光景を映しているのに、心がそれを受け止め切れていない。結果、認識のずれが生じ、そんな感覚を引き起こしているのだ。

(テオさん――なのか、あれが?)

 彼女でなければ、誰だと言うのだ。

 という、理性のさとしはあまりにか細かった。無理もない。誰に想像できよう。 普段の彼女から、今の彼女が。

(あなたは、一体――)

「ヒ、ヒ―――ッ!?」

 ヴーアミ族どもの醜い顔が、ああまで見事に恐怖を表現できるものか。ばらばらと骨槍を投げ出し、後ずさり始める。

 いや、一匹だけ踏み止まっているのがいる。あの呪い師だ。

「グギャー! ウルダ、ヤシムダ!」

 逃げるな、命令だぞ、とでも言っているのだろうか。本音は自分も逃げたいのかもしれないが、ヴーアミ族にも面子めんつというものがあるらしい。

 その手に握る杖に、ばちばちと青白い電光が宿る。元素の矢の術だ。直撃すれば、竜すら倒す。しかし、それを放つことは叶わなかった。

 百条に分かれてのたうつテオの髪の一条が、ざびゅっ! 死神の大鎌と化して、呪い師ヴーアミの首をぐ。

 一瞬後、そこに立っていたのは、ぴゅいいと笛のような音を立てて、首から血を噴出す、首無しのむくろだった。

 指導者の無残な最期に、ヴーアミ族の士気は、今度こそ崩壊した。悲鳴を上げ、我先にと密林に逃げ散っていく。

 それを見届けて、テオの髪はしゅるしゅると元の長さに戻っていく。獲物を平らげて満腹した蛇が、巣穴に引っ込むように。

 何とおぞましい。

(違う――こんなものが、テオさんであるはずがない――)

 どこへ行ってしまったのだ。自分の過去を受け止め、癒してくれた、あのテオは。


 *


 これは、テオではない。

 知らない間に、外見だけはそっくりな、別の何かと入れ替わったのだ。

 その解釈の方が、まだ受け容れ易かった。しかし――。

「――黙っていて、ごめんなさい」

 振り返ったテオは、間違いなく、エイボンの知っているテオと同一人物だった。

 テオは、胸に刃でも突き立てられているかのような表情だった。月光を背にしたその姿は、散り逝く花のようにはかなげで――これこそが、彼女の本当の姿なのだと信じたかった。

 しかし、その黄金の髪には、べったりとヴーアミ族の血がこびり付いている。あの光景もまた、間違いなく現実だったのだ。

 エイボンは沈黙を破れない。自分の口からどんな言葉が飛び出すか、自分でも分からなくて。

 そんなエイボンとは対照的に、テオは淡々と告白を続ける。まるで、観念した罪人のように。

「御覧になった通りです。わたくしは、人ではありません。この姿は、擬態に過ぎません」

 テオは、そっとその細い腕を上げ――めきめきと変形させる。白い肌が硬質化し、指が一体化し――一瞬後、それは全長1エルにも及ぶはさみになっていた。

 思わず息を飲むエイボン。髪だけではなかった。細胞の一つ一つからして、人とは違っているのだ。

「なぜ、私を同行させたのですか――」

 半ば麻痺した喉を、無理矢理動かして、何とかそれだけはくことができた。護衛のためではないのは、もう分かっている。そんなもの、テオには必要ないだろう。

「――父から、逃げたかったのです」

 ぴくり、エイボンの肩が震える。

 逃げる。あまりに馴染み深い言葉を、テオの口から聞いて。

 あえてそうしているのであろう、感情を込めない淡々とした声で、テオは語った。

 テオの父親は、あまりにも心が狭かった。

 子供を自分の一部としか見ず、一切の自由を認めない。そんな父の元での生活に嫌気が差し、逃げ出してきたのだという。

「あの――あなたの“お父上”というのは――」

 薄々分かってはいたが、口を挟まずにはいられなかった。

「ええ――便宜べんぎ上、そう呼んでいるだけです。あの方は――ごめんなさい。人の言葉では、上手く表現できませんわ。ただ、このわたくしの生みの親で、人智を超えた存在、としか――」

 ぎゅっと我が身を抱えるテオ。その顔が青ざめて見えるのは、決して月光のせいばかりではない。

 思わず唾を飲み込むエイボン。凶暴なヴーアミ族を、虫けらのように潰してみせたテオが――一体、彼女の“父親”とは、何者なのか。

「父は執念深い方です。逃げ続けても、いずれは見つかる――そう考えたわたくしは、同じく人智を超えた存在、ツァトゥグァ神を頼ったのです」

「ツァ――トゥグァ?」

 そんな名前の神、聞いたこともない。

「はい。またの名をゾタクア。聖なる蟇蛙ひきがえる、暗黒の深淵をべるもの、惰眠だみんむさぼりながら全てを知るもの――古い古い、忘れられた神です」

 ツァトゥグァ、何と奇怪な名だろう。まるで、人間の声帯で発することを、前提にしていないかのような――。

「ツァトゥグァは、わたくしにこの首飾りをお授けになり、エイグロフ山脈の麓、自らの聖地に向かうよう指示されました」

 テオの胸元で、あの、太った蛙とも、羽のない蝙蝠ともつかない生き物を形象にした飾りが、ぬめりと輝く。あるいは、ツァトゥグァ御大をかたどっているのかもしれない。

(この形、やはりどこかで――)

 初めて見た時、そう感じたのは――。

(そうだ、思い出した――!)

 やはり、思い過ごしではなかった。

 記憶はエイボンが幼い頃、父ミラーブがまだ、イックァの街で文書管理官をしていた頃までさかのぼる。

 ミラーブの趣味は、古代の伝承の研究だった。そのために集めていた古書の中に、ちらりとだが確かに見たのだ。

 原料不明のインクと、おどろおどろしい筆使いでもって、その奇怪な姿が描かれているのを。

(あれがツァトゥグァだったのか)

 イホウンデー神官たちは、それを異端の証拠とでっち上げ、ミラーブを追放させたのだ。

 そのツァトゥグァと、こんな形で再び巡り合うとは――これも運命なのか。

「聖地にこの首飾りをささげ、儀式を行え。さすれば、永遠に父から逃れることが叶うと、ツァトゥグァは仰いました。しかし、儀式にはどうしても、魔道士の方の補助が必要なのです」

「――それで、私を?」

「はい――打ち明けるべきだとは、何度も思いました。しかし、その場合、自分のことや、父のことも話さなければならず――どうしても言えなかった」

 テオは、悲しげな微笑みを浮かべる。祭壇に向かう、生贄の乙女のように。

 ――恐ろしいでしょう? だましていたのかと、おいきどおりでしょう? それでいい。それが人として、当然の反応――だから。

『どうぞ、お逃げ下さい』

 テオの声無き声を、エイボンは確かに聞いた。

 変わり果てた師匠を目にした時にも感じた、動物的な逃走本能が沸き起こる。足が勝手に動き出す。テオに背中を向けたくなる。そのまま闇雲に――。

 ――逃げ出そうとしたエイボンの脳裏を、テオの言葉が過ぎる。

『――父から、逃げたかったのです』

(そうだったのか――)

 彼女もまた、逃亡者だったのだ。横暴な父から、呪われた出自から、必死で逃げ続けていたのだ。

『逃げることは、悪いことではありません』

(だからだったのか――)

 彼女も知っているのだ。寄るも無く、先の見えない逃亡の日々の心細さを。それでも、逃げざるを得なかった者の悲哀を。

(この人は――)

 自分と同じだ。

 ふわふわと、足が浮かぶような感覚が徐々に消え――しっかりと、両足で大地を踏みしめる。

「逃げたくない――」

 気が付くと、エイボンはそう言っていた。テオが、はっと顔を上げる。

「逃げたくありません」

 今度は、意識して言葉にする。そうしてみて、確信した。それが偽らざる本音であることを。

「逃げてもいい、そう言ってくれた、あなたからは――」

 ――逃げたくない。

 矛盾? いや、少なくとも、エイボンにとっては、矛盾などしていない。

 そうだ。テオはあの言葉で、自分を過去から解き放ってくれた、恩人ではないか。その彼女から逃げるということは、彼女が与えてくれた救いからも、逃げ出すということだ。

 それだけは、できない。

「手伝わせて下さい。あなたの逃亡を」

「エイボン様――」

 テオの瞳は、期待と自制の狭間はざまで、激しく揺れている。自分のためではない。エイボンのために、迷っている。

「信じて頂けるのですか――ずっと黙っていたのに」

「私が訊こうとしなかったからです」

「わたくしは、怪物なのですよ――」

「でも、私を救ってくれました」

 テオは何度も促した。無理しなくていい、逃げてもいいと。

 だが、やがて彼女にも分かったようだ。逃げないという誓いにむくいる、最善の方法、それは。

「――分かりました。わたくしも、あなたを信じます」

 自分も、逃げないことだと。

「ありがとうございます、エイボン様――本当に」

「何、逃亡者同士、困った時はお互い様ですよ」

「はい! 改めて、よろしくお願いいたします!」

(テオさん、あなたはこうも言いましたね)

 さすがに照れ臭くて言えなかった事を、心の中だけで反芻はんすうする。

『逃げた先で見つかる道もありましょう――ただ一つ、生きることからさえ、逃げなければ』

(だから、逃げません。あなたからだけは)

 どうしても、逃げられないものと出会う時。

 人は、それを運命と呼ぶのかもしれない。


 *


 かくて、それからも、二人の旅は続いた。

 しかし、これまでに比べれば、遥かに楽な旅路だった。他でもない。テオが最早、正体を隠す必要がなくなったせいだ。何が襲って来ようが、どうにでもなった。

「エイボン様、危ない!」

 刃物状に変形させた腕を一閃、巨大タランチュラを真っ二つにするテオ。

「ご安心下さい。あなたは、わたくしがお守りします」

「た、助かります」

 にっこり微笑むテオを、頼もしいと思う反面、少し――いや、本当にほんの少しだが、怖いと思ってしまったのは、まあ不可抗力と言うべきか。

 そして、コモリオムの廃墟を出て、三日後の夕刻。

 二人は、ついに目的地に辿り着いた。

「ここが――?」

「はい、今は失われた民が、ツァトゥグァに祈りを捧げた聖地――ついに辿り着きましたわ」

 そこは、密林を見下ろす、小高い丘だった。頂上には、明らかに人工物――少なくとも、知性ある何者かの手になる石柱が、円を描いて並べられている。その表面には、奇怪だが精緻な紋様が、隙間なく刻まれていた。

 地平線に目を向ければ、黒々としたエイグロフ山脈が、まるで壁のように密林を遮っているのが見える。その中でも、一際天高くそびえるのは。

(ヴーアミタドレス山――)

 大陸の最高峰、その名は、山中の洞窟に群れるヴーアミ族にちなむ。他にも、知られざる脅威が多数潜むと言われ、有名な探険家ラリバール・ヴーズ卿も、かの山に挑んで消息を絶っている。

「それで、儀式とは、何をすればいいのですか」

 問いかけるエイボン。

 しかし、返事はない。

「――テオさん?」

「――あ、はい、ご説明いたします」

 はっと我に返るテオ。直前まで彼女は、夕焼けに燃え上がる空を、ぼんやりと見つめていた。

(テオさん――)

 エイボンの脳裏に、昨晩の出来事が過ぎる。

 焚き火の前で、地図を見ていた時だった。この調子なら、明日の夕方には目的地に着けることを確認し、テオにもそう告げたのだ。

 てっきり、輝くような笑顔を返してくれるものとばかり、思っていたのに。

『――はい、エイボン様のおかげですわ』

 テオの笑顔は――強張っていた。

 その時は、揺らめく焚き火のせいで、そんな風に見えたのだと思っていたが――見間違いではなかった。目的地が近付くにつれ、テオの顔の陰りは、どんどん濃くなっていった。

 そして、今。

 テオは、最早、作り笑顔さえ浮かべられない様子だった。

(一体、どうしたのだろう。全てを打ち明けて、迷いは消えたはずでは――)

 今さら彼女を疑う気など、毛頭無いが――訊こうとしたエイボンの機先を制するように、テオが歩み出る。

 円を描く石柱群の中心には、石の台座が鎮座している。何やら、黒い染みで汚れているその上に、ツァトゥグァから授かったという、あの首飾りを供える。

「難しくはありません。意識をこの首飾りに絞り、わたくしに続いて、ツァトゥグァへの祈祷きとう文を唱えて下さい。さすれば、首飾りと聖地の魔力が共鳴し、遥かなるサイクラノーシュへの道が開かれます」

(サイクラノーシュ――!?)

 平然とテオが口にしたその言葉に、エイボンは愕然とする。

 サイクラノーシュ――師匠の蔵書、それもとりわけ古く貴重なものの中に、その名はひっそりと記されていた。異形の神々と、その下僕が住まうという、伝説の星だ。

エイボンにとっては、実在すら定かでない存在。しかし、テオがそんな法螺ほらを吹くはずがない。

「さすがの父も、サイクラノーシュまでは、追って来られないでしょう。わたくしも、一安心ですわ」

(――え?)

 どくん。エイボンの心臓が跳ね上がる。

『聖地にこの首飾りを捧げ、儀式を行え。さすれば、永遠に父から逃れることが叶うと、ツァトゥグァは仰いました』

 そうだ、テオは確かにそう言った。

(永遠に父から逃げられる――こういう意味だったのか)

 どくん、どくん。心臓が早鐘のように鳴る。

 無論、不吉な予感に。

(永遠に――)

「それでは、お願いします。イア! イア! イア! グルフ=ヤ、ツァトゥグァ!」

 テオは早くも、祈祷文を唱え始める。まるで、考える隙を与えまいとしているかのように。

 他にどうしようもなく、エイボンも後に続く。テオは背を向けていて、その表情をうかがうことはできなかった。

「イア! イア! イア! グノス=イカッガ=ハ! ツァトゥグァ!」

 何語なのだろう。ツァトゥグァの名以外は、全く意味が分からない単語の羅列。間違えまいと、必死で唱え続け――どれぐらい、続けた時だったか。

 突如、凄まじい風が巻き起こった。

 いや、本当に風なのか。木の枝がへし折れ、小石が舞う程の強さなのに、なぜか、自分の長衣やテオの髪は、そよとも揺れない。それもそのはず。石柱群の周囲だけは、凪のように静かなのだ。

 不思議な暴風は、上空の雲すら渦巻かせ――。

(いや、違う、あれは――)

 それに気付けたのは、魔道士の直感だろうか。雲が渦巻いているのではない。空間そのものが、渦巻状に捩れているのだ。風のように見えるのは、空間の捩れに伴う、重力の変化だ。

「イ、イア! イア!」

 必死で唱え続ける内にも――そう、奇跡と呼ぶべき事態は、進行していく。捩れの中心が、ぼこりとへこみ、巨大な穴になり――。

(あれは――まさか――!?)

 空に開いた穴の向こうに、エイボンは確かに見た。巨大な輪を抱いた、奇怪にして神々しいその姿を。

(サイクラノーシュ――神々の住まう星)

 そして。

 テオの足が、ふわりと浮かび上がる。そのまま、サイクラノーシュへ向かって――。

「イア! イ――ま、待ってくれ!」

 エイボンは、思わず叫んでいた。

 祈祷を中断した途端、世界はあっという間に、元の姿に戻った。空間の捩れは正され、穴は塞がり、テオはすとんと地に降り立つ。

 テオは――なぜか、怒りも驚きもしなかった。

「す、すみません! ですが、一つだけ教えて下さい。サイクラノーシュへ渡った後、再びこちらへ戻ることは可能ですか?」

 テオは、なぜそんなことを訊くのかという顔を――しなかった。

「おそらく――無理です」

 それを聞いた瞬間、エイボンは全てをかなぐり捨てていた。恥も外聞も、建前も理性も。

 残ったのは、ありのままの心のみ。

(嫌だ――テオさんと、二度と会えなくなるなんて!)

「テオさん、無理を承知でお願いします! この星に残ってくれませんか!? その代わり、私が必ず、父上からお守りします!」

「エイボン様――」

 そう――あのテオが、気付いていない訳がない、エイボンの思いに。

 そして、彼女自身も迷っているからこそ。

「わたくしも――あなたと共にいたい」

 こんなににも、苦しそうなのではないか。

「ごめんなさい、エイボン様――信じると言っておきながら、わたくしは、まだ隠し事をしていました」

「――テオさんは、何も隠してなどいませんよ」

 そう、確かに彼女は言った。ここに来れば、永遠に父から逃げられると。ただ、彼女は気付いていなかっただけなのだ。

 逃亡の代償に、失うものがあることに。

 そう、代償のない逃亡など、有り得ないのだ。

「父から逃げ、自由になる――それだけが、わたくしの生きる目的でした。しかし、わたくしは、自分が思っているより、遥かに欲深かったようです」

 テオは、夢見る少女のような瞳で語る。自分には、未来には、無限の可能性があるのだと、心から信じているかのような。

「もっと、色々な場所を旅したい。色々な経験をしてみたい――あなたと共に」

「ええ、私もです。ですから――」

「でも、無理なんです!」

 一転、悲痛な叫びが、全てを遮る。エイボンの言葉も、思いも。

「そんなことをすれば、あなたを絶対の危機に巻き込んでしまう――なぜなら、わたくしの父は――」

 テオが言いかけた、その時――。

 ――ずんっ、と突き上げるような衝撃が、二人を襲った。密林の鳥たちが、一斉に羽ばたく。

「な、何だ――?」

 大地が震えている。あたかも、これから起こる事に、恐怖しているかのように。

 高い場所から俯瞰ふかんしていたため、木々の揺れ方で分かった。震動の中心は――。

(ヴーアミタドレス山か!?)

 ばりばりばりっ! 雷鳴のような轟音と共に、ヴーアミタドレスの山肌に、幾本もの亀裂が走る。

(噴火? いや、あの山は、火山ではないはず――)

 エイボンの記憶は正しい。その証拠に、亀裂から、天をく勢いで噴出し始めたのは、溶岩ではなかった。

 得体の知れない、灰色の粘液だった。

「あ――あ――」

 テオがよろめく。

「テオさん!?」

 慌てて支えるエイボン。テオの顔は、蒼白だった。彼女の顔色の意味が、人と同じなのかは定かでないが、それだけは見間違えようがない。

 その瞳を塗り潰す、絶望の色だけは。

 灰色の粘液は、雪崩と化して山肌を下り、その麓に灰色の湖を形成していく。そして――ざわざわざわ――。

「!!」

 湖が動き出した。

 津波のように、密林を削り取りながら、最高級の走竜の、さらに十倍近い速度で――間違いない、真っ直ぐにここを目指している。

 有り得ない、自然の動きなどでは。

 ――意思がある、生きているのだ。

 ひざまけ、平伏せよ。執拗しつようにそう命じる本能に、エイボンは必死であらがう。恐怖――ではない。これは畏怖いふ。人が、上位の存在に対して抱く感情。

 例えば、神に対して。

 押し潰されそうなエイボンに、テオの呟きが止めを刺す。

「見つかってしまった――お父様に――」

「父親――あれが!?」

「はい、全ての不浄なるものの父にして母、アブホース――わたくしの、生みの親です――」

 呆然と、生ける灰色の湖を見下ろすエイボン。テオの“父親”――人であろうはずがないとは思っていたが、まさかあんなものだったとは。

(守るだと――あんなものから、どうやって――?)

 笑うしかないエイボン。知らなかったとは言え、何と滑稽こっけいだったことだろう。テオもよく、真面目に聞いてくれたものだ。

 ぼこぼこぼこ――湖面、いや、アブホースの表面の、至る所が盛り上がり、形を変えていく。

 それらは、獣に似て。あるいは、昆虫に似て、魚介類に似て、植物に似て。しかし、同じ形のものは、一つとて無い。

(子供、なのか――アブホースの――ま、まさか)

 他に考えようがない。テオも、ああして生まれたのだ。

 爆発するように込み上げてきた吐き気を、死に物狂いで堪えるエイボン。当然だ。そんな事をしたら、テオは――。

 ――ただ、微笑みを浮かべるだけだろう。そして、全てを許してくれるのだろう。傷付いてなど、いない振りをして。

 アブホースの子供たち――つまり、テオの弟妹なのか――は、親からい出ようと、未発達な手足でもがくが。

 ぎぇぇぇ――ぐぇぇぇ――ぎょわぁぁぁ――。

 それは叶わず、アブホースが伸ばした触手に捕まり、あるいはぱっくりと開いた口に飲み込まれ、あまりに短い生涯を終える。

 テオが言った通りだった。子供に一切の自由を認めない、不寛容極まる親神アブホース。

(も、もう、あんな所まで――)

 アブホースはすでに、ヴーアミタドレス山とここの中間点に到達しようとしている。彼が通った後には、草一本残っていない。

(とても逃げられない――ならば、せめて)

 もう一度儀式を行い、テオだけでも――そう覚悟を決めて、振り返ったエイボンが見たのは。

 輝くような、テオの笑顔だった。これまでの中でも、最高の。

「エイボン様――今まで、ありがとうございました」

 なぜ、そんな顔ができるのか、エイボンには分からなかった。なぜなら――。

「わたくしは、父の御許みもとへ戻ります」

 ――彼女が、そう言おうとしているのが、分かったから。

「まだ遅くはない! もう一度儀式を――!」

「その後、エイボン様はどうなりますか?」

 ぐっと言葉に詰まるエイボン。彼の覚悟など、テオにはお見通しだった。

「それに、犠牲がエイボン様だけで済むかどうか。もし、わたくしを逃した父が、怒りに任せて暴れたら、大変なことになります」

 テオの言うとおりだ。あんなものが、ウズルダロウムに辿り着いたら――今度こそ、王国の歴史は終わる。

「いいのです。短い間でしたが、人として過ごせて、テオは幸せでした」

 どうしようもない、これ以上は、何を言っても子供の駄々だ。分かってはいるが、言わずにはいられない。

「生きることからだけは、逃げてはいけない! そう言ってくれたのは、テオさんじゃないですか――」

「ええ、逃げませんよ」

 え? 思わずきょとんとしたエイボンの前で。

 テオは背中から、白い翼を広げ。

「最後の最後まで生きます。あなたとの思い出を胸に」

 流星のように、夕焼けに燃える空に飛び立つ。その姿は、なるほど、神の娘に相応ふさわしい美しさで――。

 ――がばりと開いたアブホースの口に、その姿が消える瞬間も、エイボンは一言も発することができなかった。


 *


 どれぐらい、そうしていたのだろう。

 エイボンは呆然と、ヴーアミタドレス山に引き返していくアブホースを見つめていた。

 目的さえ果たせば、他のものに興味はないらしい。エイボンに至っては、そもそも気付いてさえいないだろう。人が、環境中の微生物に気付かないのと同様に。

 無害、無価値、ゆえに無視。

 人が神に滅ぼされずにいるのは、たったそれだけの理由でしかない。

「人は――私は――何と無力なのだろう」

 がくりと膝を突くエイボン。突いているのは、大地にではない。神のてのひらの上にだ。もし、何かの気まぐれで、握り締められでもしたら、いともあっさり潰されるだろう。

 逃げることすら、叶わずに。

(テオさんも逃げられなかった――逃がしてやれなかった――)

 ツァトゥグァの首飾りが、祭壇に残されている。それだけが、テオがこの世にいた証――。

(それだけ――?)

 本当に――?

(いや、そうではない)

 だとしたら、この痛みは何だ。この、内臓を捻られるような、別離の痛みは。

(私は、彼女を覚えている)

 そして、おそらく、この世で唯一、彼女の真実を知っている。

 温もりも痛みも、全て彼女が残してくれたものだ。

(これだけは、奪わせはしない――たとえ、神にも)

 立ち上がるエイボン。たったそれだけのことに、凄まじい気力が必要だった。それでも、彼はやり遂げた。

(逃げ切ってみせる!)

 テオの思い出と共に。

 テオが、最後の最後まで、そうしてくれたように。

 彼は気付いているのだろうか。逃亡者と呼ぶには、あまりに強い光が、己の双眸に宿っていることに。

(そのためになら、何でも利用してやる――一度は逃げ出した魔術の道でも、同じ神の力でも!)

 ツァトゥグァの首飾りを握り締める。耳まで裂けたその口が、不敵に笑っている。エイボンの覚悟を、面白がるように。

 エイボンは思った。師匠の館になら、この神について記した書物が、残されているかもしれないと。

 ・

 ・

 ・

 ・

 ・




 *


 それから、百数十年後――。

 サイクラノーシュの、金属の大地にて。

 ツァトゥグァの首飾りを手に、空に輝く大いなる輪を見上げながら、エイボンは呟いた。

「見ているか、テオ――ここには、頑迷な神官どもも、忌まわしきアブホースもいない。我らは――自由だ」


【参考文献】


 クトゥルフ神話カルトブック エイボンの書(新紀元社、C・A・スミス、リン・カーター/著、ロバート・M・プライス/編、坂本 雅之、中山 てい子、立花 圭一/訳)

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永遠の逃亡者 上倉ゆうた @ykamikura

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