後編
(テオ――さん?)
エイボンは我が目を疑った。
テオの黄金の髪が、無限長に伸びて、ヴーアミ族どもをがんがら締めにしていたのだ。
ヴーアミ族どもは必死で身を
ぐしゃり!
潰した。熟れたスヴァナ果の
「お退きなさい。さもなくば、このようになりますよ」
原型を留めていない死体を、残りのヴーアミ族の前に放り出して、脅しつける。仮面のような無表情で、あくまで淡々とした口調で。
その姿は、あたかも美しくも無慈悲な、
ぐらぐらと視界が
目は確かに眼前の光景を映しているのに、心がそれを受け止め切れていない。結果、認識のずれが生じ、そんな感覚を引き起こしているのだ。
(テオさん――なのか、あれが?)
彼女でなければ、誰だと言うのだ。
という、理性の
(あなたは、一体――)
「ヒ、ヒ―――ッ!?」
ヴーアミ族どもの醜い顔が、ああまで見事に恐怖を表現できるものか。ばらばらと骨槍を投げ出し、後ずさり始める。
いや、一匹だけ踏み止まっているのがいる。あの呪い師だ。
「グギャー! ウルダ、ヤシムダ!」
逃げるな、命令だぞ、とでも言っているのだろうか。本音は自分も逃げたいのかもしれないが、ヴーアミ族にも
その手に握る杖に、ばちばちと青白い電光が宿る。元素の矢の術だ。直撃すれば、竜すら倒す。しかし、それを放つことは叶わなかった。
百条に分かれてのたうつテオの髪の一条が、ざびゅっ! 死神の大鎌と化して、呪い師ヴーアミの首を
一瞬後、そこに立っていたのは、ぴゅいいと笛のような音を立てて、首から血を噴出す、首無しの
指導者の無残な最期に、ヴーアミ族の士気は、今度こそ崩壊した。悲鳴を上げ、我先にと密林に逃げ散っていく。
それを見届けて、テオの髪はしゅるしゅると元の長さに戻っていく。獲物を平らげて満腹した蛇が、巣穴に引っ込むように。
何とおぞましい。
(違う――こんなものが、テオさんであるはずがない――)
どこへ行ってしまったのだ。自分の過去を受け止め、癒してくれた、あのテオは。
*
これは、テオではない。
知らない間に、外見だけはそっくりな、別の何かと入れ替わったのだ。
その解釈の方が、まだ受け容れ易かった。しかし――。
「――黙っていて、ごめんなさい」
振り返ったテオは、間違いなく、エイボンの知っているテオと同一人物だった。
テオは、胸に刃でも突き立てられているかのような表情だった。月光を背にしたその姿は、散り逝く花のように
しかし、その黄金の髪には、べったりとヴーアミ族の血がこびり付いている。あの光景もまた、間違いなく現実だったのだ。
エイボンは沈黙を破れない。自分の口からどんな言葉が飛び出すか、自分でも分からなくて。
そんなエイボンとは対照的に、テオは淡々と告白を続ける。まるで、観念した罪人のように。
「御覧になった通りです。わたくしは、人ではありません。この姿は、擬態に過ぎません」
テオは、そっとその細い腕を上げ――めきめきと変形させる。白い肌が硬質化し、指が一体化し――一瞬後、それは全長1エルにも及ぶ
思わず息を飲むエイボン。髪だけではなかった。細胞の一つ一つからして、人とは違っているのだ。
「なぜ、私を同行させたのですか――」
半ば麻痺した喉を、無理矢理動かして、何とかそれだけは
「――父から、逃げたかったのです」
ぴくり、エイボンの肩が震える。
逃げる。あまりに馴染み深い言葉を、テオの口から聞いて。
あえてそうしているのであろう、感情を込めない淡々とした声で、テオは語った。
テオの父親は、あまりにも心が狭かった。
子供を自分の一部としか見ず、一切の自由を認めない。そんな父の元での生活に嫌気が差し、逃げ出してきたのだという。
「あの――あなたの“お父上”というのは――」
薄々分かってはいたが、口を挟まずにはいられなかった。
「ええ――
ぎゅっと我が身を抱えるテオ。その顔が青ざめて見えるのは、決して月光のせいばかりではない。
思わず唾を飲み込むエイボン。凶暴なヴーアミ族を、虫けらのように潰してみせたテオが――一体、彼女の“父親”とは、何者なのか。
「父は執念深い方です。逃げ続けても、いずれは見つかる――そう考えたわたくしは、同じく人智を超えた存在、ツァトゥグァ神を頼ったのです」
「ツァ――トゥグァ?」
そんな名前の神、聞いたこともない。
「はい。またの名をゾタクア。聖なる
ツァトゥグァ、何と奇怪な名だろう。まるで、人間の声帯で発することを、前提にしていないかのような――。
「ツァトゥグァは、わたくしにこの首飾りをお授けになり、エイグロフ山脈の麓、自らの聖地に向かうよう指示されました」
テオの胸元で、あの、太った蛙とも、羽のない蝙蝠ともつかない生き物を形象にした飾りが、ぬめりと輝く。あるいは、ツァトゥグァ御大を
(この形、やはりどこかで――)
初めて見た時、そう感じたのは――。
(そうだ、思い出した――!)
やはり、思い過ごしではなかった。
記憶はエイボンが幼い頃、父ミラーブがまだ、イックァの街で文書管理官をしていた頃まで
ミラーブの趣味は、古代の伝承の研究だった。そのために集めていた古書の中に、ちらりとだが確かに見たのだ。
原料不明のインクと、おどろおどろしい筆使いでもって、その奇怪な姿が描かれているのを。
(あれがツァトゥグァだったのか)
イホウンデー神官たちは、それを異端の証拠とでっち上げ、ミラーブを追放させたのだ。
そのツァトゥグァと、こんな形で再び巡り合うとは――これも運命なのか。
「聖地にこの首飾りを
「――それで、私を?」
「はい――打ち明けるべきだとは、何度も思いました。しかし、その場合、自分のことや、父のことも話さなければならず――どうしても言えなかった」
テオは、悲しげな微笑みを浮かべる。祭壇に向かう、生贄の乙女のように。
――恐ろしいでしょう?
『どうぞ、お逃げ下さい』
テオの声無き声を、エイボンは確かに聞いた。
変わり果てた師匠を目にした時にも感じた、動物的な逃走本能が沸き起こる。足が勝手に動き出す。テオに背中を向けたくなる。そのまま闇雲に――。
――逃げ出そうとしたエイボンの脳裏を、テオの言葉が過ぎる。
『――父から、逃げたかったのです』
(そうだったのか――)
彼女もまた、逃亡者だったのだ。横暴な父から、呪われた出自から、必死で逃げ続けていたのだ。
『逃げることは、悪いことではありません』
(だからだったのか――)
彼女も知っているのだ。寄る
(この人は――)
自分と同じだ。
ふわふわと、足が浮かぶような感覚が徐々に消え――しっかりと、両足で大地を踏みしめる。
「逃げたくない――」
気が付くと、エイボンはそう言っていた。テオが、はっと顔を上げる。
「逃げたくありません」
今度は、意識して言葉にする。そうしてみて、確信した。それが偽らざる本音であることを。
「逃げてもいい、そう言ってくれた、あなたからは――」
――逃げたくない。
矛盾? いや、少なくとも、エイボンにとっては、矛盾などしていない。
そうだ。テオはあの言葉で、自分を過去から解き放ってくれた、恩人ではないか。その彼女から逃げるということは、彼女が与えてくれた救いからも、逃げ出すということだ。
それだけは、できない。
「手伝わせて下さい。あなたの逃亡を」
「エイボン様――」
テオの瞳は、期待と自制の
「信じて頂けるのですか――ずっと黙っていたのに」
「私が訊こうとしなかったからです」
「わたくしは、怪物なのですよ――」
「でも、私を救ってくれました」
テオは何度も促した。無理しなくていい、逃げてもいいと。
だが、やがて彼女にも分かったようだ。逃げないという誓いに
「――分かりました。わたくしも、あなたを信じます」
自分も、逃げないことだと。
「ありがとうございます、エイボン様――本当に」
「何、逃亡者同士、困った時はお互い様ですよ」
「はい! 改めて、よろしくお願いいたします!」
(テオさん、あなたはこうも言いましたね)
さすがに照れ臭くて言えなかった事を、心の中だけで
『逃げた先で見つかる道もありましょう――ただ一つ、生きることからさえ、逃げなければ』
(だから、逃げません。あなたからだけは)
どうしても、逃げられないものと出会う時。
人は、それを運命と呼ぶのかもしれない。
*
かくて、それからも、二人の旅は続いた。
しかし、これまでに比べれば、遥かに楽な旅路だった。他でもない。テオが最早、正体を隠す必要がなくなったせいだ。何が襲って来ようが、どうにでもなった。
「エイボン様、危ない!」
刃物状に変形させた腕を一閃、巨大タランチュラを真っ二つにするテオ。
「ご安心下さい。あなたは、わたくしがお守りします」
「た、助かります」
にっこり微笑むテオを、頼もしいと思う反面、少し――いや、本当にほんの少しだが、怖いと思ってしまったのは、まあ不可抗力と言うべきか。
そして、コモリオムの廃墟を出て、三日後の夕刻。
二人は、ついに目的地に辿り着いた。
「ここが――?」
「はい、今は失われた民が、ツァトゥグァに祈りを捧げた聖地――ついに辿り着きましたわ」
そこは、密林を見下ろす、小高い丘だった。頂上には、明らかに人工物――少なくとも、知性ある何者かの手になる石柱が、円を描いて並べられている。その表面には、奇怪だが精緻な紋様が、隙間なく刻まれていた。
地平線に目を向ければ、黒々としたエイグロフ山脈が、まるで壁のように密林を遮っているのが見える。その中でも、一際天高くそびえるのは。
(ヴーアミタドレス山――)
大陸の最高峰、その名は、山中の洞窟に群れるヴーアミ族にちなむ。他にも、知られざる脅威が多数潜むと言われ、有名な探険家ラリバール・ヴーズ卿も、かの山に挑んで消息を絶っている。
「それで、儀式とは、何をすればいいのですか」
問いかけるエイボン。
しかし、返事はない。
「――テオさん?」
「――あ、はい、ご説明いたします」
はっと我に返るテオ。直前まで彼女は、夕焼けに燃え上がる空を、ぼんやりと見つめていた。
(テオさん――)
エイボンの脳裏に、昨晩の出来事が過ぎる。
焚き火の前で、地図を見ていた時だった。この調子なら、明日の夕方には目的地に着けることを確認し、テオにもそう告げたのだ。
てっきり、輝くような笑顔を返してくれるものとばかり、思っていたのに。
『――はい、エイボン様のおかげですわ』
テオの笑顔は――強張っていた。
その時は、揺らめく焚き火のせいで、そんな風に見えたのだと思っていたが――見間違いではなかった。目的地が近付くにつれ、テオの顔の陰りは、どんどん濃くなっていった。
そして、今。
テオは、最早、作り笑顔さえ浮かべられない様子だった。
(一体、どうしたのだろう。全てを打ち明けて、迷いは消えたはずでは――)
今さら彼女を疑う気など、毛頭無いが――訊こうとしたエイボンの機先を制するように、テオが歩み出る。
円を描く石柱群の中心には、石の台座が鎮座している。何やら、黒い染みで汚れているその上に、ツァトゥグァから授かったという、あの首飾りを供える。
「難しくはありません。意識をこの首飾りに絞り、わたくしに続いて、ツァトゥグァへの
(サイクラノーシュ――!?)
平然とテオが口にしたその言葉に、エイボンは愕然とする。
サイクラノーシュ――師匠の蔵書、それもとりわけ古く貴重なものの中に、その名はひっそりと記されていた。異形の神々と、その下僕が住まうという、伝説の星だ。
エイボンにとっては、実在すら定かでない存在。しかし、テオがそんな
「さすがの父も、サイクラノーシュまでは、追って来られないでしょう。わたくしも、一安心ですわ」
(――え?)
どくん。エイボンの心臓が跳ね上がる。
『聖地にこの首飾りを捧げ、儀式を行え。さすれば、永遠に父から逃れることが叶うと、ツァトゥグァは仰いました』
そうだ、テオは確かにそう言った。
(永遠に父から逃げられる――こういう意味だったのか)
どくん、どくん。心臓が早鐘のように鳴る。
無論、不吉な予感に。
(永遠に――)
「それでは、お願いします。イア! イア! イア! グルフ=ヤ、ツァトゥグァ!」
テオは早くも、祈祷文を唱え始める。まるで、考える隙を与えまいとしているかのように。
他にどうしようもなく、エイボンも後に続く。テオは背を向けていて、その表情を
「イア! イア! イア! グノス=イカッガ=ハ! ツァトゥグァ!」
何語なのだろう。ツァトゥグァの名以外は、全く意味が分からない単語の羅列。間違えまいと、必死で唱え続け――どれぐらい、続けた時だったか。
突如、凄まじい風が巻き起こった。
いや、本当に風なのか。木の枝がへし折れ、小石が舞う程の強さなのに、なぜか、自分の長衣やテオの髪は、そよとも揺れない。それもそのはず。石柱群の周囲だけは、凪のように静かなのだ。
不思議な暴風は、上空の雲すら渦巻かせ――。
(いや、違う、あれは――)
それに気付けたのは、魔道士の直感だろうか。雲が渦巻いているのではない。空間そのものが、渦巻状に捩れているのだ。風のように見えるのは、空間の捩れに伴う、重力の変化だ。
「イ、イア! イア!」
必死で唱え続ける内にも――そう、奇跡と呼ぶべき事態は、進行していく。捩れの中心が、ぼこりとへこみ、巨大な穴になり――。
(あれは――まさか――!?)
空に開いた穴の向こうに、エイボンは確かに見た。巨大な輪を抱いた、奇怪にして神々しいその姿を。
(サイクラノーシュ――神々の住まう星)
そして。
テオの足が、ふわりと浮かび上がる。そのまま、サイクラノーシュへ向かって――。
「イア! イ――ま、待ってくれ!」
エイボンは、思わず叫んでいた。
祈祷を中断した途端、世界はあっという間に、元の姿に戻った。空間の捩れは正され、穴は塞がり、テオはすとんと地に降り立つ。
テオは――なぜか、怒りも驚きもしなかった。
「す、すみません! ですが、一つだけ教えて下さい。サイクラノーシュへ渡った後、再びこちらへ戻ることは可能ですか?」
テオは、なぜそんなことを訊くのかという顔を――しなかった。
「おそらく――無理です」
それを聞いた瞬間、エイボンは全てをかなぐり捨てていた。恥も外聞も、建前も理性も。
残ったのは、ありのままの心のみ。
(嫌だ――テオさんと、二度と会えなくなるなんて!)
「テオさん、無理を承知でお願いします! この星に残ってくれませんか!? その代わり、私が必ず、父上からお守りします!」
「エイボン様――」
そう――あのテオが、気付いていない訳がない、エイボンの思いに。
そして、彼女自身も迷っているからこそ。
「わたくしも――あなたと共にいたい」
こんなににも、苦しそうなのではないか。
「ごめんなさい、エイボン様――信じると言っておきながら、わたくしは、まだ隠し事をしていました」
「――テオさんは、何も隠してなどいませんよ」
そう、確かに彼女は言った。ここに来れば、永遠に父から逃げられると。ただ、彼女は気付いていなかっただけなのだ。
逃亡の代償に、失うものがあることに。
そう、代償のない逃亡など、有り得ないのだ。
「父から逃げ、自由になる――それだけが、わたくしの生きる目的でした。しかし、わたくしは、自分が思っているより、遥かに欲深かったようです」
テオは、夢見る少女のような瞳で語る。自分には、未来には、無限の可能性があるのだと、心から信じているかのような。
「もっと、色々な場所を旅したい。色々な経験をしてみたい――あなたと共に」
「ええ、私もです。ですから――」
「でも、無理なんです!」
一転、悲痛な叫びが、全てを遮る。エイボンの言葉も、思いも。
「そんなことをすれば、あなたを絶対の危機に巻き込んでしまう――なぜなら、わたくしの父は――」
テオが言いかけた、その時――。
――ずんっ、と突き上げるような衝撃が、二人を襲った。密林の鳥たちが、一斉に羽ばたく。
「な、何だ――?」
大地が震えている。あたかも、これから起こる事に、恐怖しているかのように。
高い場所から
(ヴーアミタドレス山か!?)
ばりばりばりっ! 雷鳴のような轟音と共に、ヴーアミタドレスの山肌に、幾本もの亀裂が走る。
(噴火? いや、あの山は、火山ではないはず――)
エイボンの記憶は正しい。その証拠に、亀裂から、天を
得体の知れない、灰色の粘液だった。
「あ――あ――」
テオがよろめく。
「テオさん!?」
慌てて支えるエイボン。テオの顔は、蒼白だった。彼女の顔色の意味が、人と同じなのかは定かでないが、それだけは見間違えようがない。
その瞳を塗り潰す、絶望の色だけは。
灰色の粘液は、雪崩と化して山肌を下り、その麓に灰色の湖を形成していく。そして――ざわざわざわ――。
「!!」
湖が動き出した。
津波のように、密林を削り取りながら、最高級の走竜の、さらに十倍近い速度で――間違いない、真っ直ぐにここを目指している。
有り得ない、自然の動きなどでは。
――意思がある、生きているのだ。
例えば、神に対して。
押し潰されそうなエイボンに、テオの呟きが止めを刺す。
「見つかってしまった――お父様に――」
「父親――あれが!?」
「はい、全ての不浄なるものの父にして母、アブホース――わたくしの、生みの親です――」
呆然と、生ける灰色の湖を見下ろすエイボン。テオの“父親”――人であろうはずがないとは思っていたが、まさかあんなものだったとは。
(守るだと――あんなものから、どうやって――?)
笑うしかないエイボン。知らなかったとは言え、何と
ぼこぼこぼこ――湖面、いや、アブホースの表面の、至る所が盛り上がり、形を変えていく。
それらは、獣に似て。あるいは、昆虫に似て、魚介類に似て、植物に似て。しかし、同じ形のものは、一つとて無い。
(子供、なのか――アブホースの――ま、まさか)
他に考えようがない。テオも、ああして生まれたのだ。
爆発するように込み上げてきた吐き気を、死に物狂いで堪えるエイボン。当然だ。そんな事をしたら、テオは――。
――ただ、微笑みを浮かべるだけだろう。そして、全てを許してくれるのだろう。傷付いてなど、いない振りをして。
アブホースの子供たち――つまり、テオの弟妹なのか――は、親から
ぎぇぇぇ――ぐぇぇぇ――ぎょわぁぁぁ――。
それは叶わず、アブホースが伸ばした触手に捕まり、あるいはぱっくりと開いた口に飲み込まれ、あまりに短い生涯を終える。
テオが言った通りだった。子供に一切の自由を認めない、不寛容極まる親神アブホース。
(も、もう、あんな所まで――)
アブホースはすでに、ヴーアミタドレス山とここの中間点に到達しようとしている。彼が通った後には、草一本残っていない。
(とても逃げられない――ならば、せめて)
もう一度儀式を行い、テオだけでも――そう覚悟を決めて、振り返ったエイボンが見たのは。
輝くような、テオの笑顔だった。これまでの中でも、最高の。
「エイボン様――今まで、ありがとうございました」
なぜ、そんな顔ができるのか、エイボンには分からなかった。なぜなら――。
「わたくしは、父の
――彼女が、そう言おうとしているのが、分かったから。
「まだ遅くはない! もう一度儀式を――!」
「その後、エイボン様はどうなりますか?」
ぐっと言葉に詰まるエイボン。彼の覚悟など、テオにはお見通しだった。
「それに、犠牲がエイボン様だけで済むかどうか。もし、わたくしを逃した父が、怒りに任せて暴れたら、大変なことになります」
テオの言うとおりだ。あんなものが、ウズルダロウムに辿り着いたら――今度こそ、王国の歴史は終わる。
「いいのです。短い間でしたが、人として過ごせて、テオは幸せでした」
どうしようもない、これ以上は、何を言っても子供の駄々だ。分かってはいるが、言わずにはいられない。
「生きることからだけは、逃げてはいけない! そう言ってくれたのは、テオさんじゃないですか――」
「ええ、逃げませんよ」
え? 思わずきょとんとしたエイボンの前で。
テオは背中から、白い翼を広げ。
「最後の最後まで生きます。あなたとの思い出を胸に」
流星のように、夕焼けに燃える空に飛び立つ。その姿は、なるほど、神の娘に
――がばりと開いたアブホースの口に、その姿が消える瞬間も、エイボンは一言も発することができなかった。
*
どれぐらい、そうしていたのだろう。
エイボンは呆然と、ヴーアミタドレス山に引き返していくアブホースを見つめていた。
目的さえ果たせば、他のものに興味はないらしい。エイボンに至っては、そもそも気付いてさえいないだろう。人が、環境中の微生物に気付かないのと同様に。
無害、無価値、ゆえに無視。
人が神に滅ぼされずにいるのは、たったそれだけの理由でしかない。
「人は――私は――何と無力なのだろう」
がくりと膝を突くエイボン。突いているのは、大地にではない。神の
逃げることすら、叶わずに。
(テオさんも逃げられなかった――逃がしてやれなかった――)
ツァトゥグァの首飾りが、祭壇に残されている。それだけが、テオがこの世にいた証――。
(それだけ――?)
本当に――?
(いや、そうではない)
だとしたら、この痛みは何だ。この、内臓を捻られるような、別離の痛みは。
(私は、彼女を覚えている)
そして、おそらく、この世で唯一、彼女の真実を知っている。
温もりも痛みも、全て彼女が残してくれたものだ。
(これだけは、奪わせはしない――たとえ、神にも)
立ち上がるエイボン。たったそれだけのことに、凄まじい気力が必要だった。それでも、彼はやり遂げた。
(逃げ切ってみせる!)
テオの思い出と共に。
テオが、最後の最後まで、そうしてくれたように。
彼は気付いているのだろうか。逃亡者と呼ぶには、あまりに強い光が、己の双眸に宿っていることに。
(そのためになら、何でも利用してやる――一度は逃げ出した魔術の道でも、同じ神の力でも!)
ツァトゥグァの首飾りを握り締める。耳まで裂けたその口が、不敵に笑っている。エイボンの覚悟を、面白がるように。
エイボンは思った。師匠の館になら、この神について記した書物が、残されているかもしれないと。
・
・
・
・
・
*
それから、百数十年後――。
サイクラノーシュの、金属の大地にて。
ツァトゥグァの首飾りを手に、空に輝く大いなる輪を見上げながら、エイボンは呟いた。
「見ているか、テオ――ここには、頑迷な神官どもも、忌まわしきアブホースもいない。我らは――自由だ」
【参考文献】
クトゥルフ神話カルトブック エイボンの書(新紀元社、C・A・スミス、リン・カーター/著、ロバート・M・プライス/編、坂本 雅之、中山 てい子、立花 圭一/訳)
永遠の逃亡者 上倉ゆうた @ykamikura
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます