好敵手
春義久志
好敵手
ぷすすすんと、儚くも情けない音を立ててエンジンが止まった。メーターを見ると、当然のように矢印はEを指している。溜息を漏らしながら歩道に原付を寄せる。
昨夕の帰宅の時点で、残り燃料がギリギリなことに気づいてはいた。しかしながら、ここ最近の寝不足が祟り寝坊に至った今朝の私には、国道を走りガソリンスタンドに寄るという選択肢は残っておらず、学校への最短距離をひた走ったわけである。結果、努力は実り、始業時間にはなんとか間に合ったのだが、どうやらそのツケが今になって回ってきたらしい。
「腹ペコのまま頑張ったね」
愛車のシートを撫でながら、お疲れ様と声をかける。最寄りのスタンドまで戻るか、一旦自宅まで戻ってからお父さんの軽トラでスタンドまで運んでもらうか。歩道を塞ぎながら行われた逡巡は、手入れのされていなさそうなブレーキの金切り声によって一時中断を余儀なくされた。
「ガス欠か?」
「そうみたい。スタンド行くの面倒だから、一度家まで乗っけてって」
「原チャのシートを今すぐ後輪にでも括りつけられるってんなら、考えてやらんこともない」
ボロボロの自転車に跨がる瑞希へと、私はブーイングを送る。
「練習サボってるようじゃ一軍は遠いんじゃないの」
「路肩で立ち止まってるからって心配したのにその言い草だもんな」
珍しく語気に不愉快さが滲んでいる。
才能があるかはさておき努力は人並み以上にしていると人伝に聞く、顔面中傷だらけな私の友人。昨春、市内の私立高校に進学していた。県大会決勝に毎年駒を進めるような強豪野球部に籍を置いているから、たとえ真夏でも、辺りが真っ暗になる頃にしか帰宅はできない。そんな高校球児ライフを満喫している筈の友人は、しかし今日に限っては既に家路を辿っているようだった。
「悪ぃけど、モヤモヤして堪んなくて、とっとと帰ってひとっ走り行きてんだ」
また今度な。そう言い残しペダルを踏み込んだ瞬間、なにか嫌な音が自転車から発せられた。危うく転びかけ、チェーンカバー付近を色々と弄る瑞希。
「マシントラブル?」
だらしのない声を上げて、瑞希は天を仰ぎ見る
「チェーン切れたくさい」
スラックスが汚れるのも構わずにアスファルトへとへたり込む姿を見て、私は財布と内緒話を始める。直にゴーサインは出た。
「サボりついでに一服しない?お茶代くらいなら出すよ」
毎日飽きもせず練習に勤しむ高校球児を労おうという私の誘いはしかし断られる。
「先に自転車屋寄らせてくれ。これが治らないと満足に朝練にも出れやしない」
土埃を払い立ち上がると、私と瑞希は互いに自転車と原付を引きながら国道脇を歩く。女子に道路側を歩かせるとは、まだまだ気遣いが足りないな。若干くたびれた風の横顔を眺め、私はふとそんなことを思う。
愛車の補給を終えた私と、自転車屋で整備を受けた瑞希。コンビニで清涼飲料水と間食を買い込むと、治ったばかりの愛車に乗り込み自宅の方へ向けて国道を走った。悠々と時速30kmオーバーで走る原付に、銀チャリはきちんと食らいついてくる。サイドミラーに目をやれば、運転手の顔色も苦しそうには見えない。現役体育会系の面目躍如といったところだろうか。
目的地に到着し、私はヘルメットを外した。中に篭った熱気と汗で髪はベタついている。制汗スプレーを取り出し吹き付ける間に自転車が追いつく。
「ちっとは気遣ってくれてもいいでしょうよ」
「走ったからモヤモヤも吹き飛んだんじゃない?」
「モヤモヤがヘトヘトに変わっただけだっつうの」
道路脇へ邪魔にならないように原付と自転車を止めて、私達は鳥居をくぐった。自宅からはさほど遠くなく、ほどほどの広さにそこそこの数の遊具。子供の遊び場としては上々であるこの神社で、小学生くらいまではよく遊んでいた。あの頃よりもずっと身体は大きくなっているはずであり、境内を狭く感じるのではと考えていたが、思っていたよりも境内は広く感じられる。訪れない間、子供の負傷防止や老朽化のために、いくつかの遊具が撤去されたのかもしれないと、一昔前のニュースを思い出した。仕方の無いこととは言え、一抹の寂しさを覚える。
「乾杯でもする?」
「捧げる対象が無いんだけど」
「それじゃ、天寿を全うした、瑞希の自転車のチェーンに」
「そういう時は献杯って言うらしい」
「細かいことはいいの」
ベンチに腰を掛け、ペットボトルの蓋を開ける私。火照った身体に炭酸は染み渡っていく。
夕暮れに染まるお社、制服姿の男女がふたり。遠くから見ればちょっとした画になりそうな光景であるが、その実あまり晴れ晴れとした表情ではない人間が、私の隣で座っている。
「今日は何しても空振りばっか。疲れた」
ストローで紙パック入りコーヒー牛乳を飲みながら瑞希はぼやく。
「振らなきゃボールに当たんないんだから仕方ないんじゃないの。見逃し三振はかっこ悪いし」
「積極性はもちろん大事だけど、今の課題は選球眼を磨くことだってコーチに言われててさ」
私の振る軽口に応えながらも、どこかその表情は浮かない。
部活絡みかと尋ねる私。こっちを向かずに、まあの、と瑞希。
「大したことじゃないんだ、他の部員とちっと上手く行ってない、それだけ」
空になった牛乳パックを丸めると、ゴミ箱めがけて放り投げる。きれいなスローイングの送球はしかしファーストミットたる投入口を大きく逸れた。イップスかとからかうと自嘲気味に瑞希は笑う。
「精神的に動揺してると認めるわけだ」
「間違いではないな」
「なら、私に話してみない?」
久々に、私の役目が回ってきたようだ。
「人に言って聞かせられるような話じゃない」
変なところだけ遠慮しいである。
それとも、話したら不味いような何かがあるのだろうか。
「今日まで困ったら散々人のこと頼ってきたくせに、いまさら気ぃ使ってどうするのさ」
「でもさ」
「そうやってうじうじ悩んでたら、きっと野球にも支障は出るし、部員のみんなにも迷惑かかると思うよ。瑞希も、それは嫌でしょ」
返答につまり瑞希はため息を付いた。それを持ちだされると弱いんだよな。そう一人ごちている。まだ表情は迷いの色を示していたが、それでも瑞希は語り始めた。彼とその友人の、受難の物語を。
「丸一ヶ月、体調不良で学校を休んでた部員が久々に復帰したのが始まりでさ。名前を上げるとそいつに悪いし、仮にユウとでもしておく。俺とポジション一緒だし」
「随分可愛い仮名じゃないのさ。つまりショートってわけね」
「打ってよし走ってよし守ってよし、三拍子揃ってる。打線の主軸でもあって、諸先輩を抑えて一軍チームの3番を打ってる。その分プライドも実力相応に高くて、周りとの誤解や衝突も引っ切り無し」
漫画の天才キャラをそのまま形にしたような奴だと瑞希は語る。
「一軍チームのスタメンくらいになれば、多少後輩が生意気でも気にはならないみたいだったけど、一軍半くらいの位置にいる先輩たちからは逆に目の敵みたいにされてた。ユウ自身もよっぽど向こうを嫌ってたけど。レギュラーを競って争う関係でもあるから、あんまり慣れ合うのもそれはそれでどうかと思うよ。それでもあんまり見ていて気分のいい光景じゃなかった」
「そんなユウがある日緊急入院してさ。でも部員の一人が入院したってのに、心配する声よりも、一軍の椅子に空きが出たって喜ぶ人間の方が多かった。人の不幸はなんとやらだし、俺だってレギュラーや一軍ベンチの枠に入りたいけど、みんなとおんなじに素直に喜ぶ事に抵抗を感じてた。これが悩みの一つ、かな」
ほぼ一気に喋り終えた瑞希。私は、気になっていたことを尋ねてみることにした。
「ここまでの話っぷりを見ると、瑞希はそのユウくんの肩を持ってるみたいだね」
「同期同士、仲は悪くなかったしな」
「ここまでの話だけ聞いてると、そこが若干不思議なんだよね。ユウくんの方はなかなか人格に難ありみたいだけど。なんで仲良くなれたの。瑞希の能力が一軍半にも届かないようなレベルだから、ライバルとして認識してないとか、そんなとこ?」
「遠慮がないなあ。それもあるだろうけどさ」
苦笑を浮かべる瑞希。上達のために、練習量や質の向上に熱心に取り組んでいるとは聞いているが、努力の数だけで報われる世界ではないのもまた事実だろう。
「俺としては、純粋に同い年の奴がいきいきとプレーしてるのを尊敬してるつもり。あんなふうにプレーしたいってさ。見ててワクワクするし」
ふーん。
「逆にユウくんから見ると、瑞希はどういう人間だって思われてるのさ」
「なんか、守備がおしゃれだとかさ、褒められてんだか馬鹿にされてんだか、分からない評価を貰ったことはある」
「素直に褒めようにも、照れくさくて言えなかった可能性は?」
「そんな殊勝な奴じゃないよ」
珍しく私の指摘を一蹴する瑞希。よほどの性格と認識されているようだ。
「じゃあ次。さっき悩みの一つって言ったけど、一つと銘打った以上、二つ目もあるってわけだね」
「まあ、の」
「正直に吐きな」
私の恫喝が効いたのかは定かではないが、しばし思い悩んだ後、結局瑞希は話を続けることを選択したようだった。
「ユウは、野球部員全員が想像していたよりも、かなり早く練習に復帰したんだ」
袋を開け、ろくにあんこの詰まっていないパンにかじりつく瑞希。
「病気のせいで、たった数週間で別人みたいに痩せて様変わりしたばかりなんだ。同じ病気に罹った場合、まっとうに運動できるようになるまで、普通なら2,3ヶ月はかかるらしいのに、もう練習を再開して、皆についていくんだもの、大したもんだよ。ブランクはあるけど、練習で見る分にはユウのプレーはまだまだ惚れ惚れするし」
「普通にいい話じゃないの」
帰ってきても厳しい練習についていけずに足を引っ張っている、という光景を想像したが、その逆であれば、なんら問題はないのではなかろうか。
「それがさ。ここからがまたなんとも、うちの部のみっともないところになるんだけど」
口ごもる瑞希。二つ目を語ることを渋った理由がここにあるようだ。
「半ば病み上がりみたいな人間が部活動に参加している事自体、チームの士気を下げるって論調がどこからか出て来たんだ」
最後のひとかけを口に押し込む。
「曰く、“病人がついていける程度の練習だって思われたら、野球部の評判が下がるんじゃないか”ってんだと。言い出しっぺが誰なのか、だいたい察しはつくけどさ」
「一番の問題は、それが監督や一軍スタメンの先輩方にもどことなく受け入れられてることでさ。それなりに歴史のある学校の、歴史のある部活だから、面目だけは守らなきゃいけない、そういうことなんでしょ。そんなしょうもない体裁、守るだけの価値があるなんて俺には思えない」
「もちろん、誰もユウの前でははっきりとはそんなことを言わないけど、ユウだってきっと気付いているはずなんだ。でもそこでユウはしおらしくはしない。またいつかのように、結果を残して周囲の雑音を消そうとする。だからユウは練習を休まないし、一軍チームと一緒、いやそれ以上の質と量とをこなす。先輩方はそれを見て苛つくし、またしょうもないことを考えて、実行する。それの繰り返しさ」
悪循環だよと吐き捨てる。
「野球部側の理屈、分からないでもないけど、そういうのに嫌気が差すような部員、瑞希の他には誰もいないの?」
「おかしいと思っても、それを口に出さなかったり、あるいは元々ユウを好かない奴は、それに迎合してユウに対して嫌がらせをしてるのさ」
「それに、本当なら俺にも、人のことを言える資格なんて無いんだ。野球部にいる内はこんな風に不満を口に出すこともしない。こうやってただ部員じゃない誰かに愚痴ることしかしないんだから」
既にくしゃくしゃに丸まっていたパンの袋を、瑞希は力一杯握りしめる。
「そんなことが二、三週続いてて、瑞希も先輩方も、そして多分俺自身も、鬱憤がかなり溜まってた。そして今日、守備練習中に珍しくユウが打球を弾いた時、先輩が野次を飛ばしたんだ。それがきっかけになって、ユウと先輩達とで正面衝突さ」
「先輩が口にした野次、元々は随分前の練習中にユウが先輩に向けて言ったものだから、あながち先輩だけが悪い訳じゃないかもしれない。でも、ものには限度とか、節度とかあると思う」
一体どんな野次だったのか、やはり言い渋る瑞希にしつこく尋ねた。なるほど確かに品もなければ神経もない。部外者の私でも呆れるレベルの代物だ。
「野次を聞いて、堪忍袋の緒が切れたのか、ユウが先輩に突っかかって、先輩もそれに応える。先輩とユウの周りにどんどん部員が集まってきた。高校生とは思えないような、しょうもない応酬が続いて、とうとう我慢できなくなったユウが先輩に手を出しかけた。そのまま集まってた部員全員でもみくちゃになって乱闘もどきさ。ユウに怪我させたくなくて、止めようと間に入った結果がこれ。こんなになったのは俺だけじゃないだろうけど」
切れた唇を指さす瑞希。他の顔の傷もきっと、その時についたものなのだろう。
「ユウは直接殴られたわけじゃなかったけど、まだ病み上がりで体力も万全じゃなかっただろうし、これ以上他の部員と衝突しても嫌だったから、無理やり引き剥がして、とりあえずユウのかかりつけの病院まで送ってさ。俺の帰りが早いこと、妙だって思ってたかもしれないけど、まあこういう事情なわけ」
「最低だよ、俺」
うなだれる瑞希
「ユウのことを心配しながら、それでいて我が身可愛さに先輩や監督に楯突くことをしなかった。嫌われて、総スカン喰らって、試合に出れなくなるのが怖かったから」
「なのに結局、とうとう今日の喧嘩に割って入った。意思表示には十分だろうさ。その間ずっとユウへのイビリを無視し続けた意味なんて、結局なかったんだ。それに、もみくちゃになった時に、先輩たちから滅茶苦茶罵倒されたよ」
テメエどっちの味方だよ。どうなるかわかってんだろうな。このホモ野郎が。
そんな言葉をぶつけられたらしい。つくづく品のない人々だ。
「ユウからも詰られた。案の定、喧嘩でへろへろになってたから、病院へ引っ張ってくのは簡単だったけどさ」
「たとえ相手が悪くたって、手を出してしまったら、何かしら処分は出るかもしれない。そう言って宥めたけど、耳を傾けてくれない。当たり前だよな、俺はずっと自己保身に必死で、ユウに対して何もしなかったんだから」
「ライバルが一人減れば一軍チームにまた一つ近づくんじゃないか、そう言われた時に、そんなこと無いって言わなきゃいけなかった。お前と一緒に野球したいんだって言えればよかったんだ。なのに、何も言えなかった。結局そのままふたりで黙ったきりになって、逃げるように帰ってさ」
どうすればよかったのか、これからどうしたらいいのか。膝を抱えて途方に暮れる瑞希の姿に、しかし私はどこか懐かしさを覚えた。不器用で鈍感で、いつでも誰にでも真摯でいたいとする友人とこんなに長く話をしたのは久々だったし、行き詰まってどうしようもなくなった時の相談を今まで何度も受けてきたからだろう。
喧嘩した母親とどう仲直りすればいいだろうか、バレンタインのお返しにはどのくらいのものをお返しすべきか、女子とデートに行く時どこに行くのがベターだろうか、実力不相応かもしれない高校に行って野球を続けられるだろうか。
悩みを打ち明ける瑞希に対して、適切な助言を、あるいは瑞希の欲しかった回答を送ることが出来たのかどうか、私には分からない。瑞希が私のアドバイス通りに行動しなかったことだってもちろんある。
そして、それでいいのだ。今日までのこの関係は、私にとってひどく心地がよく、大切なものだったから。真摯な友人へと真摯な助言を送るのは、今はきっと、私にしかできない役目だから。
「つまるところ今の瑞希は、ある日突然女の子になったそのユウくんの事を、好きで好きでたまらないわけだね」
包み隠さずいきなり結論から話を始めた私に向かって、ぎょっとしたような表情を見せる瑞希。気づいていないとでも思っていたのだろうか。
「数週間前の県内ニュース、うちの街で発症者が出たって言ってた。ユウくんが病気で倒れたっていう時期とも被るよね」
正式名称が難解なその病気。症状は単純明快で、それでいて不条理極まりないものだ。発症すると全身の細胞という細胞が一斉に異常な活動を始め、それが収まった時には、発症者の肉体は以前の性別とは異なるものに変化しているという。少なくとも肉体の性別には、男性と女性しか無い。つまり、男性であれば女性に、女性であれば男性に、肉体は変化する。少なくとも今のこの世界では、目が覚めたら男子高校生が女の子になっていたなんて話は、絵空事ではないわけだ。
「そこで、その病気の発症者=ユウくんだとして考えてみると、瑞希の話とも辻褄が合うような気がしてね」
「件の病気、ただ身体の性別が変わるだけじゃなくて、変化にともなって身体能力は変化した性別のそれに変化するらしいし、同時に凄く体力を消耗するんだってね」
それこそ満足に動けるようになるまで数ヶ月はかかるくらいに。
「強豪野球部員が、元男子とはいえ病み上がりの女子相手にレギュラーを取られっぱなしだなんて、確かに部や学校の面目に関わるかも。この場合、ユウくんの体力や運動神経、根性が特別仕様だったんだろうけれどさ。日頃の鍛錬が効いてたんだろうね」
そう話す私の目の前で瑞希の顔色は目まぐるしい変化を続ける。その百面相ぶりは見ていて飽きが来ない。
「そして、そんな元男の子であれば、さっき聞いた先輩からの野次は特に堪えただろう事は、想像に難くない」
落とすのは金玉だけにしとけよ。
瑞希の先輩はユウくんにそう言ったのだそうだ。過去に、どういうシチュエーションでユウくんがその野次を口にしたのかは想像する他にはないが、守備練習中に打球が股間を直撃し悶絶する先輩に向かってユウくんがそう野次ったという光景を、イメージは出来る。
いずれにしても品がない。ましてや性転換を終えたばかりの人間に向かって投げかけていい言葉ではないと私も思う。
「野球人の端くれとしてあこがれの対象だった友人が女の子になって帰ってきた。複雑な感情を持て余してしまうのも無理はないんじゃないかな。少し距離を置こうとしてみたり、その癖、喧嘩に巻き込まれたのを助けようとしてみたり、なのに当の本人からは拒絶されるような言葉を掛けられて目の前が真っ暗になったり」
なんていうのは、物語が過ぎるだろうか。
「どこから気付いてたんだ」
脱力しきった様子で、瑞希が私に尋ねる。
「私の記憶にある瑞希は、少なくとも男の子が好きということはなかったし、それでいて瑞希がユウくんを語る時の熱っぽさは、友情で言い表せる領域とは違う気がした。じゃあユウくんが女の子だったらっていう仮定をして、そこからの逆算、かな」
「つまり、ユウの素性を隠そうとした俺の努力は、全部無駄だったってわけか」
乾いた笑いを立てて、瑞希は再びうつむく。
「最初はただ、あいつが倒れる前みたいに、ただ上手いプレーに惚れ惚れしてるだけだと思った。でも練習中だけじゃない。あいつが近くにいると、どうしても目があいつを追っちまう、ドキドキしてたまらなくなる」
「先輩からホモだなんだって煽られたけど、ほんと、その通りだよ。あいつは、俺の目標とするべき野球人で、俺の友達で、男なのに」
「でも今は女の子だよ」
「え?」
顔を上げた瑞希の目を、私はまっすぐと見据える
「同性愛が良いとか悪いか、正しいか間違いかなんて、ここでとやかく言うつもりはないよ。恋愛観や宗教観なんて人それぞれだもの」
「今私が言いたいのは、どうしていいかわからずに途方に暮れている友達を見放すことが、ライバルであり友達でもある瑞希を待っているはずのユウくんから逃げることが、瑞希のしたいことなのかってこと」
「瑞希がユウくんに対して抱えた感情が、友情なのか愛情なのか、そんなこと私には分からない。ただ、瑞希がいつでも誰にでも真摯でいたいとするのなら、それはユウくんに対してもそうであって欲しい。私はそう思うし、ユウくんもきっと同じだと思う」
それがきっと私の大切な人にとって、一番今必要なことだから。
「ひとっ走りしてきなよ。ユウくんのとこまで。言えなくて、でも言いたかった言葉があるんでしょ?」
瑞希の顔は私の方を向いていたが、既にその目は私を見ていない。その視線はきっと、ここじゃないどこかにいる誰かさんに向けられているはずだ。
「行ってくる」
「鍵、貸そうか?」
「無免許運転して捕まったら、きっと今日中にアイツには会えなくなるから」
オンボロ自転車に跨がり、全力でペダルを踏み込む瑞希。新調したばかりのチェーンがその期待と決意に応えると、瑞希はどんどん加速していく。
50mほど進んだ辺りで、瑞希は一度私の方へ振り向いた。
「ありがとなー!」
「危ないから前見て走りなー前をー」
小さくなった背中が交差点を曲がって見えなくなってから、私も愛車へ跨る。
振り向かれたのが、瑞希が遠ざかってからでよかった。今の私の顔を見せたら、瑞希の決心を揺るがしてしまうかもしれなかった。揺らいで欲しいと思う自分も心の何処かにいたのかもしれない。でもきっとそれは、私の役目ではないのだ。
帰ろうか。誰に言うでもなく独りごちながら、私はヘルメットを被った。
神社からは、ものの3分も掛からずに自宅に着いた。瑞希はまだユウくんのもとにはたどり着いていないだろう。友達と食べたから晩御飯はいらないと、リビングでかぼちゃの煮っころがしを作るお母さんに伝えた。何かを口にしたいとは思わなかった。減量のし過ぎは身体に毒だと、私を心配するお母さんに生返事を返し、二階屋の自室へと篭もる。
部屋の明かりも点けず、背中からベッドの上へ倒れこんだ。仰向けのまま、天井を見つめ続ける。ポケットから携帯を取り出し、電話を掛けた。ダイヤルが十回鳴ってから、留守番電話に切り替わった。発信音の後に、私は伝言を入れる。
「私です。練習お疲れ様。一生懸命やってるって友達から聞いたよ。大丈夫、今は大変かもしれないけれど、その努力を見ていてくれる人は、助けてくれる人はきっといるから。私も出来る限り応援する。負けないでね」
おやすみ。いい夢を、ユウくん。
通話を終了し、私は携帯を閉じた。
端から彼に対して下心があったわけではない。ただ、高校の野球部に入って帰りが遅くなり、滅多に顔を合わせる機会がなくなった瑞希が、いまどうしているのか知りたかった。だから、同じクラスにいる高校野球の好きな女子に頼んで、瑞希と同じ野球部の部員と知り合いになった。その相手が偶然にも、将来有望な高校球児だった。それだけだった、最初は。
傲慢さとそれに似合うだけの実力を併せ持ち、器用で何でも出来る癖にどこか繊細で。瑞希とは何もかも正反対なそのパーソナリティは、私にとってはひどく新鮮だった。
私がどれだけ想おうと、瑞希にとっての私は、辛い時一緒にものを考え向きあおうとしてくれる、かけがえのない“友人”でしかない。幾度と無く直面したその事実に疲れ果てていた私は、瑞希のようではない彼に関わることで癒やしを得ようとした。結局彼にとっての私が、彼自身を賞賛するその他大勢の人間のうちの一人でしか無いと分かっても、関係を断ち切ることは出来なかった。
当然かも知れないが、彼の口から野球部のことはよく語られた。先輩と折り合いの悪い孤高の天才は、しかし同期にはそれなりに親愛の情を抱いているようだった。その中でも、瑞希の話題は頻繁に登場した。瑞希の実力は到底彼のレベルにまでは達しないものであるはずだから、私としてはやや意外であった。
一度だけ、私が瑞希の友人であることは伏せた上で、そのことについて尋ねたことがある。曰く、同じポジションを争うライバルとしては論ずるに値しないが、野球に対しての真っ直ぐさは賞賛すべきだろう、とのことだった。
柄じゃないし、アイツに伝えた所で素直に受け取られないさ。
その評価を瑞希に伝えてみたらと言う私に対してそう答えた時、彼は笑っていた。この先も私に向けられることは決して無いであろう素直な表情を見て、その時瑞希に嫉妬心を抱いたことを覚えている。
私と瑞希と彼とのそんな奇妙な友情は、彼が例の病気に罹りその姿を変えたことで形を変えようとしている。今日これから、瑞希が彼に会いに行き、なんと言葉を掛けるのか、今の想いをどう伝えるのか。はっきりとはわからない。それでも瑞希はきっと彼に対しても真摯に想いを伝えるだろう。瑞希の真っ直ぐさを快く思っていた彼が、自らに向けられたそのひたむきさに触れた結果、化学反応を起こさないと誰が言い切れるだろうか。
私はひとり夢想する。甲子園を目指し切磋琢磨しあうライバル同士のはずの二人が惹かれ合い、私が瑞希や彼にとっての恋のライバルになる、そんな未来を。
それでも私は、今日瑞希の背中を押したことを後悔しないはずだ。
病気の発症に伴い、発症者の体力と身体能力は大きな変化を余儀なくされる。しかしこの病気の恐ろしさは、肉体の消耗だけでは無い。発症者差別ともいうべき問題が、彼らを待っているのだから。
この国の住民からの発症者に対する眼差しは、依然として厳しいと言わざるをえない。単に元男、元女という存在を気味悪く感じることもあるだろうが、発症のメカニクスが未だ判明していないことも理由の一つだ。感染症なのか遺伝に寄るものなのか、あるいはオカルティックな原因があるのか、それすらはっきりしていない。目の前にいる人物が自分に害を与えるかもしれないと思えば、人は簡単に残酷になるだろう。現に、野球部の先輩たちも彼に対して必要以上の厳しい態度を取っていたようだ。それは単に、己や学校、部活の面目のためだけではないだろう。
発症者差別の解消に向けて、様々な法令やルールの改正は進められている。それでも未だ、ボーダーレスには程遠いのが現状だ。
そんな厳しい現実を発症者たちが乗り越え、社会復帰し、ひとりの人間として幸福になるためには、肉体と精神の両方で変化していくであろう発症者のサポートが必要不可欠だ。
そうであればこそ、その役目は瑞希のものであってほしい。彼を迎えに行くために自転車で駆けていった瑞希の真っ直ぐな眼差しを、瑞希のことを語った時の彼の照れくさそうな表情を、私は思い出す。それを互いに見せ合うことが出来るようになったなら、その時ふたりは最高のパートナーになれるはずだ。
大切な人がふたり、最高の笑顔を浮かべられるようになれば、それは私にとっても、とても幸せなことのはずだ。たとえその笑顔が、私に向けられる日がやって来ないとしても。
どれほどの時間、天井を見続けていただろうか。気がつけば窓の外も部屋の中も真っ暗になっている。携帯のランプが光っていた。5分前に瑞希からメールが来ていた。
「今、病院の前まで来た。逢ってくる。きっとひとりじゃ決心がつかななかったと思う、本当にありがとう」
件名はなく、本文もそっけない。それで構わなかった。
「がんばれよ、ライバルくん」
メールに返信すると、カーテンを開き、瑞希と彼が今向き合っているであろう病院の方角を眺めた。あの背の高い建物がそうだろうか。田んぼ道の街灯も、市街地の街明かりも、月の輪郭も、目に映る世界のすべてが滲んで見えるのは、きっと気のせいだろう。
一階で椅子とテーブルの動く音がしたそのタイミングで、私のお腹も同時に鳴った。身体は正直だと苦笑いを浮かべながら、私は鼻をかみ、大好きなかぼちゃの煮っころがしを食べるために階段を下っていった。
好敵手 春義久志 @kikuhal
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