第25話

大樹と子どもとのやり取りを見終えた後ですぐ、萌が起こした行動は、彼の元へ駆け寄ることではなかった。ついでに言うと、連絡すら入れていない。

彼の方は萌を探しているようだったが、柱の影に隠れたまま出ていかないことを決め込んだ。少しすると彼は諦めた様子で、また仕事へと戻っていった。

会えば、この場で揉めたに違いない。さすがに萌だって、会社で大騒ぎは起こしたくなかった。


そうは言っても誰かと話したくて、萌は香菜に電話してみた。興奮ゆえの行動だったが、たまたま仕事を終えていたらしい彼女は、夕食を付き合えという条件付きで会うことを提案してきた。

「じゃ、六時半に店で」

 香菜が折り返しの電話で指定してきたのは、丸の内にある女性に人気のイタリアンだった。

 ランチで来たことはあるけれど、夜は初めてだ。平日にもかかわらず、店内は結構混んでいる。彼女が押さえておいてくれなければ、入れなかったかもしれない。


 おしゃれな店員さんに案内されたのは、二人定員の半個室のような席だった。先にドリンクをと言われて、萌はカシスオレンジを、香菜はビールを頼む。

「何食べる?おなかすいちゃった」

 香菜はそう言いながら、横文字がズラリと並んだメニューを端から端までじっくり目を通している。萌は、一番上にあった本日のおすすめにさくっと決めた。

「私はこれ、チーズリゾットとサラダセット」

「リゾットか。じゃ、私はパスタにしようかな」

 性格はハッキリしているのに、香菜はこういう決断は優柔不断だ。メニューはすぐに決められるのに、普段の生活はウジウジしている萌とはこの点で真逆だった。

「今日はごめんね。でも香菜がこんなに早く仕事終わるの珍しいね」

「なんかだるくなっちゃってさ、今日は外回りのまんま直帰にしちゃった」

 のんきなOLの萌とは違って、会社の第一線で働く彼女は常に多忙だ。そうそう頻繁に会えるわけじゃないから、話題は楽しいものにしたいのに、最近は大樹の愚痴ばかり聞かせてしまっている。悪いとは思っているけれど、香菜に話を聞いてもらえるだけでもかなり楽になるのだ。だからついつい甘えてしまう。


「で、何だっけ?子どもが突撃してきたって?」

「そ。マジあり得ないでしょ」

「あきれた。あんた、まだそんな揉め事の中にいたわけ?」

 キノコパスタにフォークを突き刺したまま、香菜は心底呆れ顔をして見せた。

「何言ってもムダなのはわかってるけどさ。もう止めときなって」

「やだ。ここまで来たら絶対引かない」

 萌はリゾットを頬張りながら、むくれ顔で応じる。

「引かないって、こんなとこで意地になってもしょうがないでしょ。そんなどうしようもない男、熨斗付けてくれてやればいいじゃん。最低同士、お似合いでしょ」

「それ言わないでしょ。一応まだ彼氏だし、これからは婚約者になるかもしれないんだから」

「あんた、まだ結婚する気なの?」

「大樹は変わってくれたもん。もう信じられるよ」

「…わかった。じゃさ、あんたの言い分を受けて、彼が信じられるとする。でも、厄介な女に身バレしてるのは確かなんだよ。これからだって会社に来る可能性は十分にある」

「そこなんだよね」

 萌がそう言うなり、香菜ががくっと力を落とすのがわかった。わかっているなら止めておけという心の叫びは、パスタと一緒に飲み込んでくれたらしい。

「最悪はさ、資格もスキルもあるから転職だってありだと思うんだよね」

「またバレたら?」

「知らせないようにすればいい」

「共通の知り合いもいるんでしょ?いくらだって突き止められるよ」

 香菜は間髪入れずにポンポンと言い返してくる。彼女からすれば、萌の浅知恵もそうだが、萌自身もイラつきの対象になっているのかもしれない。同じ話をループされてばかりいては、いくら親友であろうと嫌にもなるはずだ。まだ、あの女と山田の接触の件も、送金の件も打ち明けていなかったけれど、それを告げる勇気はさらになくなってしまった。

「何度も同じ話をごめんね。でもね、もう決めたことはあるんだ。大樹とは別れない。絶対にあの女から引き離してみせるよ」

「萌…」

「今までさ、ほんと香菜にはいっぱい話聞いてもらって、助けてもらった。すっごく感謝してる。それがあったから、私はこういう結論を出せたんだと思うんだ。ありがと」

「そんな答えを引き出すために、付き合ってきたわけじゃないんだけどね」

 香菜はひきつった笑顔を浮かべる。

 彼女の主張は、萌達が付き合う前から一貫していた。そんな男はやめておけと。

 けれど、萌はそれにずっと逆らってきた。挙げ句、何度も何度も泣かされては香菜に泣きついてきた。それ見ろと言わんばかりの態度は取られたけれど、その度彼女は優しく支えてきてくれたのだ。

 感謝の念しか湧いてこないというのに、萌の行動はいつも彼女の進言とは別方向にしまってしまう。それはただただ申し訳なかった。

「あんたの結婚式でのスピーチは、エピソードがあり過ぎてまとまらなそうだよ」

「そこを上手くよろしく」

 悪くなりかけてきた雰囲気を変えようと、香菜が発してくれた言葉に、萌も笑って応じる。

「香菜の方はシンプルにまとまるような相手にしてね」

「オッケー。そこは任せて」


 香菜と別れて、萌はようやく携帯を確認した。

 予想に反して連絡は一件もない。大樹は現実逃避も兼ねて、仕事に没頭しているのかもしれなかった。

 今日は夕食を途中で調達することがなかったから、萌は久しぶりにどこにも寄らずに帰宅した。ガチャリと鍵を回して、扉を開ける。いつも通りの手順を踏んだというのに、違和感があった。中の明かりがついている。

 そろそろと玄関を覗いてみると、そこには大樹の大きな革靴があった。

「おかえり」

 聞こえてくる声は、いつもより重苦しい。萌は上ずる声で、ただいまと返した。

「遅かったね」

「うん。香菜とゴハン食べてた」

「なら連絡くらい入れてよ」

 なんだか攻撃的だ。大樹らしくない。

「そっちこそ。連絡ないから仕事中かと思った」

「手につかないから、早めに切り上げた」

 ぶすっとした様子で言われたが、これは八つ当たりだろう。そうなったのは萌のせいじゃないはずだ。

「ちょっと、ちゃんと話したいんだけど」

 大樹はますます仏頂面になって、萌が部屋着に着替えるのを急かしてきた。納得いかない部分は多々あったが、とりあえず彼の意に従うことにする。


「はい、どうぞ。何の話?」

「さっきのことだよ。どうするつもり?」

「どうするって、あれはあんたの問題でしょうに」

「萌が会えって言ったんじゃん。だからややこしくなった」

 はぁ? 萌はわなわなときた怒りをぐいっと抑え込んだ。

「だってさ、あの子たちどうしたら良かったのよ?ずっとあそこで待たせておいたら、もっと大問題になったかもしれないでしょ」

「それは、そうかもしれないけど…でも、結局はあの人と会わざるを得なくなったんだよ」

 口を尖らせて言うその姿は、まるで駄々っ子だ。面倒事は親に解決してもらおうとする子どもの姿が重なってみえる。萌は深呼吸した後で、きっぱりとこう告げた。

「それだってあんたの問題でしょ。私には関係ないよ」

「萌は会って欲しくないんでしょ。俺だって会いたくないのにさ」

「だったら無視すればいいじゃん」

「そんなことして、また来たらどうするのさ」

 来たら、なんて可能性の話ではない。無視すれば、百パーセントまた来るだろう。あれはそう言う女だ。

「会いに行けばいいよ。ただし、一回だけね」

「一回で済むわけが」

 弱気になる大樹の言葉を妨げて、萌はこう続けた。

「済ませるの。私も行くから」

「萌が?」

 大樹はこれ以上ないほどに目を見開いた。まるで妖怪でも見たかのような彼の顔を、萌はきっと睨み付ける。

「私も一緒に行って、婚約者としての立場からちゃんと文句言ってくる。必要とあれば法的手段も辞さないってね」

 多少だけれど、弁護士の友人、知人だっているのだ。平和的解決に必要となるのなら、いくらだって彼らに連絡をとる覚悟はできている。

「こういうのもなんだけど…普通の話、通じないかもしれないよ」

「話は通じないし、常識の無さは桁外れ。そんなのは重々承知だよ。とにかく、もう影で見守ってるだけなのは耐えられない。戦ってみて、それから対応を考えるよ」

「頼りがいあるねぇ」

 あんたが無いからね。萌はその一言をぐっと飲み込んだ。

 大樹は例に洩れず、こんなことも人任せにするつもりらしい。が、今回はそれがありがたい。中途半端に出てこられるくらいなら、萌が全部話し合いを持った方が勝ち目がありそうだ。

「常識的な時間ならいつでもいいから。連絡取っておいて」

「連絡っても、全部消しちゃったからな」

「じゃ、どうやって会うつもりだったの?」

「…家に行こうかと」

「わかった。一緒に行くから、連れてって」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る