第24話

山田との会話の一部始終を萌から聞かされた大樹は、ぽかんとしていた。

 萌の口調が激しかったせいもあるのかもしれないけれど、それよりも彼女が起こした大胆な行動に呆気にとられたせいだろう。

 見も知らない相手に泣きついてまでも、自分に縋ろうとしている女を、男はどう思うものなのだろう。萌にはその行動を欠片も理解できそうにない。


「山田さんには、申し訳なかったね」

 大樹がやっとのことで絞り出した言葉がこれだった。

「申し訳ないじゃ済まないよ。はた迷惑もいいとこだよ」

「とりあえず、タクシー代返しといてくれる?」

 大樹はそう言って財布に手を伸ばしたが、萌はそれをぱしりと叩いた。

「何であんたが、あの女の代金払う必要があるの?」

「それは、違うけど。でも、とにかく俺のせいで出費しちゃったことには違いないし。俺からの迷惑料ってことで」

 まぁ、言われてみればそんな気もした。元はと言えば、間接的にだが、大樹に関わってしまったせいなのだ。あの女に囚われすぎたおかげで、萌の方も冷静な判断力は欠けていた。

「で、あんたはどう思うわけ?そこまで想われて嬉しい?」

「んなわけないでしょ。ここまで来たら、怖い方が勝つよ」

「ね、あっちはさ、ほんとにこっちの情報は何も知らないの?家とかばれてたら、嫌なんだけど」

「俺の実家も詳しい住所は言ったことないし、萌の家なんてもちろん知らないと思うよ。ただ、会社名は知ってるから、追えるとしたらそこからくらいかな」

「会社わかったって、正式な手続き取らなきゃ何もできないか」

「と思うよ。弁護士通してとか何かやれば出来なくもないだろうけど、そこまでやられる関係性もないからね」

 のほほんとしている大樹とは反対に、萌の警戒心はマックスだった。

あの女、何をするかはわかったもんじゃない。下手したら結婚詐欺だとか喚いて、会社に乗り込む可能性だってあるだろう。

「相手を褒めてるみたいで微妙だけど、多分あの人は大事にはしないと思うよ。自分に不利になるようなことは、多分しないはず」

 大樹の言葉には妙に真実味があった。付き合いが長いだけあって、そこそこ人となりは理解しているのだろう。が、あの陳腐な演技に騙されるのだから、そんなに信頼のおける判断ではないかもしれない。

「あの人のことは、うちの両親は知らないよ。紹介したのは萌が初めてだし。だから、結婚を前提に付き合っていたって言うことは否定できると思う」

「あっちだって、子どももその父親もいるわけだからね。世間的に見たら、あんたに固執する方が異常か」

「そ。そう見えれば、もし法的手段に迫られても常識論ではじき返せるよ」

 にかっと笑ってそう言った大樹に、萌は目を丸くした。

珍しく彼が頼りになりそうだ。この件に関してはオロオロする姿ばかり見ていたから、堂々としているところを見せつけられるとまたコロッと惚れ込んでしまう。

「もうさ、大丈夫だから。絶対に萌を裏切らないから、安心して俺に着いてきなさい」

 大樹は萌をぎゅっと抱きしめた。とくんとくんと穏やかな心臓の音が伝わってくる。萌は体を彼に預けて、目を閉じた。


 大樹は変わった。本当にそう思う。

彼女という存在が、婚約者という存在へと格上げされようするとき、男はこんな風に変わるものなのだろうか。真実はわからないけれど、そんなのは大したことじゃない。

大事なのは、大樹が揺るがないでいてくれること。そうすれば萌の気持ちはいつでも落ち着いていられる。

そう、大樹が揺るがなければいい。これさえ守られれば二人はずっと平和にいられる。と、萌は頭から信じ込んでいた。


だが、やはり現実はそこまで簡単ではなかった。あの女は、そんな大樹の性格は知り尽くしているのだ。そして長所であり、短所でもある彼の優しさにとことん付け込んでくるのである。



ある日、萌が珍しく定時で会社を出たときのことだった。

 ビルのエントランスに、子どもが二人立っていたのである。大人しか行き交わないこの界隈に、小学生と幼稚園児くらいの少女たちの存在はひどく違和感があった。

誰しもが目を留めるけれど、自らの関係者でないとわかると、そそくさと立ち去っていく。誰一人として声をかけようとはしない。きっと子どもが親の帰りを待っているんだろうくらいにしか、思われていないのだろう。萌だって、顔を見るまではそう思っていた。

ちらっと目にした瞬間、さっと全身が凍り付いた。あの女の子どもだ。


萌は息を止めながら二人の目を通り過ぎると、そのまま進んだ先で携帯を取り出した。

こんな時間ではまだ出ないだろう。それはわかっていたが、とにかく急いで連絡を取りたかった。萌は最後の履歴にある番号へすぐさま電話をかけた。

「ごめん。今平気?」

「うん。ちょっと休憩入れようと思って。どうした?」

「あのね、エントランスのとこに、多分あの女の子どもがいる」

「へ?」

 状況を飲み込めていないのだろう。間抜けな答えが返ってくる。萌自身、テンパっていて要領を得ない説明をしていることは棚に上げて、小さな声で怒鳴りつける。

「だから、子どもだけが二人でいるの」

「ほんとにあの人の?見間違いじゃなくて?」

「そうだよ。私、一回見たら忘れないもん。疑うんなら自分で見てみなよ」

 無言の返答。大樹も混乱しているのかもしれない。少しして、ようやく硬い声が聞こえてきた。

「行かないことにする。会えば面倒なことになりそうだし」

「でも、こんなとこで子どもだけでいるのはマズくない?」

「…萌は、俺が対処することを望んでるの?もう関わらないで欲しいって言ったじゃん」

 言った。間違いない。けれど、それはあの女に関してであって、子どもとなるとまた別の話に思えた。

「萌がどうしてもって言うなら、行くけど」

 何となく引っかかる物言いだった。まるで萌が望むから仕方なくという体裁を整えるための下準備のような。

 それをわかっていたのに、萌が告げた言葉はこうだ。

「とにかく来てよ」

 電話を切った後で、激しく後悔したのは言うまでもない。

この裏には必ずあの女がいる。どこかで様子をうかがっているのかもしれない。きっと大樹が出てくれば、あの子たちと会えば、必ず飛んでくるだろう。例の鼻につく甘え声と一緒に。


「ダイちゃん」

 二人の子どもは声を揃えて、待ち人の名を呼んだ。そして久しぶりに会った父親にするように、その胸に飛び込んだ。

「会いたかったよ。さみしかったよ」

そう言ったのは下の子だったけれど、本心からのようだった。まだこんなに小さいのだ。懐いていた父親代わりの男が突然いなくなれば、動揺もするだろう。大樹は困惑しながらも、そっと二人の背に手を回している。

「急にどうしたの?」

「ここに来ればダイちゃんに会えるってママが言ってたの」

 上の子がきっぱりとそう言った。周りをうかがう仕草は見せていない。ただ、大樹に真っ直ぐ向き合っていた。

「ダイちゃん、急にいなくなっちゃたから、ママとケンカでもしたのかなと思って。ママも毎日泣いてるよ。仲直りしてよ」

 ビルの構造上、ここでの会話は大きく反響する。人通りが少なければ尚更だ。ましてや子どもの高い声とあれば、さらにその性能を後押ししてしまう。

 本人も思った以上の大きさで聞こえて驚いたことだろう。だが、大樹の慌てぶりに比べれば落ち着いたものだ。

まるで母親を捨てた父親のような言われようを、こんな会社空間で話されたらたまったものじゃない。大樹は知り合いに聞かれてはいないだろうかと、気が気でない様子だ。

 大樹は彼女達を端の方へ誘導すると、膝を追って子どもの目線に合わせた。

「みいちゃんたちのママとはね、もう会わないことにしたんだよ」

「なんで?嫌いになっちゃったの?」

「そうじゃないけど。俺ね、今度結婚することになったんだ。だから彼女以外の女の人とは会わないようにしてるんだ」

「そんなのおかしいよ。だって、ダイちゃんはママと結婚するって言ってたじゃん」

「言ってないよ。ママには、みいちゃんたちには、ちゃんとパパがいるだろう。俺は単なるパパの友達だよ」

「ウソだ。ママが言ってたもん。新しいパパはダイちゃんだよって。だから私たち喜んでたんだよ」

「ママが間違えちゃったんだね。俺はみいちゃんたちのパパにはならないよ」

「そんなの、ひどいよ」

 上の子はそう言うなり、しくしくと泣き出した。それを受けて下の子もぐずりだす。大樹はさらに慌て出した。

「とにかく、おうちに帰りな。俺はまだ仕事があるから」

「車で送ってくれないの?」

「職場に車は無いからね」

 淡々と言っているつもりだろうが、声は変に上ずっている。大樹はこの場から離れたくて仕方がないようだ。

「おかね、ないもん」

「電車賃くらいならあげるよ」

 大樹がそう言うなり、二人は一斉に手を付き出した。当然のように金銭の要求をしてしまうのは、間違いなく親の悪影響だろう。萌は子ども達の姿に、母親の影を見た気がした。

 どこまで帰るのかは知らないが、それぞれに紙幣を持たせたのだから、絶対に多すぎるはずだ。けれど、二人は何のためらいもなくそれをバッグにしまい込んだ。

「もう会社に来ちゃだめだよ」

 大樹の言葉に、二人は揃って首を横に振る。

「だってここに来なきゃ、ダイちゃんに会えないんでしょ。仲直りするまで来るから」

 上の子は、実に憎らしい口調でそう言った。

 もう大人とほとんど対等に会話の出来る年齢であろうから、自分が駆け引きをしていることもわかっているのかもしれない。親にそう言い含められていることもあるだろうが、半分以上は自分の意思であるようにみえた。

「みいちゃん」

「ここに来てほしくないなら、ちゃんとママに会いに来て」

「…わかった。会いに行くよ」

「絶対だよ。待ってるから」

 大樹に取り付けた約束に満足したのか、二人は笑顔をみせる。絶対ね、ともう一度そう言うと、子ども達は地下鉄の駅へと続くエスカレーターへと駆けていった。


 やられた。この結末を何となくは予期していた。けれど、実際目の当たりにすると、ガツンとした重さが胃の辺りを覆った。

 あの女は狡猾だ。大樹が断れない状況をいとも簡単に作り上げた。彼の性格上、子どもとの約束を破ることはしない。どんな形であれ、実現させるだろう。


 一度放したら最後、大樹はまた丸め込まれてしまうに違いない。


 と、今までの萌なら諦めの境地に入るところだ。けれど、もうそんなことはない。

 あの女は萌を怒らせた。その償いはきっちりしてもらおうじゃないか。会いにいくというなら、萌も一緒に着いていく。そして正々堂々戦ってやる。

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