第23話

やっと終わった。

萌がほっと一息を吐いたのは、日曜の午後六時のことだった。

 休日だというのに、第五のエリアはほとんどの席が埋まっている。そしてまだまだ誰も帰る気配はなさそうだ。

 隣の美奈子は、机に触れただけでも放電しそうなほどイライラしていた。初めての舵取りが思うように進まないらしく、山田に対してもつんけんしている。何度かヘルプを申し出たけれど、仕事を人に振る余裕さえもないらしく、その度に今忙しいからと突き放された。よって、萌は自分に与えられた分だけをいそいそとこなし、ようやく帰れるまでの状況を整えられたのだった。

頼まれていたデータをメールで送信した後で、一応山田に声をかける。

「とりあえず、今日はもういいかな?」

「ああ、お疲れ」

 振り向いた彼は見るからに疲れ切っていた。こんなに憔悴した彼を見るのはかなり珍しい。よほど、美奈子のサポートの方で力が削がれているのだろう。

「大丈夫?」

「なんとかな。でも、ちょっと休憩。帰るんだろ?下まで行こ」

 山田はくるりと椅子を反転させると、上着の中から財布だけを手に取った。

「先行ってるわ」

彼にさっさと行かれてしまった萌は慌てて自席に戻って、パソコンの電源を落とした。ちらっと美奈子を覗き見たが、必死に何かに取り組んでいるらしく、こちらに何の反応も示さない。萌は小声で、お疲れ様とだけ告げて廊下へと急いだ。


「…きつい」

 誰もいないエレベーターホールで、山田は伸びをしながらそう愚痴った。

「弱音なんて珍しいね」

「うん。今回はさすがに無理だ。人に仕事を任せるのって、自分でやるよりよっぽどきついのな。よくわかったわ」

 見れば、彼の目の下にはクマがある。気遣いが出来る山田だからこそ、よけいなところまで気を回してしまうのかもしれない。 美奈子としてもそれがせっつかれているように感じられて、余計に焦っているのだろう。

結果、(まだこんなことを言うべきではないのかもしれないが)共倒れだ。

「人を育てるのって大変なんだね」

「ああ。ほんっと、教育係だった加瀬さんには今更ながら感謝だよ」

 不意に出てきた加瀬の名に、思わず萌は眉を寄せた。

 山田が尊敬するくらいなのだ。仕事人としては優秀なのだろう。けれど百合の話を聞いていたせいで、萌の彼への評価は最低ランクにまで落ちていた。

「あのさ、この前の話なんだけど、加瀬さんの」

「ああ、わかった?」

 気まずさ全開で切り出した萌とは対照的に、山田は何でもないといった風にそう言った。

「こういう話って、身近にいてもわかんないもんだろ」

「うん。私ひとりじゃ、絶対気付かなかった」

「鈴木ってさ、なんていうか鈍いとこあるよな。特に対人関係」

「悪かったね。気が付かないことの方が幸せなことだってあるじゃん」

 鈍いとはっきり言い切った山田に、萌はムキになって反論した。

たしかに事実かもしれないけれど、こんなことを言われて、へらへら笑えるほど穏やかな性格ではない。

「いや、それでいいと思うんだ。色々勘ぐってばっかの奴より、よっぽどね」

「どうせ私は、社内で情報仕入れるのは、トップクラスに遅いですよ」

「だからさ、変な噂話で盛り上がる奴らより、ずっと良いって言ってるじゃん」

「噂話は嫌いじゃないけど」

「でも、確証ないデマは流さないだろ」

「それは、そうだね」

 こんな妙なタイミングだったが、萌は改めて自分を振り返ってみた。

噂話で盛り上がるのは好きだ。あくまでも自分に関わりのない部分のみで。けれど、山田が言ってくれた通り、萌自身が発信源となることは全くなかった。勘が良い方ではないし、人の観察も得意じゃないからだ。聞いて初めてその人に注目するといったパターンがほとんどだった。社内恋愛を見抜いたことなんて一度もなかった。

唯一の例外が、美奈子のことだ。彼女くらいあからさまに態度に出してくれれば、さすがにわかる。ただ、山田の方については感情がさっぱり読めないから、なんとも言えないけれど。


「話変わるけどさ、彼氏とうまくいってるんだろ?」

「あ、うん。どうして?」

 山田はかなり確信を持って聞いてきたようだ。萌の普段の様子から察したのだとすれば、彼の観察眼はやはり大したものなのだろう。そんなことを思っていた矢先、彼が出した答えは全く違う面からのものだった。

「言うかどうか迷ったんだけど。俺が止めておくのも変な話だから、言っとくわ。俺さ、例のママと会ったんだよね」

 例のママ? どこのママだ? 萌が考えあぐねていると、山田は困惑したようにこう続けた。

「ほら、お前の彼氏と一緒にいた女だよ」

 頭の中に一人の女が映る。萌がこの世界で一番嫌いな存在だ。全くもって予想もしていなかった事態に、萌は数秒間フリーズした。

「どこで?いつ?」

「何日か前に、帰りの電車で。向こうは飲んでたみたいだったけど」

「何か話したの?」

 イライラしてきたせいで、つい尋問口調になる。山田はちょっと引き気味になりながらも、きちんと受け答えしてくれた。

「ああ。じゃなきゃ、わざわざこんなこと言わないよ。最初は目が合っただけだったんだけど、どっかで見た顔だなって思って二度見したら、相手も同じだったみたいでさ。そこで声かけられた。ダイちゃんの彼女の浮気相手さん?って」

 なんだそれ。山田にしてみたら、意味不明この上ないだろうに。萌はぞわりと怒りが湧いてくるのを感じた。

「最初は何言ってんだと思ったけど、よくよく考えたら繋がってさ。ダイちゃんはお前の彼氏だろ?」

「そうだけど。山田は私の浮気相手じゃないでしょ」

「まぁ、それはな。なんか誤解してるんだろうなと思って、鈴木とは単なる同僚ですって言ったら、突然泣き出してさ。電車の中だったから、焦ったよ」

 山田はその時のことを思い出したようで、苦笑を浮かべた。

萌はというと、確かめる術はなかったけれど、おそらく怒りの形相に違いない。

無関係な彼まで巻き込むなんて、どこまで迷惑な女なのだろう。とどまるところなしに腹が立ってきた。

「ちょうど降りる駅に着いたから、一旦彼女にも降りてもらってさ。少し話をしたわけ。まずは泣き止んでもらわないと、周りからの視線が痛かったから」

「で、何だって?」

「とにかく彼女の言い分は、ダイちゃんに戻ってきてほしいってことだったな。だから、私はあなたを応援しますとか言われちゃったよ」

「意味わかんない。マジ最低」

「彼女なりに、かなり必死みたいだったけどね」

「そりゃそうだよ。生活が苦しくなってるはずだもん。大樹は所詮ATM、それだけの存在だよ」

「金だけだったら、他に誰か見つけりゃいいんじゃね?でも彼女はどうしても彼がいいって、ずっと訴えてたよ」

「あんなに都合のいいのは、そうそう見つかんないよ」

 勤務先もいい。家柄だって、学歴だっていい。見た目だって悪くはない。そして何より、要求すればすぐに動いてくれるのだ。自分のためになんだってしてくれる、そんな人が簡単に見つかるわけがない。

「お前が入れ込んでるくらいだから、相当良い人なんだなぁってのは想像つくけどね」

「相当なバカって言った方が正解だね」

沸々してきた怒りは、この場にいない大樹に向けることにする。山田に八つ当たりなんて、一番しちゃいけないことだ。

「まぁまぁ、それは置いといて。結局、その辺で一時間近く話してたかな。終電無くなっちゃって歩いて帰るっていうから、それはマズいと思ってタクシー代渡して帰したよ」

「渡したの?タクシー代?」

 萌は声が裏返るほど驚いた。

 見も知らぬ相手に突然泣きついて、あげく帰りの費用まで負担させるなんて、あり得なさすぎる。と同時に、そんなことまでしてやった山田にも呆れた。

「ほっとけばいいのに。子どもじゃないし」

「そうなんだけど、でも、俺と話してたせいで危ない目に遭われるのも気分悪いからさ」

「そんなの自己責任でしょ。ほんっと最低な女」

「たしかに計算高そうだね。かなり頭は回ると思う」

「それがわかってなんで、親切心出しちゃうかな」

 あんまりにも感情が昂ったせいで、今度は涙が出てきそうになった。


嫌い、憎い、消えろ。

あらゆる負の感情が、全てあの女に向かっていく。

こんなに心の底から毛嫌いする相手なんか、今まで一人もいなかった。それなのに、どうあっても萌はあの女から逃れられないんだろうか。大樹と離れない限りは。

「連絡先も聞いてないし、俺は多分もう会うことはないだろうね。でも、お前の方は一筋縄じゃ行かなそうだな」

「彼は、もう完全に切ったって言ってるけどね。大樹の口座は私が管理してるし、携帯も拒否してる。家も知らないはずって言ってたから、多分大丈夫だとは思うけど」

「…そっか。なら、平気かな。ま、また何かあったら言ってよ。相談くらいなら乗るからさ」

「ありがと。ほんとごめんね」

 萌は仕事のミスを謝る時のように、深々と頭を下げた。自分が悪いわけじゃないけど、萌と関わったばかりに、山田にまで火の粉が飛んでしまったのだ。その点は素直に申し訳ないと思う。

「大樹にもよく言っておく。山田は、余計なこと考えないで仕事頑張って。佐久間さんのサポート大変だろうけどさ。こっちこそ、出来ることあるならいつでも声かけてよ」

「おう、サンキュ。じゃ、お疲れさん」

 バイバイとそう告げるときは、何とか笑顔を見せることが出来た。しかし、山田に背を向けた瞬間、萌の額には即座に青筋が浮かんだ。


 絶対に許さない、あの女。これ以上萌の生活圏に侵入して来ようものなら、ただじゃおかない。どんな手を使っても制裁を与えてやる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る