第22話

「お疲れ様です。先程の件ですが、五時から打ち合わせが入ってしまったので、リスケしていただけますか。よろしくお願いします。」

 萌は百合宛にそう社内メールを送った。これなら業務連絡にしか見えないだろう。作成中も送信後も、いかにも業務中ですという風を装っていたから、怪しまれることもないはずだ。


 社員間での個人的なやり取りはあまり推奨されていない。部署の違う者同士のプライベートな約束事を送信するのは、特に。それでもやっている人はいるし、罰則があるわけでもない。ただ、萌の心情的になんとなく抵抗があるだけだ。実際、速攻百合から返ってきたメールはラフそのものだった。

「りょーかい。また今度ねー」

 せっかくのカモフラージュが全くの無意味だったことを思い知らされて、萌はどっと力が抜けた。

 でも、とりあえずはこれで一安心だ。余計な情報をペラペラ話してしまって、自分への信頼が失われでもしたら、それこそたまったものじゃない。

 ある意味での重要会議を避けられたことに心を撫で下ろした萌は、打ち合わせ用の資料に作成することに没頭した。



「では、今度のテーマはこれでいきましょう」

 萌が急ぎでまとめた資料を手にしながら、山田が堂々とそう告げた。

 今度もまた彼がリーダーだった。こんなにも次々と案件を立ててばかりいたら、全く休む暇なんかないだろう。事実、彼はあの買い出し以来休んでいないらしい。


 前回のチームとは多少顔ぶれが変わっていたけれど、美奈子と後輩の高橋くんは組み込まれていた。二人ともどうしても山田との仕事がしたいようで、他の業務が圧しているにも関わらず、自ら志願してのことだった。

 そんなことを百合たちが知ったら、仕事バカだと鼻で笑うに違いない。萌だって、感心する一方で多少呆れてもいた。


「今回は比較的軽そうだし、締めも遠いからじっくりできるかと。だから実質的な仕切りは佐久間さんにお願いしようかと思っています」

 事前に打ち合わせがあったのだろう。美奈子は山田に対して小さく頷いて見せてから、全員に挨拶を述べた。

「まだまだ不慣れでご迷惑をかけることもあるかと思いますが、頑張ります」

 彼女にとっては初の大仕事なのだろう。堂々とした態度に見えたが、隣にいた萌にはわずかに震えているのが伝わってきた。

「もちろん、俺もサポートはするから、安心してやってください」

 山田の口調が優しすぎで、思わず萌もきゅんとしてしまった。当人なら、尚のこと。美奈子は嬉しくって仕方がないとばかりに、満面の笑みを彼に返していた。


 打ち合わせ後、データが入ったUSBを手に、山田が萌の席までやって来た。

「鈴木、悪いんだけどさ、しばらくは佐久間さんのヘルプを頼むよ。ちょっと取りまとめの方に専念させたいからさ」

「もちろん。やることあったらすぐに言ってね」

 萌は山田に返事をした後で、美奈子に向けてそう言った。彼女は、ありがとうございますと言ってくれたものの、その視線は妙に刺々しかった。

 原因は多分、山田の位置取りのせいだ。彼は萌の椅子に両手をのせて、寄りかかるようにしながら話をしていたのである。

「ちょっと、重いんだけど」

「ああ。わり」

 椅子の回転が悪くなったことを口実に苦言をいうと、山田はすぐに体をどけた。すると、美奈子の雰囲気も多少柔らいだような気がしたのだが、それはほんの一瞬でしかなかった。

「鈴木、今日はどうする?」

 まるでデートの誘いのような文句に、明らかに美奈子が反応してきたのだ。もちろん萌には彼の意図はわかっている。だから、演技も交えて少しばかり嫌そうにこう返した。

「二時間つけてください、リーダー」

「ほい。りょうかい。申請しといて」

 案の定、美奈子は残業のこととわかってほっとしている。こんなに感情をむき出しにする彼女が、取りまとめなんかできるんだろうか。萌はなんとなく今度のチームの失敗を思った。



「やっぱり結婚式っていいですねぇ」

 二次会からの帰り道、酔いも手伝っていたせいで、萌は必要以上の大声でそう言った。

 九時を少し過ぎているが、銀座の夜はまだまだこれからだ。四丁目の交差点は、まだ人で溢れかえっている。周りには酔っ払いや、異常にテンションの高い集団がいたりと、昼間とはまた違った顔を見せている。そんな空気も手伝って、萌もいつもより興奮していた。

「私もやりたくなっちゃいました」

 若干呂律の回らない感じでそう言うと、百合からは少々冷めた視線が送られてくる。それに気が付いた萌は急に気恥ずかしくなったけれど、彼女の口から発された言葉は思ったよりも優しいものだった。

「素敵な式だったよね。私も羨ましくなった」

「百合さんの二次会もとっても良かったですよぉ。私の人生で、初出席ですし」

「そっか。うちは七月だったから、萌ちゃんが新入社員で入ってすぐだったよね」

「はい。呼んでいただけて、めっちゃ嬉しかったです」

 萌は心からの思いを口にした。


 教育係として、萌をイチから指導してくれた百合に対しては尊敬の念しかない。そんな憧れの存在に、結婚式の二次会という特別な場に招待されたことは、萌にとって一大イベントだったのだ。

「あれからもう五年くらい経つのか。早いなぁ」

 百合はしみじみそう言った。同じことを萌も思う。時間が経つのは、早い。

「ね、まだ時間大丈夫でしょ?ちょっとお茶していこ」

「はい。行きます」

 百合からの誘いを断ったことは、余程の事情がない限り、なかった。

 仕事も出来て、性格的にもきっぱりはっきりしている彼女のことは、変な意味ではなく大好きだからだ。一緒にいて話をしている時間は、楽しいということも含めて有意義だったし、何より楽だった。ついつい必要のないことまで話してしまうというデメリットがあったが、それは萌の自己責任。歯止めをきかせられない自分が悪い。


 彼女が入ったのは、駅前にあったチェーンのカフェだった。アルコールの後だったから、萌はオレンジジュースを頼んだ。

「この前さ、なんか話したいって言ってたじゃん。どうした?」

「あ、あれですか」

 ジュースの冷たさと百合の一言で、ようやく頭が回り出した。

 そうだ。当然、彼女はそのことを話題にするに決まっていたのである。今さら言い逃れの言葉も浮かんでこなくて、萌はもごもごと口を開いた。

「今日はお祝いだし、あんまり相応しい話じゃないんですけど」

「ってことは、祥子のことか」

 百合はカプチーノを一口飲むと、ふうっと溜息をついた。そして周りを見渡して、知った顔がいないことを確認する。

「何か、気が付いちゃった?」

「はい。あの、山田にちょっと聞いてもいて、それと本人からも」

「祥子が?自分で言ったの?」

 百合は信じられないとばかりに目を見開いた。身を乗り出さん勢いの彼女に押される形で、萌はするりと次の句を吐いてしまった。

「いえ。相手の方が」

「ああ、そういうことね。あの人、口も頭も体も軽いみたいだからね」

「ご存じだったんですか」

「うん。ちょっと問い詰めたことがあって。お互いに遊びみたいな感じだったけど、やっぱりちょっと、私は抵抗があったから」

「ですよね」

 百合はそう言って、机を睨んでいるように見えた。

 彼女は、ザ・真面目というわけではないけれど、浮気やら遊びやらには嫌悪感を抱いている。自分では決してしないだろうし、他人に対してもとやかくいうようなことはないだろうが、祥子は親友ということもあった思うところがあったのだろう。

「彼氏のことも知ってたからさ、あんな男のために裏切るのはどうなのよと思って」

「たしかに」

「で、知ってるのはそれだけ?」

「はい。え、まだ何かあるんですか?」

 含みを持たせた言い方をした百合に、今度は萌が問い掛ける番になった。

 社歴が長いだけのことはあって、百合のネットワークは幅広い。上層部の裏話も、つまらない世間話程度のことも、大方の情報を持っているようだ。萌が知っていることはほとんど知っているといっても過言ではないだろう。

「まだ確信はないんだけど、多分そう。もう一人、あいつの遊び相手がいるんだよね」

「私も知ってる人ですか?」

「じゃなきゃ、話さないよ」

 百合は困ったように笑った。萌はごくりと息を飲む。

 誰だ。知っている人、ということは意外な人、なら身近な人。まさか。

「あの、管理、ですか?」

 百合はこくりと頷いて見せる。その目には穏やかさは映っていない。

「うそだぁ」

 萌は、はあっと驚きと呆れが入り混じった大きな息を吐いた。

「萌ちゃんの異動の情報、掴んでくるのやたら早かったと思わない?」

「それは、そうですけど。でも第五の人から聞けばわかったことだと」

「異動の件はね。でもそれが業務命令だっていうのは、加瀬さんと部長しか知らなかったはずなんだってよ。他にもさ、新規案件もやたら詳しいんだよね。今度は誰を組み込むとか、メンバーやリーダーでさえも知り得ないことをね」

「でも、それでそんな関係って決めつけちゃうのも、早くないですか」

「もちろん。目撃情報もあり」

「あ、なるほど」

 萌は自分の短絡さに恥じ入った。百合が憶測だけでモノを言うはずがない。きちんと裏をとってあるからこそ、情報として仕上がるのだ。

「なんか、ショックです」

「だよね。私も」

 萌の方は音が聞こえてきそうなほど、がくんと落ち込んだ。仲良しだと思っていた二人にこんな別の顔があったなんて、信じたくない。そしてそれを知っていたのに、決して明るみに出そうとしなかった百合にも頭が下がる。


 萌は乾いた喉を潤そうとジュースを飲んだ。氷が解け切ってぬるくなったそれは、なかなかマズい。

「山田が急にランチ誘ってきて、意味ありげなこと言ってきたんですけど。それって、こういう事情があるから知っておけってことだったんですね」

「山田的には、気を付けろって意味もあったんじゃないかな?」

「私がですか?あり得ない」

「萌ちゃんに関しては私もそう思うけど、山田はさ、やっぱり心配になっちゃったんだと思うよ」

「なんか、そう見られているとかショックですね」

「萌ちゃんがどうっていうことじゃなくて、加瀬さんを警戒してのことだよ。付き合いが長いだけあって、彼の良い面も悪い面も知ってるだろうから、余計にね。ただ、私個人的には萌ちゃんは絶対大丈夫だと思うよ。こういうのも悪いけど、彼は軽い相手にしか目を向けないから」

「私、そんなに重いですか」

 恨みがましくそう言うと、百合はくつくつと笑った。

「なんていうかな、割り切りOKみたいな子じゃないと、彼のフィルターから弾かれるんだと思うよ。実際、今までも結婚退社間近とか、彼氏有りとかの子で、遊べそうな子にしかいってないから」

「けど、祥子さん達は」

「なんだかんだ言っても、あの二人は遊び慣れてるから」

 百合の言葉にはあきらかに棘があった。いつもつるんでいて、仲の良い面しか見てこなかったから、彼女のそういう態度は初めて見る。が、萌にも百合の気持ちは十分に分かった。

 社内で適当に遊ぶという感覚が、萌にはさっぱりわからない。美佳の交友関係が派手なのは知っているけれど、それが仕事場にまでもちこまれているとは思いもしなかった。祥子に関しては、婚約者がいるにも関わらず、なのだ。


「百合さん、私、平然とできる自信がありません」

「そこは頑張んなきゃ。部署変わって顔合わせることもだいぶ減ってるから、大丈夫だよ。それに、会えば意外に冷静になれるもんだし」

 まさしく、経験者は語る、だ。萌は改めて百合の度量の大きさに感服した。

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