第21話
女の策略通り、大樹はあきらかにうろたえ出した。
「それとこれとは関係ないでしょ。もう切るよ」
「待って。ダイちゃん、本当に助けてほしいの」
「お金渡したとき、これ以上何もしてあげられないって言ったよね。りいちゃんもそれで納得してたはずだよ」
「あの時はそう言うしかなかったもん。お願いだよ。ダイちゃんしか頼れないの」
「人を探すんなら、俺なんかよりも警察行った方が確実だよ」
「警察って、そんな大事にしたくないよ」
「夜中に車出してまで探したいんでしょ。十分大事だと思うよ。警察に相談してごらん」
「…最低。そこまで突き放して、りぃを傷つけて、どうしたいの?そんなことしてまでも彼女に良いカッコしたいわけ?」
「どう思われても構わない。とにかく、俺はもう何もしてあげられないから」
大樹はそう言うと、今度こそ何も聞き入れずに通話終了ボタンを押した。
ブツっと切れた後は、相手には無情な機械音だけが響いているだろう。大樹にしては強引すぎるやり方だったと思う。萌は予想外に冷静さを保ったまま、そんな状況分析をしていた。
「ごめんね。三日前にお金送ったんだ。言いそびれてて、ごめん」
「ひゃくまんえん」
がばっと頭を下げて謝罪する大樹に、萌は淡々とその単語だけを発した。彼は必死な様子でこう言い訳をしてきた。
「うん。結構な高額だったけど、これで終われるんなら安いもんだと思って。だけど、相手には伝わってなかったみたいだね」
「そりゃさ、ATMがいなくなったら生活に支障がでるもん。あんたがこれからも出してくれるであろうお金と比べたら、百万なんてはした金なんだろうね」
そう口に出しながらも、萌には今の状況に現実味が感じられなかった。
多分、これが現実だと実感してしまったら、発狂するであろうことを本能的に察していたからだろう。あくまでも他人事ととらえることで、冷静さを保とうとしているのかもしれない。
「隠すつもりはなかったんだ。でも、話してまた喧嘩になるのを避けたくて、つい」
「そっか。いいよ、きちんと今話してくれたし」
なんでこんなに落ち着いているのか、萌自身不思議だったけれど、大樹にはもっと信じ難いようだ。彼は怯えた目で萌の様子を窺っている。
「結婚資金貯めようって言っている矢先にすることじゃないっていうのは、わかってた。でも、すぐに取り戻せるだろうと思ったから。金なんかより、萌との幸せを邪魔されたくない気持ちが勝っちゃって、それで送金しちゃった」
「結局は効果なしの無駄金だったってことだけどね」
ようやく毒が出てくる。現実逃避の魔法が切れてきたのかもしれない。
「これじゃいつまで経ったって、あの女と切れそうにないね。結婚なんて到底無理だよ」
「ごめん。ほんっとに悪かった。でももうこれで最後だよ」
「そのセリフ、今までに何百回聞いてきたかわかんないよ。もう信じられない。無理」
言い出したら止まらなくなった。萌は小さくなっていく大樹を上から睨み付けながら、罵声を浴びせ続ける。
「あの女にいくら貢げば気が済む?いつまで利用されたいの?あんたって本当に底なしのバカだね。金づる手放さないための演技も見抜けないで、女の心配までしてさ。大事にするものの順番をはき違えてるあんたには、ああいう最低女がお似合いなんじゃないの?」
「ごめん。でも今回のことは、萌との将来を考えたからで」
「だからバカだって言ってるの。バッサリ切っちゃえばいいじゃない。全部着拒して、連絡取れないようにすれば済む話でしょ。そうしないのは、あの女に情があるからだよね。私をないがしろにしてまで大事にしたいのなら、そうしなよ。もう私はあんたたちに関わりたくもない」
一気にそう言い捨てると、萌の目頭は急に熱くなってきた。これまで耐えてきた色んな事まで思い出されて、悔しさと悲しさが津波のように押し寄せてくる。
「別れよ。出てって」
萌、と大樹が悲しげに呟く。それがまたイライラを増長させて、口調はさらに激しくなる。
「あの女のとこに行けばいい。タクシー捕まえて、実家戻って、車出して来ればいいじゃない。きっとATMの復旧を喜んで受け入れてくれるよ」
「別れないし、帰らない。俺は萌と一緒にいるって決めたんだから」
「そんな自分勝手、知らないよ。とにかく私は嫌なの」
「勝手なのは十分承知だよ。でも、俺は萌といたいからここにいる」
形勢逆転。大樹はいつの間にか立ち直っているようで、落ち着き払っている。逆に萌は抑えられなくなった感情に囚われて、我を失っていた。
「もういや。こんな思いしたくない。あんな女消えればいいのに」
泣いてぐしゃぐしゃになりながらそう喚く萌を、大樹はそっと包み込んだ。ごめんね、ごめんねと何度も耳元で囁いてくれる。
萌が捨てきれないのは、この温かさだ。彼の広い胸にうずもれていると、どうしても離れられなくなってしまう。大きな手で頭を撫でられる心地良さも、抱きしめてくる強さも、手放せない。大樹の存在全てが、萌にとっては必要不可欠なものなのだ。
「連絡は一切取らない。今すぐに消すよ。カードも通帳も萌に預ける。もう勝手なことは何もしない。そのほかにも萌が求めることなら何でも応じるよ。だから、一緒にいて欲しい」
真剣な目でそんなことを言われたら、他の答えなんか出てこない。萌はしゃくりあげながら、答えを告げた。
「…わかった。一緒にいる」
ああ、また振り出しに戻る、だ。この不毛な人生ゲームは、何度繰り返せばゴールにたどり着けるんだろう。
ようやく話し合いが収束したとき、時計を見れば既に三時近かった。
明日も仕事は山ほどある。もう寝なければ、確実に業務に支障が出る。
「寝る。明日、ちゃんと起こして」
萌はそれだけ言って、彼にくるりと背を向けて睡眠体勢に入った。
「わかったよ。ちゃんと責任もって起こすから、安心して寝ちゃいな。おやすみ」
大樹は優しくそう言うと、萌の髪にそっとキスを落とした。
人一倍優しい彼は、人一倍傷つきやすい。だから自分を守るために、無意識に周囲の人間を傷つけるのだ。それでも、萌は彼のことを何より大切に想っている。
「大好きだよ」
萌は自分への確認の意味も込めて、今一番彼が欲しているであろう言葉を告げた。
「鈴木、今日は一緒に昼行こうよ」
昼休憩に入るなり、山田は財布片手にそう誘ってきた。隣で美奈子がぴくりと反応したのがわかったけれど、萌は気が付かない振りをした。
「ありがと。行きます」
相変わらず、この時間に立ち上がる人はごくわずかだ。それ以上メンバーが増えることがなかったため、廊下を連れ立って歩くのは二人だけだった。
山田と二人でゆっくり話すのは、あのベンチ以来。あの時の礼もろくに言っていないことを思い出して、萌はなんだかそわそわしてしまった。切り出すタイミングをうかがっていると、彼の方からその話題を出してきた。
「最近、彼氏とはどう?」
「この前はありがとね。話聞いてもらえてすっごく助かった。ちょこちょこ問題はあるけど、なんとか上手くやってるよ」
「そっか。なら良かった」
山田は何の他意もなさそうにそう言ってくれた。そしてあっさりと話は終わった。同僚の恋愛にそんなに興味はないのだろう。深く突っ込んできたならある程度は話してみようかなどと考えていたが、まったくもって余計な心配だったようだ。
彼は適当に選んだイタリアンの店に入ると、日替わりの大盛りを注文した。
「何にする?」
「えっと、カルボナーラ、普通盛りで」
「デザートセット、二つ付けてください」
山田はこちらの意見も聞かずに勝手に店員さんにそう告げた。金額を確認すると、プラス五百円。ランチの予算は大幅オーバーだったが、この前の負い目もある手前、文句は言わないことにした。むしろ、こっちから御礼としておごるべきかもしれない。
「今更だけど、異動祝い。おごってやるから気にすんな」
「ええ、そんなのいいよ。私の方こそ」
「それはもう言わなくていい。今は仕事中。プライベートの話は封印ということで」
山田はきっぱりそう言うと、何かを飲み込むかのようにごくごくと水を喉に流し込んだ。
「で、本題なんだけどさ。うちの部署、きつくない?大丈夫?」
「きっついよ。管理とは全然空気違うんだもん。なじめる気がしない」
相手が同期ということもあって、本音がぽろりと零れ落ちる。
「仕事量も多いしさぁ。第五の離職率が高い理由がわかるわ」
「やりがいはあるんだけど。確かに忙しいのは事実だな」
「よく体調壊さないね」
「丈夫なのは取り柄だからな」
山田はにっかり笑った。浅黒い肌は健康そのものに思えるけれど、実際は不健康な毎日を送っているはずである。
「部長も加瀬さんも癖があるんでしょ。噂だけどさ」
萌は少し声を低めてそう言った。すると、山田の顔つきが変わった。
「それって管理での噂?」
「そうだけど」
問題発言でもしてしまったんだろうか。考え込んだ山田を見て、萌はちょっとばかり焦った。が、ちょうど料理が運ばれてきたのを幸いに、食に逃げることにした。
「部長はともかく、加瀬さんはちょっとね」
少し経ってから、山田は重々しくそう口を開いた。
「加瀬さん?細かいとか、しつこいとか、タチが悪いとか」
「いや、仕事のことは別だよ。あの人の実力は確かだから。じゃなくてさ、なんていうか、女関係」
「社内で手を出してるってこと?」
加瀬は、色素の薄い髪色に、彫の深い顔立ちで少々日本人離れした容姿である。そこそこカッコいい。その爽やかな風貌ゆえに年齢よりもずっと若く見えるから、憧れる人がいるというのもわからなくもない。だが、確か彼は既婚者だ。
「俺が知ってるだけでも四人はいる。そのうち二人は辞めてるってか、辞めさせられたみたいだけど」
「はぁ。その点はダメな人なんだね」
加瀬に興味があるわけでもないから、ワイドショーでも見ている気分だ。ただ、相手の方は少し気になる。既婚者とわかって相手になるのはどんな人なんだろうか。
「お前は何も知らない?」
「うん。聞いたことはないね」
萌がそう言うと、山田は一瞬迷ったようだったが、この話を終えることにしたようだ。
「そうか。まぁ、お前に限っては大丈夫だろうけど、引っかからないように気を付けろよ」
「ご忠告、ありがとうございます」
おどけて言った萌に、彼はわずかに困惑の色を見せたけれど、それ以上のことは話さなかった。
「悪いんだけどさ、これ急ぎでお願い」
午後イチで、萌は加瀬からそう仕事を振られた。当然、他を後回しにせざるを得ない。
「わかりました。今日中ですね」
「そう。よろしく。もし他の仕事が終わんなくなったら、週末の申請してくれていいから」
「…はい」
半ば無理やり休日出勤を命じられたようなものだが、今週はあまり出たくなかった。既に一日は予定が入ってしまっているからだ。
「土日、どっちでもいいけど。俺は土曜ならいるよ」
「土曜はちょっと、結婚式の予定があって」
「ああ、しょうこ。あ、いや、中野さんの結婚式か」
萌は前半の単語の耳を疑った。聞き間違い?そんなことはない。
加瀬は確かに祥子と口にした。思わず山田の方を見てしまったけれど、彼は熱心にパソコンに向き合っていて、こちらの様子になんて気付いてさえいない。
どういう関係なんだろう。もしかしたら、親戚とか。そんな子供じみた思想が湧いてきたけれど、祥子からはそんなことを聞いたことはない。むしろ、加瀬については悪評しか下していないはずだった。
一人で抱え込むにはちょっと厄介な疑問だった。気になって仕方がなかったけれど、とにかく今は目の前の仕事を片付けることが先決だった。萌はすうっと息を吸い込むと、気合を入れて取り掛かった。
三時過ぎ、化粧室に行った萌はたまたま百合に会った。
「おつかれ」
いつもの綺麗な笑顔を見て、やさぐれそうになっていた気持ちにぱっと花が咲く。と、同時に、一旦はしまい込んだはずの謎がムクムクと湧いてきてしまった。
「祥子さん、今日はお休みですか?」
「うん。週末の準備だってよ」
そうですか、と何気ない返事はしたものの、心中はかなり緊張していた。
聞いてしまおうか。そう誘惑にかられるけれど、地雷かもしれないと思うとブレーキがかかる。萌のそんな妙な態度に百合が気が付かないはずがなかった。
「どうかした?」
「え、いいえ。何でもありません」
「ウソつくな。顔に困りましたって書いてあるよ」
萌はとっさに自分の頬に触れたが、そんなことが書いてあるはずもない。動揺ゆえの奇行に、百合が苦笑する。
「ここじゃマズい感じかな?今日、定時?」
「多分残業です」
「ん、そっか。でも三十分くらい抜けたって平気でしょ。近くでお茶しよ」
百合はそう言うと返事も聞かずに、バイバイと行ってしまった。
どうしよう。聞くべきか、否か。後者なことは重々承知だが、萌は百合の前で隠し事はできない。抜けられなかったと言って、話を流してしまうのが一番の解決策だろうけれど、多分その嘘も見抜かれる。
とりあえず終業までは忘れよう。萌は鏡の中の自分にそう言い聞かせた。
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