第20話

「管理部にいた鈴木です。よろしくお願いします」

 萌はずらりと居並ぶ開発部の面々を前に、固くなりながらもなんとかそう挨拶をした。一番前には部長、その隣には副部長の加瀬が座っていて、観察するようにこちらを見ている。緊張するなというのは無理な話だ。

「こちらこそよろしく」

 鬼のように厳しいと評判の部長に、細かくてしつこいとの悪評の加瀬。彼らの下で働くのは、寝る間も惜しまない仕事人間達だ。ぬるま湯のように居心地のよかった管理部とは、まったくもって毛色が違う。

「仕事内容的には管理部時代に手伝ってもらっていたのと、ほとんど変わらないよ。気楽に頑張ってくれ」

「はい。どうぞよろしくお願いいたします」

加瀬からの言葉に、萌は必要以上に大きな声でそう返事をした。


 萌にあてがわれたのは、今まで空いていた窓際の端っこの席だった。この配置だけは、本当にありがたい。始終ピリピリしている開発のメンバーのど真ん中に置かれたりしたら、胃痛で出社拒否に陥ってしまうかもしれなかった。

隣は美奈子だった。仲が良いわけではないけれど、見も知らぬ相手よりはずっといい。

「ついに来てくれましたね。首を長くしてお待ちしていましたよ」

 席に着くなり、彼女は冗談交じりでそう言った。それに対して萌は笑顔でぺこっと頭を下げるに留めた。目が笑っていなかったことに気付いたからである。

 もうさっそく管理部が懐かしかった。ほんわかした空気に、気心の知れたメンバー。ゆるゆると流れていく仕事時間と、基本的な定時退社。ここには絶対にそんなものは存在しないだろう。

 ちらっと隣を見ると、美奈子はすでに臨戦態勢に入っていた。女性ながらにこの部署で頑張っているだけあって、やる気もあれば、ハートの方も強いのだろう。


 来てしまったからには、この雰囲気に慣れるしかない。萌は大きく深呼吸すると、気持ちを割り切った。与えられた業務をこなす。社会人としての基本に立ち返るだけだ。

 頑張ろう。結婚費用を稼ぐために。


 昼休みになったというのに、誰も動く気配はなかった。管理部であれば、もうみんなで連れ立って廊下を歩いている時間になっている。

 さすがに新参者の萌が一番に休憩を取るのもはばかられて、しばらく様子を見ていたのだったが、それでも動き出す人はいなかった。空腹にもなってきたし、たまりかねた萌は美奈子にそっと問いかけた。

「昼って、皆さんどうされるの?」

 美奈子はそれではっと気づいたように時計を見た。

「もうそんな時間ですか。適当に抜けて食べてきて大丈夫ですよ。買ってきてデスクで食べてる人のが多いですけど」

 言われて周りの様子を見てみると、なるほど、朝買ってきたのであろうコンビニの袋を広げている人が何人かいた。

「そうなんだ。じゃ、ちょっと出てきてもいいかな」

「はい。いってらっしゃい」

 美奈子は言い終えるなり、またパソコン画面に向き合う。これが日常、そんなことをみせつけられているような気がして、萌は少しばかり気落ちした。


 コンビニ袋をぶら下げてエレベーターを待っていると、後ろからぽんと肩を叩かれた。振り向けば、見慣れた三人衆がそこにいて、萌は思わず泣きそうな声を出してしまった。

「百合さん、帰りたいです」

「初日からコンビニか。かわいそうに」

 百合はそう言ってよしよしと頭を撫でてくれた。

「歓迎ランチも無しって、部としてどうなんですかね」

 美佳が憤慨したようにそう言った。祥子は仕方ないとばかりに首を横に振る。

「だって開発だもん。部長からしておかしいからどうしようもないよ」

 祥子は周りを気にしながら声を潜める。彼女の整った眉がいつになく釣り上がって見えた。

「あんなとこ行かされて、ほんっとに萌ちゃんがかわいそう。表立ったノルマこそないけど、それでもちょっとでも成績が落ちようものなら、あからさまに評価下げられるんだってさ。うちの会社の離職率を上げてるのはあそこなんだから」

 この間の励ましはどこへやら。祥子は吐き捨てるようにそう言った。彼女が開発を毛嫌いしていることを差し引いても、その評価は的外れではなさそうだ。

 なんだって萌はそんな外れクジを引かされてしまったのだろう。

「本気で嫌になったら、結婚退社もありでしょ」

 百合がからかうように言うのを聞いて、美佳が苦笑いを浮かべながら問う。

「例の彼と?」

 萌はこくりと頷いた。とりあえず他に当てはない。

 送金騒動については、まだ香菜にすら話していなかった。

 萌としては、あの晩大樹の本音を聞けたことの方がよっぽど大事で、それに比べれば些細なことに思えたからだ。だから話す価値も愚痴る価値もないと判断して、胸の中に収めている。

「その話も聞かなきゃだし。ランチ行ける空気じゃないだろうけど、たまには誘うから」

 百合にそう言ってもらえて、萌は心の底から嬉しくなった。

 会社とはいえ、仕事とはいえ、やはり親しい人がいるのといないのでは、やる気にも明らかな差がでるのだ。これからまたあの仕事場に向かうと思うと憂鬱で仕方なかったが、百合からの言葉を励みに頑張ることにしよう。


「鈴木、これちょっとまとめておいてもらえる?」

 サンドイッチを食べている萌のデスクに、山田は山積みの書類をどんっと置いた。

「今日中とは言わないから、二、三日で頼む」

 タマゴサンドを口に頬張ったまま、ざっと見積もってみた結果、資料の量の割にはそんなに手間がかからなそうだ。今日中と言われれば、定時上がりでは無理だろうが、明日まで時間をもらえれば普通に終わるだろう。

 余裕じゃん。そう思っていたのも束の間。そのあとすぐに同じようにやって来た人が数名いた。

 無理だ。前言撤回までに要した時間は十五分弱。萌はサラダを食べることは諦めて、すぐに仕事に取り掛かった。


 残業申請はすぐに通った。管理部とは大違いだ。部長は申請内容を見もせずに、すぐにサインをしてくれた。

「長引くようなら、明日、時間の修正して」

「はい」

 残業ありき、その延長もありき。たしかにここにいたら仕事人間になるしかなさそうだ。

 急に振られた膨大な業務量に圧倒されたけれど、それを嘆く時間すら惜しくて、萌は自分の最大スピードでこなしていく。おしゃべりをしている時間も、携帯を見る時間もない。ただひらすらに黙々と仕事をするのみだ。

「お先に失礼します」

 萌がそう告げたのは十時過ぎだというのに、ほぼ全員がまだまだ集中して作業をしている。お疲れ様でしたという声はちらほら聞こえたが、誰も萌の方を見ることはない。これ幸いと、そそくさ帰ることにした。



「お帰り。遅かったね」

 明かりのついた部屋で、出迎えの声を聞くなんてずいぶん久しぶりのことだった。

 先に帰っていた大樹は、ラフな格好でくつろいでいる。萌の買い置きのビールを片手に。

「ごはんは?」

「買ってきた」

 こんな時間に牛丼。カロリーオーバー間違いなしだ。

 大樹は我が物顔で冷蔵庫からビールを出してきて、グラスに注いだ。牛丼とサラダ、それにビールが並んだ食卓を見て、萌は何とも言えない悲しさを感じた。

 健康志向でもなければ、かわいげもない。オヤジの夜食のような光景だ。唯一の救いは、大樹がそんなことを全く気にしておらず、ニコニコ笑顔を向けてくれることだろう。

「残業、おつかれ。噂通りの激務部署だったわけね」

「そ。いつまで持つかはわかりません」

 サラダにドレッシングをかけながら、萌はあっさりそう言った。

 やりがいはありそうだ。でも、こんな生活がずっと続くとなると、話は別だ。

「私はさ、バリキャリとは程遠い、ただのOLだよ。残業代よりアフターファイブを大事にしたい」

「そうだね。俺は、萌が頑張るって言うなら全然応援するけど。でも、出来るなら俺よりは早く帰っていてほしいな」

「でしょう。大樹だって仕事忙しいのに、これであたしまでガンガン働いちゃったら、ほんとにすれ違いになっちゃう」

「辞めたくなったら、辞めちゃいな。俺は全然構わないから」

 大樹は穏やかに微笑むと、空いたグラスにビールを注ぎ足してくれた。こういう気配りはできるのに、たまにとんでもなくずれた行動をすることが謎で仕方ない。

「なに?どうした?」

 あまりにじっと見つめてしまったせいで、大樹は不思議そうな表情を浮かべた。萌は慌てて首を振った。

「ううん、なんでもない」

 それからしばらく二人は、大したことのない世間話をしながら、テレビを見ていた。どちらからともなく寝ようという雰囲気になったのは、日付が変わった頃だ。

二人でベッドに入り、おやすみと挨拶をする。そして電気を消したちょうどその時だ。大樹の携帯のバイブが鳴り始めた。

「電話じゃない?」

「ん。そうだね」

「出ないの?」

「いいよ。気にしないで」

 大樹は若干不機嫌そうにそう言った。察するに相手はあの女なのだろう。彼は無視を決め込んで寝ようとしているが、電話は鳴りやみそうにない。

「出ればいいじゃん」

「めんどくさいから」

「…でもさ、私が気になるんだけど。しかも結構しつこいし」

 留守電になるまで鳴らし続けること、三回目だろうか。ずっと床に響くバイブ音は耳障りだった。

「何か大事な用件かもしれないよ」

「…いいよ。寝よう」

「何かやましいことでもあるわけ?私の前では話せないとか」

「それはないけど。いいよ。めんどくさい」

 頑なになってきた大樹に、萌の方でも意地が出てくる。彼は気弱そうな見かけとは裏腹に、相当頑固な面もあった。一度決め込むと、なかなか意見を翻さないのだ。そしてそれは萌も同じだった。

「出てって言ってるの。そうしないなら電源落としなよ。うるさい」

「わかったよ。切ればいいんでしょ」

 大樹はベッドから起き上がると、机の上から携帯を取った。そうして電源スイッチに手をやった、が、操作を誤ったらしい。通話口から、あの女の声が聞こえてきた。


「ダイちゃん。助けて」

 一番に聞こえてきたのは、必死に助けを求める女風のセリフだった。耳にするなり、萌の気持ちがざわりと波打つ。

「ごめん、夜だから切るよ」

 ブチっと切ってしまえばいいものを、大樹は丁寧にそう告げた。女は切られまいとばかりに縋りついてくる。

「待って。本当に大変なの」

「どうしたの?」

 ああ、聞いちゃった。萌はそう口にしてしまった大樹を横から睨み付けた。

 聞いてしまった以上、間違いなく付き合わされるに違いない。彼はそういう性分だ。

「あのね、ユウがいなくなっちゃったの。行方不明」

「俺に言われても。家族にでも連絡してみれば?」

「できないよ。連絡先なんか知らないもん」

「今度こそ結婚するって言ったじゃない。顔合わせ位したんでしょ」

「そんなのやめたよ。ダイちゃんが良いっていったじゃん」

「…」

 無言でいる大樹に、女は矢継ぎ早にこう続ける。

「りぃにはダイちゃんしか見えないから、サヨナラしようっていったの。そしたら、いなくなっちゃった」

「俺は無理っていったはずだけど」

「りぃも無理だもん。ダイちゃんなしじゃ生きていけない」

 機械越しに聞こえてくる泣き落としは切羽詰まっていそうだが、そんな声はいくらだって作れるものだ。萌は女の表情を見てみたくなった。

「とにかく、夜も遅いしさ、今日は何を言われても無理だよ。家にいないから車も出せない」

「家にいないって、どこにいるの?まだ仕事?」

 少し考えればわかるだろうに、女はそう問うてきた。

 わからないというなら、かなり高い鈍感力の持ち主か、本物のバカだ。それとも大樹がいる場所を解り切った上で、こんな攻撃を仕掛けてきたのだろうか。どちらにせよ、萌の怒りはじわじわとマックスへと近づいていった。

「仕事ならさ、早く切り上げて家に帰ってよ。車でユウを探したいの」

「仕事じゃないよ。とにかく、無理だから」

 ずいぶんと図々しい頼み事を平然としてくるものだ。萌は隣で話を盗み聞いているだけでもくらくらしてきた。自分本位にも程がある。

 だが、要求に驚かない大樹にも、正直呆れた。きっとこんなことは日常茶飯事だったのだろう。そして当然のようにそれに応じてきたから、女はどこまでもつけ上がってしまったに違いない。

「今日は絶対に応えられない。ごめんね」

「ダイちゃん。どうしちゃったの?最近おかしいよ」

 おかしいのはお前だ。萌は、大樹から電話を奪い取ってそう怒鳴りつけたい衝動をどうにか抑え込んだ。

「彼女のせい?彼女がダメって言ってるの?」

 女の声に怒りが滲んできたのが伝わってきた。思い通りの回答が得られなくてイライラしてきたのだろう。


 もしかしたら、本当に常識がないのかもしれない。彼女がいる男性に対して、夜中、仕事をほっぽってまで車を出せという。もし真面目にいっているのだとしたら、もう救いようがないだろう。ここまで世間観とずれた人は滅多にいない。


 萌がそんなことをぼけっと考えていると、意外にも大樹はしっかりした口調でこうはねのけた。

「彼女は関係ない。俺が拒否してるだけだよ」

「ウソだ。ダイちゃんはそんなに冷たいはずがないもん。まさかさ、この間のお金で全部解決したとか思ってない?あんな額、百万ぽっちじゃ三か月も生きていけないよ?」

 その言葉を聞いた瞬間、大樹はもちろん、萌の顔色もさっと変わった。

 百万とそう言う時だけ、彼女は一段と声を大きくした。まるで大樹と一緒にいる誰かに話を聞かせるかのように。


 萌の彼女に対する認識が、さっきまでとは百八十度転換した。あの女は常識外れのバカなんかじゃない。人一倍賢く、計算高い女だ。

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