第19話

 ぐぅぐぅと大樹の寝息が聞こえる。眠れずにいた萌は、その神経の太さに唖然とした。

 大樹の言っていることは、わからなくはなかった。ただあくまでも大樹本位な考え方だ。自分がどちらにも良い顔をしたくてしているだけで、それで得するのはあの女だけ。やっぱり萌は後回しにされている。


 暗闇で不自然に光る緑色。萌は光源である大樹の携帯を手にした。


 こんなことをするのは最低だ。プライバシーの侵害だし、信頼関係の破綻になりうる。見たことがバレれば、大樹から別れを告げてくるかもしれない。そんな常識的なことは百も承知だが、それでも真実を確かめたい衝動には勝てなかった。

 萌はドキドキしながら、彼の携帯を操作した。

 

 特定のメッセージを開く。ずらっと並んだ最近のやり取りには長文が目立ったけれど、未読になっている分は全て短文だった。

「寂しい」「会いたい」「ダイちゃんが好き」「誰よりも大切な存在です」「声がききたい」

 別れた恋人に送るような、未練たらしい一文がいくつもあった。それらは全てここ十分以内に受信している。これが緑色の正体だ。

 少し前に遡ってみると、かなりの数のやり取りがあった。これじゃ全部をきっちり読むのは難しそうだ。

 流し読みをしているうちに、口座番号が書かれたものを見つけた。あっと思って、その前後を慎重に確認してみる。


「そう言えばもう月末かぁ。あっ、明日、家賃と給食費の支払だ。今月仕事休んじゃった日が多かったから、ちょっとキビしいかなぁ。でも払わなきゃ、みぃたちがかわいそうだもんね。もういっこバイト増やそうっと。がんばるよ、あたし!」

「大丈夫?体調だってまだ治ってないんじゃないの?無理しちゃだめだよ。少しなら助けられるけど?」

「そんなぁ、ダイちゃんに頼れるわけないじゃん。りぃなら大丈夫だよ。いくらでもがんばれるから」

「また倒れたらどうするの?いいよ。遠慮しないで」

「…いつもごめんね。でも、今は…会えないんだよね…?」

「うん。会うことはできないけど…お金だけなら、番号教えてくれたら送れるから」

「ありがとう。これだよ→ 中央銀行 城南支店 1027555 イマダリエ」

「ダイちゃん!めっちゃ感謝!ありがとう。ほんと助かったよ。いつも助けてくれる優しいダイちゃん。大好きだよ」

「無事に届いてよかった」

「いつも助けてくれるよね。やっぱり離れるの、やだな」

「ごめんね」

 大樹はそれを最後に送っていない。代わりに彼女からの短文が山ほど未読で残っていた。

 

 これを見る限り、大樹は嘘はついていなそうだ。騙されているのか、わかっていて陳腐な演技に乗っかっているのかはわからないけれど、シャットアウトに向けて動いていそうなことはわかった。

 萌はもう一度、メッセージに目を落とす。ざっと見ているうちに、気になるものを見つけた。


「もう十年近く一緒にいるんだもん。ダイちゃんは空気みたいにいるのが当然な存在だよ。だから離れるなんて考えられない。みぃたちだって、本当のパパになってくれる日をとっても楽しみにしてるんだよ。それなのに、ひどいよ…」

「ごめんね。けど、みいちゃん達にはちゃんと本当のパパがいるじゃん」

「ダイちゃんがいいってゆってるよ。もちろん、りぃもダイちゃんのが好きだよ」

「俺もりいちゃんは好きだよ。けど、でもあくまで友達で、親友だと思ってる」

「友情で、ずっとそばにいてくれたの?みんなで旅行行った時だって、家族みたいだねってゆってくれたのに」

「ごめんね。けど、やっぱり俺がいたらあいつだって戻って来づらいし、離れるのがお互いのためだと思うんだ」

「あんなやつ、どうでもいい。ダイちゃんのがよっぽど大事だよ。お願い。彼女と別れて、あたしのとこに戻ってきて。またみんなで楽しくしたいよ」

「彼女とは別れないよ。大事な人だから」

「会社の人と浮気するような女なのに?ダイちゃんダマされてるんだよ。かわいそう。私なら絶対ダイちゃんを幸せにできるよ。今まで一緒にいて楽しかったじゃん。また前みたいになろうよ」


 会社の人と浮気?どういう意味だ?

 萌は眉間に皺を寄せた。日付的にはちょうど仕事が立て込んでいた頃、山田のチームに組み込まれていた時期だった。

「山田か」

 なるほどと萌は一人頷いた。

 たしかにあの頃、大樹は何か疑っていた節がある。実際、嫉妬しているとも言っていた。けれどそんな事実は一切ないのだ。こんな風に確定事項として決めつけられると腹が立った。そしてそんなことまで女に話していた大樹にもイライラした。


 一度だけ会った、あの女。萌より年上で、しかも子持ちだというのにそうは見えないような恰好をしていたっけ。

 金色に近い茶髪に、胸の大きく開いたトップス。素足でひざ上十五センチのミニスカートに、十センチ以上のヒールのあるサンダル。若いギャルならともかく、三十近い大人の服装ではないだろう。それだけでも、どんな人間性なのかと疑いたくなるというのに、あの鼻にかかったようなしゃべり方がさらにマイナス要因として働いていた。

 大樹は何が良くてあの女と一緒に過ごしていたんだろう。萌にはさっぱりわからなかった。



「気が済んだ?」

 暗闇の中からくぐもった声が聞こえてきて、萌は心臓が止まるかと思うほどにびっくりした。

「起きてたんだ」

「うん。萌が起きたくらいから」

 ということは、一部始終は見られていたということだろう。

 萌は一瞬ためらったものの、無断でのプライバシー侵害については謝ることにした。

「ごめん。勝手に見ちゃった」

「いいよ。それで萌の気が済むならね」

「とりあえず、大樹がほんとのこと話してくれてたってことはわかった」

「なら、良かった」

 大樹はもぞもぞと起き出してきた。萌と向かい合うように座った彼の視線は、萌の手の中に注がれる。

「萌が見たいなら、いつでもどうぞ」

「ごめんなさい」

 萌はそう言って携帯を彼に返した。大樹は中身を確認することもなく、そのまま机の上に静かに置いた。

「これでもう隠すことは何にもないね。そこに全部書いてあったでしょ。それ以上のことはないから」

 大樹は咎める気配なんてちっとも見せず、むしろ安堵したような表情を浮かべている。萌は重苦しい罪悪感に圧迫されたかのように、頭を垂れた。

「萌が落ち込む必要なんてないよ。悪いのは全部俺なんだから」

「大樹だって、悪くない。悪いのは」

「あの人だって言いたいのかな」

 途中で言い澱んだ萌の言葉を大樹が補足する。そう告げた時の彼はどこか寂しそうな目つきだった。

「あの人もね、実は色々大変なんだ。子ども二人抱えて、パート掛け持ちして、働きまくってる。体壊したこともあったみたいだしね。けどそれでも生活費は足りなくて、困り果ててた。だから少しくらいなら応援しようかなって思っちゃったんだ。俺は別にお金使うことないしさ。ま、そんなことをしてやる立場でもないことはわかってたけど」

「…そんなの自己責任じゃん。二人も子ども産んでおいて、一人じゃどうにもならなくなって他人に頼るなんて、間違ってるよ。しかも実の父親だって、近くにいるんでしょ。ちゃんと結婚して、二人で育てていけばいいじゃん。なんで大樹が巻き込まれるの。意味わかんない」

 心底同情している風に言った大樹とは反対に、萌の口調は刺々しくなった。あの女が高笑いしている姿が目に浮かび、全てが嘘のように思えたからだ。


「生活費が足りないってさ、笑わせないでよ。大樹の給料のほとんどをつぎ込んでたわけでしょ?それなら世間ではそこそこ裕福な部類に入ると思うよ。この前買ってたものだって贅沢品じゃん。旅行だって行ってるし、ほとんど毎週ドライブ付きのショッピング。どこがどう大変なのよ」

 言っていて腹が立ってきた。しがないOLの萌より、よっぽど優雅な生活を送っているじゃないか。

「もしほんとに苦しいなら、母子家庭なら生活保護だって考えるべきなんじゃないの?それでも足んなきゃ風俗ででも働けばいい。そんな最低限の自己努力もしない女にどうして貢いでたわけ?自分をATMとしか見てないような女にどうして尽せるの?」

 感情のままにまくしたてたせいで、かなりきわどい発言が飛び出してしまった。 怒ったかもしれない、そう思いながら大樹を見たけれど、彼は困惑したように唇を噛んでいるだけだった。


「なんとなく、ほっとけなくて」

 出た。ほっとけない。ダメな相手から離れられない人間は、決まってその一言を言う。そして、『ほっとけない』と『好き』とは同義だと、何かで聞いたことがある。

「それってつまりは、あの女を好きだってこと?」

「…わかんない」

 大樹は呟くようにそう言った。それを聞いて、萌はまた大きな衝撃に襲われる。言葉を発せないでいると、彼は思いついたようにこう続けた。

「ああ、ごめん。わからなかったって言うのが正しいね。萌と一緒にいるようになってからは、あれは恋愛感情じゃなかったってわかったから」

「どういうこと?」

「こんなこと言うと引かれるかもだけど」

 大樹はそこで戸惑った様子を見せた。彼は握りこぶしにぎゅっと力を入れると、意を決したようにこう言った。

「萌のことはね、独占したくてたまらないんだ。萌の傍に他の誰かがいるって考えると、イライラして何も手がつかなくなる。女の子とちゃんと付き合ったのって初めてだから、これが異常なことなのかどうかすら判別できなくて」

「多分、普通のことだと思うけど。私はいつもあんたのことでイライラさせられてるし」

「そうだよね。ごめん」


 大樹の顔が白んでいるのが、暗い中でもなんとなくわかった。それでも萌は容赦なく次の問いを投げかけた。

「で、結局、どうして一緒にいたの?私はそこが知りたい」

「どうしてか。ん、そうだなぁ。あの人といる時は、楽、だったんだよね。自分のものにならないことは明らかだったし、そうするつもりもなかったから。一緒にいて楽しい、それ以上でも以下でもない。だからその楽しい時間を得るために、そばにいただけっていうのが正しいのかな。その流れであの人が必要としているものがあれば、出来る限り提供してきたけど、ずっとそうしてきたから、彼女が出来たからっていきなり断ち切ることもできなくて。それでずるずる続けちゃった。それに彼女が出来たとわかってから、急にあっちの態度が変わってさ。急に好きとか大事とか言われて、余計に混乱しちゃって、離れるタイミングを逃しちゃったんだよね」


 それはあの女だって必死になるはずだ。都合のいいATMが自分から離れてしまうかもしれないのだから。彼女なんて、あの女からすれば邪魔なだけの存在に違いない。

 金づるを情で繋ぎ止めようとするなんて、まさに性悪女。その言葉がぴったりだ。


「でも、今は違うよ。萌が一番大事だから、傷つけることはもう絶対にしない。だから会わないようにしようって。その埋め合わせを、お金で解決できるならその方が楽だと思ったんだ」

「絶対、またたかられると思うよ」

 萌は確信をもってそう言った。生活の全てを大樹に依存していたような女が、十万程度の金で諦めるはずがない。

「その時はきっぱり断る。もう連絡もしないつもりだよ」

「信じていいの?」

「うん。もちろん」

 大樹は珍しく自信たっぷりにそう言った。 


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