第16話

 萌が出社するなり、フロアが違うはずの美奈子が一番に飛んできた。

「おはようございます」

「おはよ。昨日はごめんね」

 しおらしく謝罪すると、美奈子は首をぶんぶんと振ってみせる。

「いいんです。こちらこそ、挨拶も無しに帰ってしまって。すみませんでした」

 彼女の本意はわからない。けれどこうして朝イチで謝罪に来てくれたのは確かなのだから、こちらからも御礼が必要になるだろう。萌は山田とのことだけは余すことなく伝えることにした。

「あれからさ、ベンチで缶コーヒー飲みながら山田に話聞いてもらったんだけど、それで結構すっきりしたよ。結局一時間くらい拘束しちゃったかな。縁起物だからプレゼント買うのはまた後にしようってことになって、それで帰ってきちゃったんだ。せっかくの休みをムダにさせちゃってごめんね」

「そうだったんですか。いえ、仕方ないですよ。また行きましょう」

「うん。…それとさ、あんなに揉めたとこ見せちゃったから言い辛いんだけど。仲直り出来たよ」

「えぇっ?ほんとですか?」

 美奈子はこれでもかというほど目を見開いた。

 あり得ない。顔にはしっかりとそう書いてある。

「彼氏さん、浮気してたんじゃ…?」

 声を潜めて問い掛けてくる彼女に、萌は苦笑を返した。

「そう言うわけでもないんだよね。今度機会があったら話聞いてよ。とりあえずは御報告ということで」

 萌の明るさに反比例するかのように、彼女は色を失っていったように見えた。これが世間一般の、常識的な反応だろう。苦言を呈してこないのは、そこまでの親密さがないからだ。きっと今日のランチタイムに萌から話を打ち明けられた先輩たちは、全く別の反応を示してくるに違いない。


「ちょっと待って、本気?」

 案の定、百合は口をあんぐりと開けて呆れ果てた声を出した。その隣にいる美佳にいたっては、萌を幽霊でも見るかのような目で見ている。

「なんか、別れきれなくて。もう一回だけ信じてみようかなって」

「あのねぇ、信じるも何もそんなの信頼感ゼロじゃん。あり得ないんだけど」

「ですよねぇ」

 愛想笑いをしてみせたが、彼女たちのヒートアップは止まらない。今にも萌自身を攻撃してきそうな勢いだ。

「子どもの遠足ってさ、父親でもないのに、何で彼が買わなきゃいけないの。言っちゃ悪いけど、彼もバカじゃないの?」

「私もそう思います」

 オレンジジュースにさしたストローを指でつまみながら、萌は二人から注がれる強烈な眼差しを不自然にかわした。

 仲の良い彼女達には、大樹とのことをおおまかには打ち明けてある。自分の中だけで抱え込めるほど、萌の容量が大きくないからだ。人に話してガス抜きをすることでどうにかバランスを保っている。

「てかさ、山田のがよっぽど良くない?」

「たしかに」

 思いもよらない美佳の一言に、百合が大きく頷く。

「あぁ、でも。話聞いただけで、ハイサヨナラもなんかなぁ」

「そこは紳士的振舞いってことで。恋愛相談受けてその流れでって、なんかあざといじゃないですか」

「それはそうだけどさ。やけ酒くらいは付き合ってほしくない?」

「でも、そこでお酒入っちゃったら、危険じゃないですか?いい大人なんだし」

 百合の反論に、美佳が応戦する。いつの間にか蚊帳の外になった萌は大人しくドリンクに口を付けた。オレンジジュースはすっかり薄くなっている。

「実際のとこさ、萌ちゃんは山田どう思うわけ?」

「どうって、仲の良い同期ですね」

 ふいに百合にそう突っ込まれたけれど、萌は当たり障りない答えを返すことが出来た。

「乗り換えようとか思わない?」

「思いませんよ」

 山田が彼氏。まったく想像がつかなくて、萌は思わず笑いを漏らした。

「今回は成り行き上、すっごく助けてもらいましたけど。でもそもそも恋愛の話とか、あんまり男の子にはしたくないんですよね。こっちの気持ちとかわかってもらえなさそうだし」

「あぁ、わかるぅ。やっぱり悩みがあったら、頼るべきは女友達だよ」

 美佳が感情を込めて、うんうんと頷く。

「男側の意見が聞きたいとか言う人もいるけどさ。結局、気持ちなんて本人じゃなきゃわかんないし、ムダだよね。だったら、愚痴るだけ愚痴ってスッキリしたい」

「それは同意見」

 百合も美佳も祥子も色んな面で女っぽい。あくまでも良い意味で。

 男に媚びるよりも、女の中を上手く渡っていくタイプだ。裏で足を引っ張り合うようなドロドロした関係は毛嫌いしており、嫌いなものはばっさりとシャットアウトしてしまう。

 来る者選び、去る者追わず。そんなところだろうか。だからこそ萌は彼女達といることを好んだのだったが、今回の決断は彼女たちのポリシーとは明らかに異なる。それをどう評価されるだろうか。

「もしも、結婚したら変わるとか。ないですかね」

「ないね」

 既婚者の百合に同意を求めてみたけれど、火に油を注いだだけのようだった。彼女は小馬鹿にするような調子でそう言い切ると、こう続けた。

「結婚なんてさ、紙切れを提出するだけの事務作業なわけ。一区切りつけることで本人たちの意識が変われば別だろうけど、付き合ってた延長で流れで結婚しちゃうと、意識もそのまんまなんだよね。子どもがいなきゃ、なおさら。嫌になったら別れちゃおうかなとか思うし、他に目移りすることだってあると思うよ」

 百合の言葉はずんっと心に響いた。

 何度言っても変わらなかった大樹が、紙切れ一枚の行政手続きで変わるとは思えない。今度こそという言葉は飽きるほど聞かされたけれど、その度に裏切られてもきた。

「ま、ま、今回は仕方ないんじゃないかな。まともな精神状態じゃなかったところに付け込まれたってことで」

 言いたい放題言ってすっきりしたのか、美佳はようやくそう取り成した。百合も仕方ないとばかりにそれに乗っかる。

「次は無い。そう決められただけでもいいのか」

 会話が途切れたタイミングで、萌は何気なく時計を見た。

「ごめんなさい。もうこんな時間」

 もうすぐ一時だ。盛り上がり過ぎて、昼休みのほとんどを費やしてしまった。

 萌が二人に礼を述べると、三人は同時に財布を取って小走りでレジへと向かった。


 午後の始業時刻と同時にデスクに滑り込んだ萌は、デスクトップに貼りつけてあるメモ用紙を見つけた。

『第五の加瀬さんに内線お願いします』

 どうやら昼休み中に連絡があったようだ。

 第五は開発事業部、山田が属するところである。開発なんて大層な名前はついているけれど、要は新規案件の立ち上げや、社内外の研修をプロデュースすることを主としている。

 萌が関わるとすれば、また彼らのサポートに入るくらいだけれど、副部長である加瀬からの連絡となればいくらか気後れしてしまう。

「加瀬さんって。私、何かしましたかね」

 動揺のせいで声がこわばる。百合は苦手な名を聞いたせいか、顔をしかめた。

「してないと思うけど、あの人めちゃくちゃ細かいからね。難癖ってことはありそう」

「早く連絡しときな。遅れるとごちゃごちゃ言われるよ」

 美佳にせっつかれて慌てて内線をとったものの、番号を押す手はかすかに震えている。相手がでるまでのわずかな間、萌の心臓は思った以上にバクバクと鳴っていた。

「はい。加瀬です」

「お疲れ様です。管理部の鈴木です。お電話いただきましたようで」

「ああ、鈴木さん。急で悪いんだけど、今から時間取れる?」

「はい。大丈夫です」

「じゃあさ、第三会議室によろしく」

 声の感じからは怒りといった風ではなさそうだったけれど、まだわからない。会議室でみっちり説教されることだって十分あり得る。

「行きたくないです」

「がんばって」

 泣き言をいう萌に、美佳がガッツポーズをしてみせる。百合はさっそく萌の予定表を更新していた。

「十三時から第三会議室っと。書いといたから、早く行っといで」

「はい…行ってきます」

 

 着いたのは萌が先だった。

 まだ誰もいない会議室の端っこで萌が深呼吸をしていると、いきなりガチャリと扉が開いた。

「お待たせ。座って」

 驚いたせいで上ずった声で返事をした萌は、一番扉の近くの席に座った。下っ端の指定席だ。当然のごとく上座に着いた加瀬とは、だいぶ距離がある。

「ちょっと遠いんだけど」

「すみません」

 注意を受けた萌はすぐさま、もう少し彼の近くの席へと移動する。その位置取りには満足したようで、彼はようやく話を始めてくれた。

「突然呼び出して申し訳ないね。この前はプロジェクトのアシスタントありがとう。仕事内容も対応もかなり評価が高かったよ」

「ありがとうございます」

 予想外の言葉を受けて、萌はばっと頭を下げて礼を述べた。第一声がお褒めの言葉であれば、そこまで叱られることもないかもしれない。萌はそっと胸を撫で下ろす。

「それで、今回の話なんだけど。鈴木さん、うちに来る気はないかな?」

「第五にですか?」

「そう。第五専属のアシスタントとして」

 あまりに急な話に、萌は目を白黒させた。驚く萌をしり目に、加瀬は話を続ける。

「今、社内の業務運営を見直している最中でね。毎回違う人間をチームに組み込んでいくのは効率が悪いって話になっているんだ。それでテスト運営として、一旦固定メンバーを置いてみようということになっている。この間もそうだけれど、毎度君の評価は高いんだ。誰がいいとなったら、全員一致で鈴木さんの名前が挙がったよ」

「でも、私はまだ経験が浅いですし」

「山田の同期だろう。そんなことはない」

 たしかに。管理部にいる分には一番下だが、社内的にはどんどん後輩が入って来ている。

「まだ業務命令というわけじゃないから、よく考えてくれていいよ。いい答えを期待しているけどね」

「わかりました」


 デスクに戻った萌は、どんな表情をしていたのだろう。自分ではわからなかったけれど、周囲の反応が明らかにうろたえたものだったから、それなりの顔だったのかもしれない。

「大丈夫?」

美佳が心配して言ってくれたが、萌は小さく頷くのが精一杯だった。

「絞られちゃった?」

 百合もそう問いかけてきたが、それには上手く対応を返せなかった。

 ぼけっとした頭のままで、機械的にパソコンに手を伸ばす。メールをチェックしていると、山田からの分が目に留まった。内容はこの間のプロジェクトに関することだったが、追伸が書いてある。

『いい返事を期待してます』

 どうやら彼は既に知っているらしい。それを見た萌は、思わずメールを閉じてしまった。

 どうしよう。萌は誰にも気づかれないようにそっと息をつく。

 まだ水面下での交渉事を、周りに言いふらすことは出来ない。けれど、百合たちに黙っているのは心苦しかった。

 それに、仮に話を受けたとすれば、これまでよりずっと仕事は増えるだろう。大樹ともすれ違いになってしまうかもしれない。こんな状況で彼に自由な時間を与えることは、自分で自分の首を絞めることになるに違いない。

 大樹か仕事か。イチOLの自分がこんな選択肢を迫られることになるなんて想像もしなかった。



「萌ちゃん、昨日の件、聞いたよ」

 さすがは情報通の美佳だ。入手先はわからないが、いつも素早く情報を仕入れてくる。椅子を近づけてきた彼女は、声を潜めて内容を確認してきた。

「第五への引き抜きだって?どうするの?」

「まだ、悩んでます」

 萌は正直に答えたが、美佳はそれを聞くなり眉間に皺を寄せた。

「ほぼ決定事項だって。従わないわけにはいかないでしょ」

「えっ?そうなんですか?よく考えていいって」

「そんなの建前よ」

 背後から百合の声が振ってくる。後ろを振り返れば、そこには既に美佳から打ち明けられていたらしい百合と祥子が立っていた。

「断れば、絶対なんかマイナスくらうよ」

「うそ」

「ほんと。しかも相手は加瀬さんでしょ。ただじゃ済まないに決まってる」

 祥子の言葉には実感が籠っていた。以前にチームに入った時に相当痛い目を見たと聞いたことがある。

「あっち行ったら大変なのは目に見えてるけどね」

「百合さぁん」

 脅すようにそう言った彼女に、萌は救いの手を求めた。が、彼女は首を横に振ることでそれを払いのける。

「私なんかじゃどうしようも出来ないよ」

「副部長直々の申し出だからね。これはもう評価されたってことで、喜ぶしかないんじゃない?」

 祥子は苦笑いを浮かべながらそう言った。美佳も困ったように二人を見比べている。

「うちらもさ、出来る限りはサポートするし、気楽に行ってきたら?」

 あまりにも萌が泣きそうな顔をしていたせいか、百合はそう言ってポンと肩を叩く。すると残りの二人もそれぞれに励ましの言葉を口にしてくれた。それなのに、どこかうすら寒い気がするのは、きっと彼女達と離れることが寂しすぎるからだろう。


 その日の午後、さっそく萌はもう一度加瀬に呼ばれた。

 よく考えろといったわりに、彼が萌に与えた時間はわずか一日足らず。これはもう美佳の言う通りだったということだろう。それならば、こちらから出せる答えは一つしかない。

「よろしくお願いします」

 萌がそう告げると、彼は満足げな表情を浮かべて颯爽と去って行った。

 おそらくすぐに内示が出るだろう。百合も祥子も美佳も、残念そうな様子を見せてくれている。萌は数年間慣れ親しんだ景色にひたすら名残惜しさを感じていた。



「ただいま」

 萌がテレビを見ていると、大樹が勝手に部屋に入ってきた。彼の手には先日ようやく渡したばかりの合鍵が握られている。

「お帰り。早かったね」

 毎日来るわけではないが、彼が来たときはこう言うようにしていた。そうすれば彼が萌との未来を真剣に考えてくれるかもしれないと思ったからである。

「たまたま仕事に区切りが付いたからさ」

 大樹は慣れた手つきでネクタイを外しながら、我が物顔で床に座り込む。


 山田ほどではないけれど、大樹も仕事は忙しい。帰宅が終電なんてざらだし、タクシーになることも珍しくない。だから彼は実家住まいのままなのだ。

 寝るだけの部屋に高い家賃を払うのはバカバカしい。大樹はよくそう言っているけれど、あの女につぎ込む金は惜しくないらしいから理解不能だ。

「ごはんは?」

「食べてきた」

 事前に連絡をしていないときに、萌の家に自分の分の食料がないことはわかっているらしい。そして、彼が萌に手料理を求めてくることはほとんどなかった。仕事をしている人間に家事まで求めてはいけない、そういう自論があるようだ。

「飲み物だけなんかちょうだい」

「炭酸水か、ビールしかないけど」

「ビールでいいや」

 萌は缶とグラスを並べて彼の前に置いてやったが、大樹はいつも缶のままで呑んでしまう。洗いものは増やさないという気遣いらしい。こういう細やかな気配りは出来るくせに、それをすべて帳消しにしてしまうような大きな穴が開いているから不思議なものだ。

「おつかれさま」

 萌がそう言うと、大樹は嬉しそうな顔を見せた。子犬のような可愛らしい顔でにこにこ微笑まれると、こっちもつられて笑顔になってしまう。

「風呂入ってきちゃうわ」

「うん。着替えだしとくね」

「ありがと」

 まるで夫婦のような会話だ。何事もなく二人でいる時はこんなにも幸せなのである。今は時々だけれど、いつかはこれが当たり前になる日が来るかもしれない。萌は性懲りもなく、その日を心待ちにしてしまっている。この感情を捨てきれない以上、萌が大樹と別れることは出来ないのだろう。


「お待たせ」

 風呂から上がった大樹にドライヤーを手渡す。短髪だから、二分もすれば乾くだろう。萌はガーという機械音を聞きながら、彼の作業が終わるのを待った。

「あのね、ちょっと話があるんだ」

 声を改めてそう切り出した萌に、大樹はびくりと反応した。何か嫌なことを聞かされるとでも思ったのだろう。実際そうかもしれないから、萌はそのままの調子を維持することにした。

「仕事のことなんだけど、異動することになったの」

 身構えて聞いていた大樹は、少しばかりほっとした様子を見せた。

「転勤ってわけじゃないよね?」

「まさか。ただの部署異動だよ。うちは他に支社ないし」

「なんだ。それで?どういう業務になるの?」

「詳しくはまだわかんないけど。今までよりは多少忙しくなると思う」

「そっか。体調には気を付けてね」

 大樹は優しくそう言ってくれた。忙しくなるというところは、彼の気にする要素ではなかったようである。彼は萌をそばに引き寄せると、こう続けた。

「嫌になったら、いつでも辞めていいよ。俺がちゃんと責任取るからさ」

 恋人にこんなセリフを言われて、前向きにならない人がいるなら会ってみたい。相談した人には全員に反対されたけれど、彼を信じることは正しいと思えた。

「うん。大好きだよ」

 萌は彼の胸に顔を埋めながら、心からの言葉をそう告げた。

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