第17話
夜中、目が覚めてしまった萌は、大樹を起こさないように忍び足で冷蔵庫へと向かった。
こんな風に気を遣ったところで、無意味なことは知っている。彼の睡眠欲は半端じゃなくて、ちょっとやそっとじゃ絶対に目覚めないからだ。朝だって、かなり強く叩いてやらないと絶対に起きない。
扉を開けるとオレンジ色の光がキッチンを満たした。昼間は気にならないそんな明るさも、寝ぼけた目には眩しくて、自然と目が細くなる。萌は中から飲みかけの炭酸水を取り出すと、手近にあったグラスに注いだ。
こんな時間に冷たいものなんか飲んだら、ますます覚醒してしまう。そう気が付いたのは、それを飲み干した後だった。
と、暗闇に光る緑色のランプが目に留まった。
充電器にさしっぱなしになっているそれは、大樹の携帯だ。規則的に光るのは何かの連絡が来ている合図。萌は誘惑がむくむくと湧いてくるのを感じた。
「さすがにダメだ」
自分にそう言い聞かせて、ベッドへと戻る。だが目はランランとしてしまっていたから、寝付けそうにはなかった。
萌は何気なく大樹の頬を撫でる。すると彼は寝言でこう言った。
「りいちゃん」
聞いた瞬間、全身の血がさっと凍りつく様な感じがした。
聞き間違い、だろうか。そうであって欲しい。萌はもう一度、頬に触れてみた。
「ん。もえ」
今度は自分の名前が飛び出してくる。萌は緊張ががくっと取れたのを感じた。
さっきのは、きっと、何かの単語の続きなのだろう。彼の夢には自分が登場しているようだし、それで良しとすることにしよう。
眠れそうになかったが、これ以上彼の失言らしきものを聞きたくはない。萌は強く目を瞑り、早々に夢の世界に入っていけることを願った。
「萌、起きて。萌ってば」
いつもと逆の光景だ。そのせいで萌は、まだ自分が眠っているままだと勘違いをしてしまった。大樹はそんな萌を正気にさせようと、顔の前で手をひらひらさせてくる。
「ほら、遅刻しちゃうよ」
ぼけっとしたままで、テレビに映る時刻を見た。もう八時前。あと二十分で出かけなければならない。萌は慌てて飛び起きた。
大樹は既にあらかたの用意を終えているようで、ばっちりスーツ姿だった。髪も整っている。
「もっと早く起こしてくれてもいいじゃん」
「何回も起こしたけど、全然だめだったの」
八つ当たりしたにも関わらず、大樹は穏やかに笑ってみせる。萌はそんな彼をじろっと睨んで、洗面台へ駆け込んだ。
こんな日に限って、髪はぼさぼさでまとまらない。しかも変な時間に起きたせいで、胃のあたりにはなんだが不快感がある。うっすらと感じる吐き気を消そうと、冷たい水で顔をばしゃばしゃ洗った。
朝食は、と言ってもロールパンをかじるくらいだが、厳しそうだ。仕方ないから途中でビタミン剤でも買って、会社で飲もう。
萌は五分もしないうちに化粧を終えると、これまた即座に洋服を決めた。おしゃれにこだわりがないのは、こういう時に非常に役に立つ。ここまでで所要時間十五分。これなら駅まで走ることは避けられそうだ。
「相変わらずの早業で」
「すごいでしょ」
「まぁね」
彼氏の前で披露することでもないけれど、萌は開き直ってそう自慢した。
勤務地が同じだから、当然路線も同じだ。フロアが違うとはいってもそこまで一緒にいくのはやはり気恥ずかしくて、乗る車両は二人別々にしている。今日もいつも通り、駅の改札を越えてから、じゃあねと別れた。
電車に揺られながら、萌は昨夜のことを考えていた。寝坊したせいで、彼と話すことが出来なかったけれど、もやもやは消えないままだ。
仮に聞いてみたとしても、夢の中のことまで責め立てるのはバカげているし、内容が全てわかってしまったら萌だっていい気分はしないはずだ。このまま封印してしまうのがベストに違いない。そうわかっているのに突き詰めたい気がしてしまうのは、彼の携帯のランプが光っていたことが引っかかるからだろう。
全く違う誰かからの連絡かもしれない。アドレスの変更とか、迷惑メールとかの可能性だってある。そうは思ってみるものの、どうしても言い切れないのはランプの色のせいだろう。
もしかしたら単に携帯の初期設定のままなのかもしれないけれど、あの女からの連絡はいつも緑色に光っている。
そんなことを考えているうちに、丸ノ内に着いた。
エレベーター待ちの中に、大樹の姿を見つけた。背が高い彼は人混みの中でも頭一つ抜きんでている。仕事モードになっている彼は、同僚と思われる人達とにこやかに挨拶をかわしていた。
大樹が仕事の話をすることはあまりないけれど、共通の知人からはその評価をきいたことがある。
積極的に前に出るタイプではないが、面倒見が良いし、仕事も丁寧だから、誰からも慕われているようだ。学歴に相当するだけの頭の良さもあることから、いわゆる出来る男とみなされているらしい。
そんな彼の裏の顔を知っているのは萌と、萌が彼とのことをペラペラ話した相手くらいだろう。知り合った合コンの席にいた人たちも、他の友人たちも、あの女のことは誰も知らない。
ずっと彼女をつくらない大樹を見かねて、友人が何回も合コンを開いてくれているらしいが、彼はなんだかんだと理由を付けてその全ての機会を無駄にしてきた。萌と会ったあの一度以外は。それだって最初は付き合うつもりがなかったのに、会っていくうちに気が変わったと言っていた。
結局は、あの女の存在があったからだ。
仲の良すぎるトモダチがいるから、彼女という指定席は空きっぱなしだったということである。牽制をかけることで、大樹はあの女以外の女性を遠ざけてきたのだ。
『俺と関わると、きっと不幸になるよ』
付き合う前に彼は何度かそう言ってきた。その言葉が事実なのかどうか、今の萌には判断できない。振り回されて、傷つけられて、泣かされてきたのは確かだけれど、大樹といる時間はまぎれもなく幸せだからだ。
先にエレベーターに乗り込んだ大樹を、萌は目で追った。こうして遠巻きにしている分には、彼はごくごく普通のサラリーマンにしか見えない。出会った時だってそうだ。まさかあんな厄介なことを抱えているなんて考えもつかなかった。
人は見かけによらない。萌はその言葉がいかに的を射たものなのかをしみじみと感じた。
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