第15話

「はぁぁぁ。疲れた」

 萌はどさりとベッドに身を投げると、天井に向かってそうため息を吐いた。

 

結局、祥子へのプレゼントは買えていない。

萌は決めてしまおうとしたのだったが、山田がそうすることに反対したからだ。彼は魂の抜けた状態のまま店へ戻ろうとした萌を、こう言って止めた。

「祝いの品だしさ、やっつけ仕事は良くないだろ。そこまで急ぎじゃないんだから、また後でじっくり決めよう」

 異を唱える隙の無い正論だった。萌が同意すると、山田はよいしょっとベンチから立ち上がる。

「んじゃ、帰ろう」

「そうだね」

 二人はとくに話をするわけでも、徒歩数分先にある駅に向かった。

湿っぽい雰囲気と、微妙な距離感で歩く様子は、喧嘩中のカップルのように見えたかもしれない。だが、萌にはそんな周りからの視線なんて気にしていられる心情ではなかった。頭の中はからっぽ、けれど胸の奥はジンジンと痛んでいた。

「また、明日な」

「ん、今日はごめんね」

互いにそう言い合って、小さく手を振る。そうして彼は上り、萌は下りホームへと進んだ。

運良く階段を降りきったとことで、電車が入ってきた。待ち時間ゼロで車内に乗り込み、端っこへと移動する。窓から上りホームを見ると、携帯をいじっている山田が目に入った。

発車メロディーが響き、電車が動き出す。すると山田はようやく顔を上げて、こちらを見やってきた。萌はもう一度手を振ってみたけれど、彼はそれには気が付かないようで、またすぐに視線を携帯へと落とした。



萌は横になったまま、テレビのリモコンへと手を伸ばした。しぃんという無音が耳障りになったからだ。見たい番組がある時間帯でもないから、とりあえずニュースを映してみると、たまたま天気予報が流れた。

「明日は一日晴れ。傘の出番はありません」

 お天気お姉さんが、業務用の笑顔でそう告げる。

 前代未聞の嵐でも起きればいいのに。そうすれば家から出なくてもすむ。そんな不謹慎なことを思ったすぐ後で、現実逃避しようとしている自分が情けなくなった。

 大樹のあんな行動なんて慣れっこのはずなのに、萌がここまで落ちている原因は一つしかない。あの女と対面してしまったことだ。

 顔を知らなければ、声を聞かなければ、想像の世界で済んだのだ。すべては大樹の妄想なのかもしれない。そんな結論だって出せた。

 でも、会ってしまった。話してしまったのだ。もうこの記憶は消せない。

大樹とあの女が並んで立つ場面に遭遇してしまった。この事実は、思った以上に萌を打ちのめしたのである。

「さいあく」

 萌は枕に顔を埋めながら、そう呟いた。


 帰り道の途中も、帰って来てからも、一度も携帯は見ていない。

 大樹からの連絡を見ることが怖かった。こうなった今でも、彼から告げられるかもしれない『別れ』に直面することは恐怖なのだ。それはもちろん、萌がまだ大樹に気持ちを残しているからなんだろう。それもたっぷりと。

 あんな最低な男。好きじゃなければ、とっくに別れているに違いない。むしろ付き合ってさえいないかもしれなかった。

「なんで好きなんだろ」

 振り回されて、振り回されて、どれだけ泣かされたかもわからない。それなのに離れたくないのは、好きだから。大樹といる時間の心地良さを体が覚え込んでいるからだ。

 もうやめにしようと何度も思ったけれど、大樹と過ごす時間がかけがえのないだと思うから、諦められずにきてしまった。でも、ここが潮時なのかもしれない。もうそろそろ目を逸らしてきた事実を受け止めなければならないのだろう。

大樹という人間を、あの女と切り離さずに考える。それはきっと彼を選ぶうえで必須の条件なのだ。

彼は優しい。誰に対しても。だからこそ、自分を頼ってくる存在を無下には出来ないのだ。あの女のことも、萌のことも。そうやって彼の優しさは多方向に向かうことが常だから、無意識に人を傷つける。そして本人にその自覚は薄い。

割り切ることのできるメンタルの強さや、どんな手段を使うことも厭わずに相手を蹴落とせるだけの図々しさが萌にあったなら、話は違うかもしれない。残念ながらどちらも萌には欠けた能力だ。

「やっぱり、別れた方がいいのかな」

 声に出したことで、タガが外れた。ひっきりなしに出てくる嗚咽と、どんどん零れてくる涙。萌は一人、布団の上で泣きじゃくった。

 

ピンポーン。突然、エントランスの呼び鈴が鳴った。時計は六時を回っている。訪問者に心当たりはない。念のため、モニターを見れば見知った顔が映っていた。

 今、一番会いたくて、会いたくない男だ。

 

 開けようか。ためらった萌はモニターと数秒間にらめっこをした。

 ここで突き放せば、きっと別れられる。けれどそれを即断できずにいる間に、彼の姿は奥のエレベーターホールへと消えていった。偶然入ってきた見知らぬ住人と共に、第一の関門を越えてしまったようである。

 

 ピンポーン。もう一度呼び鈴が鳴る。今度は玄関の音だ。

「萌、いる?」

 コンコンと控えめなノックの後に、大樹の声が聞こえた。動くことも出来ずにいた萌は、ごくりと唾を飲み込む。

「いるなら、開けて。会いたい」

 どうしよう。萌はまた悩んだ。挙げ句、開けてしまった。

 別れ話をするなら直接の方がいいに決まっている。そんな都合のいい言い訳を自分にしながら、萌はゆっくりと鍵を回した。


「泣いてたんだね。ごめん」

 所定の位置に、少し縮こまりながら座った大樹は、痛々しげにそう言った。

「メッセージ、見てない?会いたいから行くねって、送ったんだけど」

「見てない」

 萌は泣いた後のガラガラと絡みつく声でそう答えた。

「何の用?」

 こう問いかける時には声が震えていた。彼が告げる言葉に予想がついていたからである。

「…今日はごめんね。本当に悪かった」

「ん。いいよ」

 心にもない言葉が飛び出してきた。別れ話をするにあたっては相応しい余裕かもしれない。萌は漠然とそんなことを思ったが、大樹はなぜだか自分が泣きそうな顔をした。

「良くないでしょ。俺が、嘘ついてたわけだから」

「嘘はついてないよ。ただドタキャンしてきただけじゃん」

「まぁそうだけど。でも、萌に嫌な思いさせたのは事実だし。本当にごめん」

「今まで何してたの?」

 言ってすぐに後悔した。答えなんか聞きたくない。けれど正直者の大樹は確実に答えをよこすだろう。

「買い物に付き合って、それから送ってきた」

 聞いた瞬間、また涙がぼろぼろと零れ出した。

 悲しさか、悔しさか。名付けられるようなはっきりした代物ではない。萌がしゃくりあげると、大樹もわずかにびくりと反応する。

「やっぱり、切れないんだよね」

「もう会わないって言ったもんな。結局、嘘ついちゃったことになってごめん。でもね、これで本当に最後にする約束なんだ。今日は、子どもの遠足の準備でどうしても欲しいものがあるって言われて。それで、つい」

「ついって、私をバカにしてるよね。私はあの女の子ども以下の存在ですか」

「違うよ。萌とはこれからもずっと一緒にいられるけど、子どもにしてやれるのは、もうないことだし。だからこれで本当におしまい」

「私達もね」

「えっ?どういう意味?」

「そのまんまだよ、もう無理。終わりにしよ」

「だって、結婚するって」

「結婚相手ほっぽって別の女に貢いでいる男を、誰が選ぶと思う?私はそこまでお人好しじゃない」

「萌。ごめん、俺」

「こういう会話も、もう飽きたし、疲れた。私だけを見てくれる人と付き合いたいよ」

「見てるよ。俺は萌しか見てない。大事だから、誰にも邪魔されたくないから、だから今日は」

「あの女を選んだ」

 萌は初めて聞く自分の一番低い声に驚いた。

「ごめん、本当に悪かった」

 大樹はそう言うなり、土下座をして頭を下げた。何百回と謝られてきたけれど、こんなことは初めてだ。びっくりして、萌の涙も止まった。

「萌が一番だよ。それは間違いない。ただ、そうするためには多少厄介なことがあってさ」

「それでも、何があっても私を選んで欲しいの。二の次になんかされたくないの」

 萌は怒鳴りつけるようにそう言うと、彼の両肩を掴んだ。

「私を、私だけを見てよ。私だけの大樹になってよ」

「当たり前じゃん」

 頭を上げた大樹はぎゅっと萌を抱きしめた。かなり強い力だ。息苦しくなるほどにそうされて、また涙が溢れてくる。

「やだ。大樹の隣に別の人がいるなんて、やだよ」

 萌は彼の胸に涙を擦りつけながら、勢い任せでそう言った。


 無限ループ。また同じことの繰り返しだ。

 もしかしたら、萌にはこれ以外の選択肢は出来ないようになっているのかもしれない。そんなくだらないことが、ふっと頭を過ぎっていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る