第13話

「誰?」

「あ、あのぉ、そのぉ、かのじょ」

 最後の単語は蚊の鳴く様な声で、大樹はそう告げた。

「カノジョ」 

 女はまるで復唱するようにそう言った。

「へえ。この人が」

 彼女は萌を頭のてっぺんから爪先までまじまじと観察する。それが気に障って、萌は思わず相手を睨み付けた。


 無言の睨み合いが続くこと、数秒間。

その均衡を破ったのは、子どもの声だった。

「ダイちゃん、これも買って」

 買い物かごいっぱいに入った商品を嬉しそうに持ってきたのは、多分、上の小学生のこどもだろう。妹らしき少女の手を引いている。

この店でそんなに買ったら、いくらになる?萌は無駄にそんなことを思った。

「初めまして」

 女から、愛想のかけらもない口調でそう言われて、萌の頭には一気に血が上った。とてもじゃないが、挨拶を返す気にはなれない。

「鈴木?」

 山田にそう声をかけられて、ようやく我を取り戻した。

「知り合い?って、ああ、彼氏さん」

 彼はその場に立ち尽くしていた大樹を見てそう言ったのだったが、すぐに険悪な雰囲気を察したらしい。

「ちょっと、あっち行ってるわ」

 そう言って立ち去ろうとするのを、反射的に引き留めてしまった。

「待って。私も行くから」

 萌はどうにかそれだけを告げると、もう一度相手を見、それからくるりと背を向けた。

 だが、去り際に耳に入ってきたのは、向かい合った時の不遜な態度からは想像もつかないような泣きそうな声だった。

「私、嫌われちゃったのかな」


 萌は思わず足を止める。

「ダイちゃん、ごめんね。彼女に嫌な思いさせちゃった」

 弱弱しく訴える彼女に大樹はこう言った。

「大丈夫だよ。萌はそんな人じゃないから」

「でも、心配だから。私に構わないで、カノジョのところにいってあげて」


 怒りで震えるという感覚を、萌は初めて実体験で味わった。

 猿芝居にも程があるだろう。学芸会なんてものより、格段にレベルの低い芝居をしている女とそれを真正面から受け止める男。そいつらが自分と少しでも関わりのある人間だと思うと反吐が出そうになる。

「けど、りいちゃんは平気なの?」

「ん、私は、大丈夫」

 姿は見えないけれど、きっと目に涙を浮かべることくらいはやっているのだろう。

 りいちゃんという女は、萌が人生で初めて遭遇した未知の生命体だった。

「ママ、どうしたの?」

「何でもないよ。ほら、早く買っておいで」

 幼い子供の問いかけに、彼女はそう言って聞かせた。上の子は、何らかの異変を察したのか黙り込んでいるようだ。

 ああ、もう、この状況を最低と言わずになんと呼べばいいんだろう。

 萌は悔しさらしき感情のせいで、涙が滲んできたのを瞬きして払い落した。


「行こ」

 自分で思っていたよりもずいぶんと小さい声だった。萌はどうにかそれだけの言葉を発して、山田の袖を引っ張った。

「そうだな」

 彼はそう言うと、すぐに萌を伴って店外へ向かった。

 改めて思う。やはり山田は仕事の出来る人間だ。こんな状況であって、自分が不運にも巻き込まれただけだと言うのに、きちんと最善の行動を取ることが出来る。

 うろたえ、騙されるだけの大樹とは大違いだ。


「とりあえず、どっかに座るか」

 後輩くんと美奈子の姿はない。きっと山田が外すように言ってくれたんだろう。

「ちょっと待ってて」

 彼はそう言うと近くにあった自販機へと向かった。残された萌は、やっと頭を整理することを始めた。


 初めて会った、あの女。

 見た目も、話し方も、態度も、おそらくは性格も、全てが嫌いの部類に入る。

 彼女こそが、萌を不幸にしている原因だ。彼女さえいなければ、大樹は真っ当な人間として、萌と新しい人生を歩むことができるはずなのだ。

 何であんな女がこの世に存在しているんだろう。そんなどす黒い感情が萌の全身を駆け抜ける。

 萌は大樹が話してくれた人物像を思い浮かべた。彼の口から聞いていただけでも、嫌悪感はあった。けれど実際に会ってみれば、そんな想像よりよっぽどタチが悪そうだ。


「ほれ。お茶でいいだろ」

「ありがと」

「聞いていいのかわかんないけど、彼氏と揉めてるってことだよな?」

 缶コーヒーのプルタブを開けながら、山田はさりげなくそう問いかけてきた。興味本位でというよりも、事実確認したがっているという方が近い言い方だ。

「うん。今さっき始まった事じゃないけどね」

「そっか」

 すべて話してしまおうか。そうすれば少しでも楽になれるような気がする。

 萌が口を開きかけたその時、隣に、ダンっと男が座り込んできた。突然のことにビクッと反応して反射的に相手の顔を見たが、すぐさま後悔した。


「何の用?」

 我ながら冷たい声だ。それを受けて、大樹は泣きそうな顔をした。

「ごめんね。あんな形で会うなんて。ほんと悪かった」

「謝るとこ、そこ?」

 いつも通りのずれた反応を、今日は笑って受け止める余裕はない。

「りい、いや、彼女も悪かったって」

「カノジョは私じゃなかったの?」

「あ、そういう意味じゃなくて」

 怒り心頭の萌に、彼は成す術もなく固まった。どうしていいかわからなくなった彼は、あろうことか山田に縋るような視線を向けた。

「この間はどうも」

 こんな時だというのに、山田はビジネスライクな挨拶をした。彼は萌寄りの態度は見せずに、あくまでも傍観者という形を選んだようである。

「こんなところに巻き込んでしまって、すみません」

 大樹も彼相手なら落ち着けるようだ。大人としての対応が出来ている。

 どうやら、女絡みになると途端にバカになる男らしい。

「お邪魔なら帰りますよ」

 山田はそう言って腰を浮かせたが、萌はそれを押し留めた。今は大樹と二人きりになりたくない。

「邪魔なのはあんた。私は仕事の付き合いでここにいるんだから。早く行けば」

 嫌味たっぷりにそう言った後で、少しばかり後悔した。こんな憎々しい言い方しかできない自分が、ひどく惨めに思えたからだ。


「本当に仕事なんですか?」

 大樹は疑惑の眼差しと共に、山田にそう問いかけた。すると山田は爽やかに笑って、もちろんと頷く。

「鈴木さんと仲の良い先輩が結婚するんですよ。中野さん、ご存知ですか?」

「ああ。萌から聞いています」

 大樹は思い出したようにそう答えた。祥子とは一度休みの日に二人で遭遇したこともあるし、普段の会話の中にもよく登場する。彼が知っているのは当然のことだろう。

「その方へのプレゼント選びです。好みとか、俺たちだけじゃわからないし」

「そういうことですか。お前も言ってくれればいいのに」

 大樹は納得したように何度か小さく頷いてみせると、今度は、お前が悪いとばかりに萌をちらっと見てきた。

 ふざけんな。そう大声で怒鳴りつけて、思いっきり蹴り飛ばせたらどんなに気分が晴れるだろう。けれど、萌が実際にとったのは、極めて大人として冷静な行動だった。

「いつ、言う暇があったわけ?今日、偶然、ここにいて誘われたんだけど」

 淡々と言ったつもりだったが、言葉の端々には棘、どころか毒がありそうだった。

 とにかく、今は何をしてもダメだ。大樹がいるだけで自分がどんどん鬼のようになっていく気がする。


「悪いけど、仕事があるから。じゃ、バイバイ」

 萌は右手をひらひらと大樹に向けて振った。すると、大樹はあっさりとそれに応じた。

「わかった。また夜に連絡するから」

 しなくていい。そう言ってやりたかったけれど、萌はわかったとだけ答えた。とりあえず大樹をこの場から立ち去らせたい、その一心から選んだ答えだ。

「すみませんでした。お邪魔しました」

 大樹はそう言って山田に頭を下げると、今度はカフェがある一角へと急いでいった。

 きっと、あの女達を待たせているのだろう。萌は大樹の背中を睨みながら、奥歯をぎりぎりと噛んだ。


「仕事、するの?」

「どっちでも」

 なんとなく空虚な気分になってしまったせいで、投げやりな言い方になってしまった。

「ごめん。ちょっと混乱してて」

「いいよ。落ち着くまで、少しぼうっとしたらいい」

「ありがと」

 度量の大きさというか、男としての器が大きいのだろう。山田がとてつもなく頼もしい存在に思えた。

 山田の彼女は幸せだね。そう言い掛けたが、別れていたことを思い出して、言葉をぐいっと飲み込む。

「話すことで整理できるなら、話してくれていいよ。相手は植物とでも思えば、気は遣わないだろ」

 彼の気遣いがぐいぐいと心に染み込んできて、泣きそうになってしまった。少しでも気を抜いたら涙腺が決壊しそうだ。でも、さすがに同僚の前でこんなことで涙するわけにはいかない。

 萌はお茶を飲むことで、溢れ出てきそうな感情やら何やらを、また体の中に押し込んだ。

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