第9話

「結婚?」

 萌は思わず大声を出してしまった。良い感じだった周囲の人達の雰囲気をぶち壊すボリュームである。

「そんなに驚かなくても」

 大樹は苦笑いを浮かべながら、目を白黒させている萌を見る。

「前から考えてたんだよ。ただ、なかなかきっかけがなくて」

「ってことは、何かきっかけがあったんだ」

 素直に喜んでおけばいいものを、すぐさま突っ込みを入れてしまう。物事はきちんと把握しておかなければ気が済まない性質。萌の悪い癖だった。

「萌が離れていくのが一番嫌だ。そう思った」

「離れる予定、今のとこないんだけど」

 事実だ。別れるつもりは、まだ、ない。今後はわからないけれど。

「でもさ、ほら。俺、だらしないし、優柔不断だし。いつ、誰に、萌がとられちゃうかわかんないから」

「もしかして、山田のこと、疑ってる?」

「少しだけね」

 大樹はそう答える時、少しだけ声を硬くした。

 同僚との仲を疑われること程、ばかばかしいことはない。彼と一緒にいるのは仕事の辛みがあるから、それだけなのに。

「私の彼氏はあなたでしょ。自信持ちなよ」

「自信なんて持てないよ。いつだって萌のこと振り回してきたのに」

「それでも一緒にいたじゃん。私が大樹を大好きな証拠でしょ」

 なんだかんだ説教臭くなってきたのを感じて、萌は口を閉じた。

 

結婚。その単語に惹かれていないわけはない。

萌だって、二歳年上の大樹だって、もういい年なんだから。家庭をつくって、子育てしていくということは、そんなに遠い現実ではないはずだ。

それなのに喜んで応じられないのは、きっと…

「ねぇ、あっちで何かあったんじゃないの?」

 視線も口調も刺々しい。我ながら切れ味の鋭い突っ込みだったかもしれない。その証に、大樹はぐっと怯んだ。

「相変わらず、感が良いね」

 やっぱりそうか。萌は一瞬でも喜ぼうとした自分を嘲った。

「彼女がさ、パパと復縁できそうなんだ」

 大樹はさらりと告げようとはしているものの、どこか動揺しているように見える。まるで自分を納得させるかのようだ。

「パパ、ね」

 萌は意地悪くそう言うと、夜空に向かって苦い息を吐いた。

 

例の女について、多少の知識はある。

 大樹と同い年の彼女には二人の子供がいる。たしか小学生と保育園児。どちらも同じ父親らしいが、結婚はしていない。そしてその相手こそが、大樹の友人である。

「今まで結婚してこなかったわけでしょ。どうして、今更」

「その辺は俺にもわかんないけど。でも今度は上手く行きそうらしいんだ。そうなってくれれば、俺も萌に迷惑かけなくて済むようになるし、みんなが幸せに纏まるよなって」

 どこから突っ込めばいいのだろう。萌はあまりのことにふらつきそうになった。

「あのさ」

「ん、なに?」

 大樹の嬉しそうな顔を見て、萌は喉まで出かかっていた数々の言葉をそのまま飲み下した。

 全てを正直に打ち明けたところで、彼が理解できるとは思えない。もしそうなら、萌がここまで悩むことなんてなかったはずなのだ。

「これで俺もやっと萌だけを見ていける。二人で幸せになろうね」

 あまりにずれた感覚に、萌は乾いた笑いをしてみせることしか出来なかった。


 結局、プロポーズともいえる言葉への返事は保留のままだ。

 大樹的には萌が断るなんて夢にも思っていないのだろう。告げたことで満足している節がある。

 空腹だということであの場を早々に立ち去ったのだが、ファミレスで簡単な夕食をとっている間も、大樹は終始ニコニコ顔だった。彼なりに、新居やら結婚式の話やら、実家への挨拶の日程なんかを考えていたようだったが、萌はすべてを曖昧に濁した。

 正直、大樹とであれば結婚したって上手くいくと思う。

 性格は穏やかだし、人を悪く言わない。相手の立場を考えて、気遣うことが出来る。未だに実家暮らしだから、家事は出来ないだろうけれど、何かしてやれば常に感謝の言葉は口にしてくれる。それに学歴だってあるし、収入だって安定している。

 結婚相手としては申し分ないだろう。

 けれどそれはあくまでも、大樹単独で評価した時の話だ。そこにあの女が絡んで来れば、評価は最低レベルまで急降下していく。



「ってことだったんだけど、どう思う?」

「別れな。はい。決定」

 ブラックコーヒーに口を付けながら、香菜はばっさりそう言い切った。

 酔うとまともな判断を下せないからと、彼女が選んだ店は夕飯時にもかかわらず、チェーンのカフェだった。


 目の前の問題について数日間考えてみたけれど、自分の中で消化不良を起こしてしまった。

 とにかく話を聞いてほしくて香菜に電話したのだったが、会って話したいからとすぐに時間を取ってくれた。いつもは多忙な身であるが、たまたま仕事の余裕が出来たところだったらしい。

 今回のことに関する事情は余すことなく伝えてある。が、客観的意見を聞きたかったから、自分の思いはまだ告げていない。

「あんただって気付いてるんでしょ。結局は、また振り回されてるだけだって」

「やっぱりそうなのかなぁ」

「萌、いつからそんなにバカになった?」

 香菜はじとっとした目で、萌を軽く睨んだ。

「知らない振りしてても、いつかは泣かされるよ」

 全くもって言う通りなのだろう。ここで目を瞑ってしまえば、また同じ事が繰り返される可能性は十分にある。

「いつも言ってるけど、彼、最低だよ?萌のことなんてちっとも考えてない」

 くっきり惹かれた黒のアイラインの奥で、香菜の瞳には怒りの色が滲んでいる。

 でも優しいよ。そんなことを言い返したら、彼女はどんなに呆れるだろうか。


「人から言われないと実感できないこともあるだろうから、今回は私が言ってあげる。彼はその女に捨てられたから、萌に乗り換えようとしてるだけ。振られたショックを手頃な女で癒そうとしてる汚い男だよ」

 ずんっと胃のあたりが重くなった。自分でわかっていたことでも、改めて聞けばショックは大きい。

「そう、なんだろうね」

 プロポーズでさえ、あの女ありきの決断をしてくる大樹に、萌はいい加減愛想を尽かすべきなのだろう。

「その女とパパが別れたらどうなると思う?またふらふらとそっちに行くでしょ」

「でも、結婚してたらさすがに」

「甘い」

 まだ夢を見ようとしている萌に、香菜から厳しい声が飛んでくる。彼女は眉間に皺を寄せながら、こう続けた。

「だってね、彼は今している行動がそれだけ問題あるかをわかってないんだよ?考え方が違う以上、結婚したって理解できるはずがない」

 頭がガンガンしてきたのは、かなり冷たいグレープフルーツジュースを一気飲みしたからだけではなさそうだ。


 香菜の言い分は、きっと百パーセント正しい。そして萌も立場が違えば、全く同じことを助言するだろう。そのくらい、大樹とはその辺りの感覚がずれている。

「もういいでしょ。別れて違う男探しな」

「…まだ好きなんだもん」

 萌の呟きに、香菜が大きな大きなため息をついた。呆れてモノも言えないのだろう。

「しょうがないな。あんた、好きになるとしつこいからね。さすがは片思い歴十年以上のことあるわ」

 中学時代からの友人なだけあって、彼女は当然初恋の一件も知っている。萌がどれだけ相手に執着しやすいのかをわかっているから、言葉もきつくなってくるんだろう。

「じゃあさ、本気で結婚する気あるなら、外堀から埋めたら?とりあえずは彼の家族に会ってみて、それから決めたっていいでしょ」

「うん。そうだね」

 萌はそう言って、ほとんど氷水になってしまったグラスの中身を一気に飲み干した。

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