第8話

「ごめん。週末、ちょっと会えそうにないんだ」

「え?仕事?」

「うん。ちょっと大きな仕事に組み込まれててさ」

「そうなんだ。珍しいね」

 電話越しの大樹は、心底驚いたような声でそう言った。


 ここのところの残業続きで、今週は夜に会うことも出来ないでいた。けれど大樹は一言も恨み言を言わない。

「頑張るのはいいけど、体調崩さないようにね」

「ありがと。大樹は?週末どうするの?」

「んん。特に予定はないからな。家でぼうっとしてようかな」

「…そっか。ごめんね」

「何で?仕事なんだからしょうがないじゃん。俺は録りためてたテレビでもみるよ」


 今のところは本当にその予定なのだろう。彼の言葉に動揺や嘘は感じられなかった。

 萌はそのことにとりあえずはほっとする。けれど、ひとたび何らかのアクションがあれば、彼はいつものように親名義の高級車を持ち出して、彼女の所に向かうのかもしれなかった。



「今日はここまででいいよ。おつかれさん」

 山田がそう言ってくれたのは、夜の八時過ぎのことだった。

「遅くなっちゃってごめんな」

「だから気にしないでってば。山田こそ、まだまだかかるんでしょ?ちょっと休憩したら」

「そうすっか。よし。下まで一緒に行こう」

 二人は並んでエレベーターを降りた。その間の会話は他愛ないもの。けれど、傍から見れば楽しそうには見えただろう。

だだっぴろいガラス張りのエントランスに到着すると、その向こうには見慣れた車が止まっていた。

「大樹?」

 萌は外に駆け出した。見ればナンバーは同じ、そして運転手はもちろん彼だった。


「どうしたの?」

「ちょっと、近くまで来たから寄ってみた。連絡入れたんだけど」

 慌てて携帯を操作する。あった。着信もメッセージも。

「全然気が付かなかった。ごめんね」

「いや、仕事中だったろうし」

 そう告げる大樹の視線は、萌の後ろに注がれていた。

「同僚の人?」

 振り向くと、そこには山田が立っていた。萌は二人をちらちら見比べながら、こう言った。

「うん。同期なんだけど、今度のチームの頭」

「こんばんは。鈴木さんにはいつもお世話になっています」

 先に声をかけたのは山田だった。彼は丁寧に頭を下げる。

「いえ。遅くまでお疲れ様です」

 大樹も車の窓を開けると、彼に倣ってそう挨拶を返した。

「じゃ、山田。また明日」

「ああ。今日はありがとな」

 萌はひらひらと手を振って、さっと助手席に乗り込んだ。大樹がもう一度頭を下げて、ゆっくりと車を発進させる。滑らかなスタートを切った車はそのまま夜の道へと走り出した。


「おつかれ」

「うん。おなか減っちゃった」

「なんか食べに行こうか」

「行く行く」

 萌はそう言った後で、車のシートの位置が若干変わっていたのに気が付いた。

 誰かを乗せた。そう答えを出すのは造作もないことだ。

「…今日、何してたの?」

「あ、うん。ちょっと車乗ってた」

 嘘、とは言えないだろう。誰と何のためにかを告げていないだけだ。

「呼び出されたわけか」

「…暇だったしね」

 テレビを見る予定はどこへ行ったんだろう。無意味にそんな疑問がわいた。

 萌は気の利いた言葉が思いつかずに黙り込んだ。彼も同じらしい。


 しばらくラジオだけが話していたが、不意に大樹がこう言った。

「あのさ、さっきの人。同期っていったっけ?」

「そう。山田。この前の飲みの幹事だったやつ」

 ああ。と大樹が小さく呟いた。

「めっちゃ仕事できるよ。すごく働くし」

「仲良いんだ?」

「まぁ、わりかし」

 珍しく大樹の言葉に棘がある。萌は意地悪くこう言った。

「嫉妬ですか」

「うん」

 素直すぎる答えだ。大樹は多少だが、イライラしているようにも見える。

「仕事だってのはわかってるんだけどさ。なんか、仲良さそうで」

「気は合うからね」

 否定するのも何か違うような気がして、萌は率直に答えた。隣から伝わってくる負のオーラが強みを増した気がする。

「やきもちなんて珍しいね。私の専売特許なのに」

 ここぞとばかりに畳みかける。いつも嫌な思いをさせられている鬱憤がたまっていたのかもしれない。

「そうだよね。いつもごめん」

「どうしたの?」

 なんだか変な彼の態度に、萌はようやく気が付いた。第一、いるかどうかもわからない萌をあんなところで待っている時点であきらかにおかしい。

「何かあった?」

 無言。大樹は難しい顔をしたまま、赤信号を睨み付けている。

「ねぇ、萌。俺のこと、好き?」

「急になによ。もちろん好きだよ」

「ちょっと、ドライブしよう」


 大樹はそこから車を三十分位走らせて、夜景の綺麗なスポットとして有名な場所についた。空腹だったが、そこには触れないことにする。

「わあ。綺麗だねえ」

 海辺に降りると穏やかな風が頬を撫でた。水面には高層ビル群の明かりがちらちらと映っている。赤いランプがアクセントになっていて、何度見ても印象的だ。

 ねぇ、そう言って大樹に向き直った時だった。彼はその腕の中に、萌をぎゅっと閉じ込めた。

 慣れた温かさが心地良い。萌は彼の胸にぴたりと耳を当てた。すると彼の心臓はばくばくと異常な程に早鐘を打っていた。

「萌、結婚しない?」

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