第7話
「おはよ」
「おはようございます」
月曜日、出社した萌は、エレベーター前で声をかけてきた先輩に挨拶を返した。
加藤百合は、萌よりいくつか年上だ。結婚しているが、まだ子供はいない。彼女はけだるそうな様子で、社交辞令的にこう言った。
「休みは何してたの?」
「彼氏とドライブ行ってきました。加藤さんは?」
「うちは引っ越しの準備。もうくったくただよ」
そういえば、マンションを買ったって言ってたっけ。萌の方もまだぼうっとしたままの頭で、その情報を思い出す。
「新築なんてうらやましいですね」
「何言ってんの。これからのローンを考えたら、頭痛しかしてこないよ」
百合はそう言いながらも、端々には嬉しそうな表情が浮かべていた。
「子どもが欲しいからって、ダンナが無理したからさ。しばらくはだだっぴろい空間を持て余しそう」
「幸せそうでうらやましいなぁ」
軽い気持ちでそう言っただけだったが、すぐに強い感情が湧いてきた。
結婚して、マンション買って、子どもを産む。最近、周りではそういった人が急激に増えてきた。知人にせよ、友人にせよ、大方の流れがそうなってくると、自分も乗りたくなってくる。後に取り残されることを考えると、不安がどっと押し寄せてくるのだ。
「萌ちゃんは?結婚しないの?」
「私はまだまだ」
「はよ、ございまーす」
萌がちょっとした愚痴をこぼそうとすると、同期の山田が元気いっぱいの挨拶をしてよこした。
「おはよ。相変わらず元気だね」
体育会系の暑苦しさをたっぷりまとわりつかせながら現れた彼に、百合は冷めた視線をがっつり注ぐ。
「なんすか。ほら、朝はしゃっきとして」
「こっちは寝不足なの。少し、ボリューム落としてよ」
山田は百合の態度なのものともせずに、明るさをエレベーター中に放った。他社の人達も少しばかり迷惑そうな顔をしていたが、彼には気にもならないようだ。
三人で並んでオフィスフロアに向かう途中、百合は思い出したようにこう言った。
「そうだ。山田君さ、例の書類、今日までだから」
「了解っす。昨日終わらせといたんで、朝イチで提出します」
「昨日、って。また会社にいたの?」
「はい」
「あんたも好きだねぇ。休日出勤」
「いや、好きとかじゃないし。単に終わらないだけですよ」
山田は頭をかきながら、気恥ずかしそうにそう言った。
若干のうっとうしさはあるものの、山田の有能さは社内でも評判だった。同期では間違いなくトップで出世コース行きだろう。そんな背景があるせいか、彼はものすごく多忙な生活を送っていた。先月はたしか、二日くらいしか休んでいないと聞いた気がする。
仕事が出来る人間にどんどん仕事が集まり、出来ない人間が楽をする。上層部もその実態を把握しているというのに、一向に改善策は取られていない。どう考えてもおかしなシステムだが、それで会社が回っている以上、社員にはそれに順ずるしか方法はなかった。
一部の人間に対してはブラック企業以外の何物でもないだろう。だから離職率だって高いのだ。
「あー、それと鈴木さ、今日のミーティング、13時からで」
「あ、うん。わかった」
「できれば、部屋取っといて」
「了解っす」
萌は同期ならではの気楽さでそう応じた。
山田との仕事はある意味で面倒だったが、やりがいは十分だ。
彼が求めるレベルはなかなかに高くて、中途半端なものは認められない。細かいところまでつついてくるから、アシスタントする方は大変だが、成果物の出来はその頑張りに応じたものになる。
プライベートでは多少だらしない面もあるが、仕事はバリバリできる彼を、萌は内心では尊敬していた。
「じゃ。よろしく」
山田がそう言って離れていくと、百合はやっと温度が下がったとばかりに大きく息を吐いた。
「あんなに働いて、彼女はいいのかね?」
「別れたらしいですよ。この前の同期飲みで嘆いてました」
「だろうね」
百合は納得とばかりにそう言うと、PCのスイッチを押した。
「お昼、外いかない?」
「行きます」
百合に誘われた萌はすぐにそう返事をして、財布を手にした。近くのデスクにいた二人が、同じように行動をする。
「どこがいい?」
「んん。和食がいいかな」
萌の一つ上の先輩にあたる美佳がそう言った。他に異論がないようで、一行は隣のビルに入っているおしゃれ定食の店に向かった。
たしか大樹は、今日は外出だったはず。
よもやの鉢合わせを避けるために、萌は彼のスケジュールを思い出す。同じビルなだけあって、たまには店が被ることはあるけれど、大抵は萌達が選ぶような店に男性陣は少ない。量が少ないかららしい。
「私は日替わりで」
百合がそう言うと、萌以外が同調した。
「じゃ、私は雑炊にします」
「決まりね。すみませーん」
美佳が店員に声をかける。すぐにやって来たのは和風の制服姿がよく似合う可愛らしい女の子だった。
百合が全員分の注文をしてくれたので、萌は小さく頭を下げた。この中では萌が一番下っ端だ。雑用をすべきところだろうが、周りがテキパキしているのでいつも後れを取ってしまう。
「萌ちゃん、一時からミーティングだよね?」
「あ、はい」
「余裕で間に合うね」
美佳は時計を見ながらそう言った。
入社してもう数年になるが、このメンバーは固定だった。ゆえに、いつまでたっても萌は新人に近い扱いをされることが多い。ありがたい反面、情けなかった。
「また山田と組む仕事でしょ。キャパオーバーになる前に、声かけてね」
そう言ってくれたのは、百合の隣に座っている祥子だ。彼女は百合と同期で、二人はとても仲が良い。
「私もこの前組んだんだけどさ、ほんっとに細かいのよ。まぁ確かに私が雑だったのかもしれないけど、十回以上資料を作り直しさせられてさぁ。あの週は残業続きでへとへと」
「私もですよぉ。先々週だったかな。毎日終電でほんと最悪でした」
美佳はそう言って、露骨に嫌そうな顔をしてみせた。
「あいつの体力にはついていけません」
「だよねぇ。本人は徹夜明けだってケロッとしてるし」
「あれじゃ、彼女に振られるのも仕方ないでしょ」
情報通の美佳はさすがに早い。もちろん仕入れ先は萌じゃない。
「仕事ばっかで出会いも無さそうだし、こうなったら社内しかなさそうですよね」
「社内だって難しいでしょ」
祥子が呆れたように笑う。と、そこで萌の雑炊が届いた。
「ほら、冷めないうちに食べちゃいな」
百合に促されたものの、何となく気が引けて、萌はゆっくりと食べるための下準備を始めた。
手を拭く。割り箸を割る。何となく皿を食べやすいところに動かす。そうしているうちに無事に残り三人の分が届いた。彼女たちが中身を見ている隙に、萌はようやく箸をつけた。
「では、皆さまよろしくお願いします」
山田は自らが作成した資料を手にしながら、堂々とそう告げた。
「ちょっと期日がタイトになりますが、協力して頑張りましょう」
彼がそう言うと、彼の後輩陣は大きく返事をする。やる気に満ち溢れている感がありありと出ていて、萌も気合が入った。
同期とは言っても、職種が違うために、萌に出来るのは単なるアシスタント作業だ。コピーに資料の編集、それから連絡係。いわゆる雑務である。それでもこのチームには自分の名前も連なるのだから、適当な仕事は許されない。
解散した後で、山田は萌だけを残した。
「今回のはさ、取引先も多いし、用意する資料も半端ないと思うんだ。正直、残業ありきになると思う」
残業前提の他のメンバーと違って、萌は基本は定時上がりだ。彼なりにそこをフォローしてくれるつもりらしい。萌は明るく答えた。
「別にいいよ。そんなこと気にしなくたって」
「ありがと。それでこそ、わざわざ鈴木を指名した甲斐があるってもんだ」
「ご指名ありがとうございます」
ドラマのキャバ嬢を真似てそう言ってみると、山田はけらけらと笑った。
「出来る限り、休出は避けるようにするからさ」
「多少なら大丈夫だよ。やれることはするから何でも言って」
「彼氏に振られても知らねえぞ」
あはは、と笑い飛ばしたものの、少しばかりの不安が胸を過ぎった。
休日。萌がいないその日を、大樹はどうやって過ごすのだろう。
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