第6話
マンションのエントランス前に、若者が乗るには少しばかり不相応な高級車が横付けされた。運転席には私服姿の大樹がいる。
「お待たせ」
助手席に無言で乗り込んだ萌に、彼は優しくそう言った。
時刻は十一時。以前にした約束の通りだ。
「ありがと」
萌はむすっとしたままでそう告げたが、大樹は嬉しそうに微笑む。その穏やかな雰囲気にのまれて、いつも揉め事は収束していくのだ。ある意味、強い男だ。
「さ、どこ行こうか? まだお腹空いてないでしょ」
「うん。どこでもいい」
「どこでも、ね。難しいな」
大樹は困ったようにカーナビを操作し始めた。と、その時、ある単語が目についた。
「これ、なに?」
「え」
とっさに消去ボタンを押そうとした彼の腕をぐいっと掴む。
「プール、だよね」
まずい。彼の顔には大きくそう書いてある。
事情を察した萌は、あてつけのような大きなため息をついた。
「結局、送っていったわけね」
「…ごめん。断り切れなくて」
「他の女乗せたすぐ後に、彼女迎えに来るわけか」
「拾って落っことしてきただけだよ」
「あっそ」
萌はそう言って、そのまま車を降りようとした。が、今度は彼に腕を掴まれる。
「待って」
「嫌」
「ほんとごめん。でも俺だって今日のことは楽しみにしてたんだよ」
私だって楽しみだった。萌は心の中でそう叫ぶと、知らずの内に潤んできた目をぎゅっと瞑った。
何でいつもこうなんだろう。
「ね、とにかく出かけようよ。海沿いでもドライブして、おいしいもの食べよ」
大樹は必死でそう訴えてきた。見れば、彼も泣きそうな顔をしている。演技なんかじゃない。素だ。
ここできっぱり別れを宣言出来たら、どんなにカッコいい女だろう。
でも、萌にはできなかった。
「…ピザ、食べたい」
「イタリアンね。せっかくだから、コースのとこで」
大樹はほっとした表情を浮かべながら、慣れた手つきでカーナビに指を滑らせた。
ぎこちない空気の中でも、とりあえずは食事を終えたことで、萌の気も少し治まってきた。
会話が弾むわけでも、盛り上がるわけでもないけれど、彼との二人の時間は確かに大好きなのだ。余計な横槍さえ入らなければ、最高の恋人だと思う。
「水族館でも行こうか」
大樹は手にしている観光雑誌と睨めっこしながら、一生懸命、次の選択肢を絞り出した。
「夏休みだから混んでるかもだけど。せっかくだし」
「いいよ。人混みはあんまり気にしないから」
どこかでゆっくりティータイムでも良かったけれど、大樹の頑張りを無にするのは気が引ける。雑誌には下調べしたと思われる丸印がいくつも付いていた。
「イルカ、見たいな」
「おっ、気が合うね。俺もだよ」
「ね、見て。かわいいよ」
大樹の腕に絡みつきながら、萌は大型の水槽を指差した。
ヨチヨチ歩きのペンギンたちが列をなして進んでいく。中には小さな子どもも混ざっていた。
「ふわふわだねえ。いいこいいこしてみたい」
萌がそう言うと、不意に頭を撫でられた。
「俺はこの子の方がかわいいな」
周りから見れば、ただのバカップルだ。でも萌は単純に嬉しくなった。演出であれば震えがくるほどサムい言葉だが、彼が言うと素直に聞けるから不思議だ。なんとなくくすぐったくなって、萌は大樹の胸に飛び込んだ。
その時、彼の携帯が何かを受信した。
「鳴ってるよ」
「ん?なんだろ。どうせ大したことは」
そこまで言って、大樹は黙り込んだ。
「どうしたの?」
「いや、何でもないよ。ほら、いこ」
女の直感に間違いはない。時間は三時。このタイミングでの連絡とあれば、例の女からに違いない。きっと内容は…。
「迎えに来いって?」
「見たの!?」
悲しいくらいに動揺する大樹に、萌は顔が引きつくのを感じた。
「見てないけど、そのくらいは察せます」
圧迫感を込めてそう言ってやると、大樹の顔は一気に曇った。
「まさか、行くつもり?」
「そんなわけないでしょ。大体、今からあっちに向かったら何時になることか」
「さっきは送りだけってきいたけど」
「そうだよ。だからこれは無視」
言葉とは裏腹に、大樹はその決断をしたことを怯えているように見えた。
行けば。もしそう言ったら、彼はどんな選択をするんだろうか。試してみたいけれど、結果が怖い。
「…あのさ、」
萌は上目遣いで彼を見た。大樹はおどおどしながらこちらの次の句を待っている。
「いいや。なんでもない」
それを聞くなり、彼はあからさまにほっとした様子を見せた。この場で色々突っ込まれることが嫌だったのか、それとも別れ話でもされると思ったのだろうか。答えは彼にしかわからないけれど、萌はそれを追求しないことにした。
「ね。ショー、見に行こうよ」
明るく言ってやると、彼もまた大きな笑顔を返してくれた。
ショーの間、確認できただけでも十回、彼の携帯が鳴った。その後で多分サイレントにしたせいで、それからのことはわからない。が、ランプが光っているところをみると、連絡はじゃんじゃん来ていたのだろう。
せめてもの罪滅ぼしなのか、大樹は一度も携帯をいじっていない。おかげで別れるまでの間、二人っきりの時を満喫できた。ディナーもちょっとした高級店でおいしくいただけたし、夜のドライブもとっても楽しかった。
そうしているときは本当に幸せで、一生大樹と一緒にいたいと思えてくる。
願わくば、彼が過去を切り捨ててくれれば。萌は何度そう祈っただろう。今のところ、叶う兆候は見られないけれど。
「今日はありがと。すっごく楽しかった」
「こちらこそ。でも、最初、嫌な思いさせちゃってごめんね」
「いいよ。帳消しにしてあげる」
「萌は優しいね。大好きだよ」
大樹はそう言うと、萌をぎゅっと抱きしめた。伝わってくる鼓動が早い。
「また連絡する。気を付けてね」
今日一番の笑顔を見せた萌に、大樹はそっとキスをおとした。
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