第4話

「どういうこと?」

 苛立ちのせいか、自然と低い声が出てくる。それを増長させるかのように、相手は無言の時間をとってきた。言い訳をするでもない、争いを好まない彼の最大の武器だ。

「昨日は、明日は平気って言ったよね。それがどうして?」

「…ごめん」

「答えになってないけど」

「うん。そうだよね」

「だから、どうしてって聞いてるんだけど」

「急に予定が入っちゃって、ちょっと難しくなって」

「何の予定?」

「それは、その」ためらいがちに言った彼に、ナホはこう畳みかけた。

「あの女?」

 また無言タイム。肯定の証だ。

 萌はがっくりと肩を落とした一方で、喉の奥が熱くなってくるのを感じた。

「もう、関係ないんじゃなかったっけ?」

「ごめん」

「ごめんじゃないよ」

 通話口に向かって怒鳴りつける。

「なんで?どうして?また嘘ついたの?」

「…ごめんね。でも夜なら大丈夫だから」

 相変わらず的外れな男だ。大樹には素で人を怒らせる天賦の才があるのだろう。このペースに巻き込まれてしまうと、過呼吸が出るほどイライラしてしまう。


 ナホは一度目を閉じて、自分を落ち着かせることにした。

「じゃあさ、昼は何するの?」

「それは…こっちの事情だから」

 せっかくのクールダウンを無にするような一言に、どうしようもないくらいカチンときた。感情に流されそうになるのを必死で堪えて、萌は精一杯穏やかにこう告げる。

「私、彼女だったはずだけど」

「うん。そうだよ」

「なら、教えてくれてもいいと思う」


 受話器の向こうで、彼が思案しているのが伝わってくる。きっと萌を傷つけない一言を探しているんだろう。どんな言葉であろうとそれが不可能なことに、彼はいつも気付かない。

「ちょっと、車を出さないと行けなくて。それが昼前から三時くらいだから、夕方から会おうよ」

「車、ね」

 今回もアッシーか。もちろんATM付きの。

「どこまで行くの?」

「プール。一番近いとこの」

「まさか、一緒にいくの?」

「いや、それは断った。車だけ出そうかと」

 誘われていたらしい。それを断っただけでも大きな進歩として評価すべきか、そもそもの要求を突っぱねなかった段階でアウトとするか。萌は無駄な二択で少しばかり悩んだ。こんなこと、香菜が知ったら怒り狂うに違いない。

「常識的に考えてさ、彼女との先約があるのに、違う女のとこに行くってどうよ。しかも遊びの誘い」

「いやいや、遊びは断ったって言ったでしょ。車だけだから」

「いやいやいや。他の女のアッシーを優先するのってどうなのさ」

「…やっぱり、だめ、だよね」

「普通はそうだと思うんだけど」

 しゅんとしてきた彼に、萌の態度も軟化した。


 我ながら甘すぎる。そうは思うが、大樹なりに考えた結果なのだろうから、幾分かは尊重してもやりたかった。

「わかったよ。ごめん」

 何がわかったのだろう。この後に飛び出してくる言葉がおそろしくて、萌はごくりと唾をのんだ。

「明日は予定通り会おう。こっちは断るから気にしないで」

「大樹」

「余計な心配させちゃってごめんね。明日、昼前に迎えに行くよ」

 大樹は空元気のようにそう言った。

 萌の要求は通ったらしい。けど何となく後味が悪い。だからか、言わなきゃいいのにこう続けてしまった。

「それで大丈夫なの?無理は、しないで」

「うん。多分ね。どうにか謝ってみるよ」

 謝るってどういうことだ。萌は立ちくらみを起こして、ベットに寝ころんだ。

「ねぇ、そもそもなんだけどさ。明日、彼女との予定があるって言ってあるの?」

「もちろん。だから一日中の拘束は免れてる」

「あっそ」


 大樹にもあの女にも、一般的な常識は備わっていない。いや、大樹にないだけか。彼女にはたっぷりの悪意があるのだろう。そして彼はそれに一切気が付いていない。

「もう、なんでもいいや。好きにしなよ」

「嫌な気持ちにさせちゃってごめんね。明日、穴埋めするから期待しといて」

 わかった。そう答えたけれど、彼が空回る様は容易に想像がついた。

 一体、何だってこんなに面倒な相手に恋をしてしまったのだろう。


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