琥珀色 Ⅲ
二章
誰もが凍りつき、一枚の絵として空間ごと切り抜かれたようだった。音もなく、一寸たりとも動きのない時が過ぎる。その時間は数秒か一秒にも足りないのか。またもや数分か。アナログ時計のない病室では分からなかった
どうであれ、最初に現実に戻ったのは僕だった。
それから次の行動を起こすまでは早かったように思う。微笑を浮かべた。
「おはよう。もうこんにちはかな?君と高校時代クラスメイトだった山崎透輝といいます。透明の透に輝くの輝って書いて透輝」
そう、僕は言った。
恋人に忘れられた僕。誰だ訪ねた彼女の瞳に嘘はなかった。病室の前での彼女の母の言葉。それらを全部ひっくるめて考えて導き出した最善策はこれだった。事情はまだ知らない、けど後ほどしっかり聞くつもりでいる。
それに彼女の記憶喪失とみられるものも恐らく僕に対してだけ。隠さなくていいのならあとで告白すればいいのだし、訂正が効く。
絶望を感じていないわけではない、今は傷心に浸ってる場合じゃないと感じただけ。周りが、彼女の親が隠したいのであらばまだ何も知らない僕が勝手するわけにいかない。
「お見舞いして来てくれてありがとう!でも高校のクラスメイトに君みたいな人いたっけな……ごめんね。思い出せないの」
「存在感がなかったんだよ」
と、返すと取り敢えず中に入ってきなよと言われたので大人しく従う。
病院独特の真っ白な空間に、彼女のものであろう私物が整頓されていた。ピンク、水色、ブラウンエトセトラ。その空間だけがカラフルに彩られている。
すると、一足遅く我に返ったシェリがまくし立てるように話を合わせた。
「覚えてないの?ほら、二年と三年のとき同じクラスだった本が好きな子。頭いいから何度か勉強も教えてもらったりしてるんだけど絵の勉強に夢中になって忘れちゃったんじゃないの」
これでいいんだよね。目で合図を送るとシェリも小さく頷いて返してきた。
瑠璃はというと明らかに様子のおかしい親友を疑うことはせず、長い黒髪を揺らして言った。
「問題。私の好きな絵は何でしょう」
「えっと…マグリットの光の帝国Ⅱ」
「せーいかい!」
ピンポンピンポンっ正解音も聞こえそうなノリで拍手もしてくる。
瑠璃は仲良くなった人には自分の好きな絵を教えている。彼女はそれを友達か否か確かめる材料にしていた。
「あなたはどうやら本当に私の友達だったみたいだね。改めてよろしく」
天真爛漫な笑顔と共に差し出された小さな右手をとるのか迷った。この手をとってしまえば後戻り出来ないことを悟った。この手をとったのと同時に僕の中でもう二度と戻らないなにかが迷い込んでしまう気がした。
「よろしく」
それでも、手をとった。陶器のように白く少し力を入れるとすぐに壊れてしまいそうと形容するのにまさしくふさわしい手。
ようやく気が付いたおばさんが廊下の奥へ消えてった。彼女が不思議そうに頭にクエスチョンマークを浮かべるので、さっきトイレに行きたがってたよと嘘をついた。そっか、と納得しない顔で答えたけれど、そこは無視させていただいた。
そこからは僕とシェリと瑠璃。三人で色々なことを話した。三年生の時の担任の話に始まり、瑠璃が最初の一週間だけホームステイさせてもらってた家族が優しかっただとか、文化の違いに戸惑ったとか。
英語が通じないこともあったけれど、ルームメイトになったオリヴィアとアメリアが助けてくれてとても仲良くなったことも。人とおり話終えると話題の矛先は僕へ向いた。
僕は文系の大学に入学したことを話した。
キャンパスの様子、変わった教授の笑い話など。シェリは看護大学へ通っているので三人で誰の教授が最も可笑しいか競い合った。
人間はどうして自分が一番〇〇だと思ってるものを超える話をされるとこう負けず嫌いになるのか。
勝負は「講義中に乱入し、スキップをして帰ってったおじいちゃん先生」のシェリに決まったのだが、僕の「試験中に急に某アニメ主題歌歌いだした」もなかなかいけると思っている。
それを抜いて瑠璃が興味を示したのはサークルについてだった。
「へえ、文芸サークルに入ってるんですね!やっぱり小説とか書いたりしてるんですか?」
身を乗り出して質問を次から次へと投げかけてくる。
「それなりにね。でも先輩達はすごいですよ。小説家を本気で目指して、相当の実力がある人もいっぱいる」
「ふうん。じゃあ山崎くんはどんな話を書いてるんですか?ミステリーとかファンタジーとかそういう類でいうと」
失敗。うまく僕から話をそらせたと思ったのだけども。小説のことに関しては聞かれると少々、いやかなり困ることがある。特に内容については。
「……あえて言うならミステリかな。たまにファンタジーとかも書くけどね」
ふうん、もう一度呟いてまた何かを考え出した。
ほっとした矢先に、シェリが口を挟んだ。それも一番バレたくないことを平然と言ってのける。
「りぃ、コイツ小説のホームページ持ってるからさ、あとで教えてあげる」
「えっちょっなんで知ってんの!誰にも言ってないよね!?」
「アンタの先輩から聞いたの。サークルで書いてるやつ、ホームページにもあげてるでしょ?そんなのすぐにわかっちゃうわよ」
なんたる失態。シェリの言う先輩には心当たりがある。多分あの女の先輩──果南先輩だ。
ホームページには、サークル提出したミステリ小説のほかに恋愛小説もあげている。ホームページがバレたということはつまり、恋愛を書いていることもバレたということだ。
サークルでは、男である僕が恋愛ものを書いていると言うのが恥ずかしくてそれを隠すためにミステリを書いていた。
恋愛のほうについては、空き時間にちょこちょこ執筆しては一気に投稿していくスタイルで半年前から続けている。
それも今朝、あのメールが届く直前に最終話を更新したところだ。
一昨日にサークルへ寄った時に女先輩に言われた「最終話、楽しみにしてるわね」との言葉を理解した瞬間だった。
いったいいつからバレていたのか。
まるで心の声を盗んだかのようにシェリが言う
「一ヶ月半くらい前よ。あっ最終話更新してるじゃない。無駄に繊細な文章書くから腹立つのよね」
いつに間にか取り出したスマートフォン片手にじろりと睨まれる。
理不尽だ、何をやったというのだ。朝から転んで自動ドアが開かなくて、ラヴストーリーのことが知られていたことを知る。これ以上何があるというのか。
非常にいたたまれない。今すぐこの場から逃走してホームページを消してやろうか。そうだ、それがいい。
「ねえ、」
最終話に没頭し始めたシェリをよそに、あれからだんまりだった瑠璃が口を開いた。
「なに?瑠……木村さん」
前のように呼びそうになってバレない程度に焦って修正する。
「今書いてる小説ってもう最終話なんですよね。明日から新しい話書き始めるんですか?」
「書きたいとは思ってるよ。まだ内容も決まってないけどね」
瑠璃がパッと顔を上げた。
「じゃあ、明日もお見舞い来てくれませんか?よかったらなんですけど、新しいお話、聞かせて欲しいんです」
えっ、口から空気と一緒に短くでて、また吸い込まれていく。
「まだ物語は読んだことはないけど、シェルがそんなに気に入ってる小説ならきっといい話だと思うんです。やっぱりダメですよね」
シェルと小説の趣味一緒だし、どんどん声が小さくなって、最後のほうは囁きのようになって聞き取るのがやっとだった。
「いいよ」
自分でも驚くほどあっさりとした返事だった。でも、会えないより会える方がずっといい。
病室を出ると、白い壁にもたれてシェリが待っていた。
「おばさんが呼んでる」
それだけ伝えると、また入れ違いに病室に入ってった。すれ違うシェリの瞳は潤んでいたように見えたが、きっと勘違いなのだろう。
そう結論づけて伝えられた場所へ向かった。
「──先生これで──ですね」
近づくほどおばさんの声はより鮮明に聞き取れるようになってくる。
「木村──の寿命──」
聞きたくない。この先は、聞きたくない。今日は厄日だなんてものじゃなかった。
とってもとっても、幸せとはほど遠い日。
勢いよく開けたスライドドアの裏で残酷な事実は伝えられた。
「──木村瑠璃さんの寿命は約一年です」
感情が爆発した、と表現するのが正しいのだと思う。それはあまりにも限度を超えていた。
「は?どういう意味ですかそれ」
瑠璃の寿命がたった一年ぽっちって。
ふざけるな、そんなことあっていいはずがない。
「何か答えたらどうなんですか?え?」
何一つとして答えない二人に苛立ちが募った。
ふざけるな。
ふざけるな。
「聞き間違いよ」
やっと聞こえた自分以外の音は、ひどく震えていて説得力なんて微塵もなかった。
「一年あれば新しい薬が開発されて治療法も見つかるの。瑠璃は死なないわよ」
それは願いのように聞こえた。娘の生を請う、現実を受け入れられない母親。
世間一般的に、僕も入れて可哀想だと多くの人は無責任に発言するのだろう。
その時だった。聞き覚えのある声が空気を震わせたのは。
「みきさん、ちゃんと説明してやったらどうだ。もともとそのためにここへ呼んだんだろう?」
「雅治さん……」
おばさんが雅治さんと呼んだその男は、一時間と少し前に自動ドアの前で知り合ったおじさんだった。定期検査は終わったのか。
「シェリちゃんから色々聞いたぞ。その青年の記憶を失くしたことも、宝石を吐いたことも」
「宝石を、吐いた……?」
おじさんは頷いて僕が聞き取ったことを肯定した。
周辺の人の口からは初めて聞いた言葉だった。いつか聞いた、ことがある。謎の奇病のことを。
数年前、ニュースで大々的に取り上げられていたことがある。
そう、中学三年生のときだ。あの時は確か受験シーズンのまっ最中。
直前まで勉強を散々サボっていた僕は、そのつけが一気に回ってきて数分も無駄にできないほど勉強に追われていた。
だから朝学校に行く前にチラリと聞いた病気に関心を持つ余裕はなかったし、聞こうとも思わなかった。謎の奇病についての知識は皆無に等しかった。
僕もおじさんも医者も根性よくおばさんの言葉を待ち続ける。
長い静寂を経て、おばさんはお願いしますと零した。
それから、おじさんを交えて医者に話を聞いた。
瑠璃が宝石を吐いたこと、寿命が長くても一年で治療法もまだ見つかっていないこと。
他にも説明してた気がするけど頭に入ってこなかった。
宝石を吐くなんて突飛な話に、脳が付いていけなかったのだと思う。
ああ、そうですかで済むような規模の話ではなくて、お金のなる木があるよと言われるより信じられなかった。
人が、宝石を吐くなんて。
医者はできるだけ早く退院させると言っていた。残り少ない人生を、謳歌させるためだ。
真っ白ななにもない空間で一生を終えるよりはいいという方針だった。
いっぽう母親は瑠璃に寿命のことを秘密にして欲しいと願った。嘘をつく、せめて一年で治る病気だと偽って楽しんで生きてもらう。それが彼女の母親であるおばさんの決断。僕は伝えるか否かの間で揺れていた。
寿命を伝えないことは、どれほど残酷だろうと考えた。
その気持ちを説明する術もなく、おじさんのせめて死ぬことを伝えておくという意見で妥協案をだし一ヶ月前に伝えることに決った。そしてその役目を僕が負う。
暗い海へ突き落とされた人魚が、海の底から光だけをたよりに上がってきたのにあと少し、あとすんでのところで引き戻されるのと同じことだと。
もうすぐ病気が完治する、あと一ヶ月だと希望に溢れてるところにこう言いはなつのだ。
“あなたの寿命はあと一ヶ月ですよ”と
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