琥珀色 Ⅱ
はっはっと息を切らす。
風を背中に受けて、何者かにもっと、もっと速く進めと背を押されている気がした。
もっともっと速く進め。嫌な予感がするぞ、と。
意地の悪いことに、僕の予感はいつも当たる。
吸って吐いて吸って吐いて。普段マラソンする時のようにリズムを整えようとはせず、足をひたすら前に突き出してコンクリートの地面を蹴ることだけに、意識を集中させる。
マラソンは得意な方だ。小中高の校内マラソン大会では、一位にはなれなくとも毎年十位以内と優秀な成績を収めていた。
……と言っても成績重視のまあまあの進学校だったので、運動部だった僕にはそれがあたり前の順位だったのかもしれない。
それが今はどうだ。大学生活を送るうえで、僕は中学生の頃からだらだらと続けていたテニスサークルには入らずに文芸サークルに入った。
結果的に、物語を書くことは僕の性に合っていたようだった。
先程も言ったように部活動が活発な高校ではなかったので、本を読んだりカメラを片手に散歩に出かけていた休日に「小説を書く」という習慣が追加された。
今日のような夏休みもバイトと家の往復。とりわけシフトもたくさん入れてもないわけで。
それらが積み重なった結果、体力は著しく低下していったのである。
走り始めて十分。脇腹が痛み出した僕を容赦なく照りつける真夏の太陽。
真っ青な空が綺麗だとは感じられなかった。
八月の気候に邪魔をされて、速く走ることだけに集めていた意識を別の方向へグラリと傾けられた気がした。
いや、傾いたのは意識ではなかった。
勢いよく踏み出していた右足が、なぜだか何もないところで斜め四十五度にまがり、一七〇センチメートルの男としては変わり映えのない身体が前に押し出される。顔に、地面が先ほどまで出していたスピードを五倍・十倍に比例させたような速さで迫ってきた。
元の体勢に正すことは九割九分九厘不可能だと、一里でも可能性を考えた自分に呆れつつ、朝の住宅街に鈍い音を響かせた。
できる限り軽傷で済ませようと必死に前へ付いた両手の甲斐あって、怪我は手のひらの擦り傷ふたつに終わった。
ちょうど朝の散歩中だった、洒落た服を着せられた栗色のプードルと、これまた洒落た服で着飾った金色に近い茶髪のセミロングの女性がこちらを一瞥する。
「あはははは……」
この空気に耐えられず、簡単に音を上げた。
恥ずかしい。
恥ずかしくて、常に染まっていた頬を一段と紅色に染める。自分にフォローを入れようと口を開けたところ、喉の奥から出てきたのはがらんどうな笑いだけだった。「なんなのコイツ」心の中を覗けるのであれば、そう悪態をついているのであろう女性は、視線を手元のスマートフォンに戻してさっさとプードルを引っ張っていった。
未だに立ち上がってなかったことに気付き、よろよろと立ち上がる。
恥ずかしい。追い討ちをかけるように二酸化炭素といっしょに胃の中のものまで出てくる感覚に襲われて、それらをかき消すように歯を軋ませるともとの半分以下の大きさになった黄金糖が砕ける音がした。
「どうしてこんなことに……」
ほんの二十分前の自分を思い出し、悔やむ。
たった、たった一言のせいで午前中から街を駆けずり回っている。
十時十三分、夏休みの特権だと怠惰な生活をおくっている僕に、買い換えたばっかりのスマートフォンに一通のメールが届いた。
ちょうどホームページの編集をしていたから、メールにはすぐに気が付いた。知らないアドレスからだった。
件名には「山崎へ」
本文には「りぃが帰ってきた」
それと、この街で一番大きい総合病院の名前。
りぃ、もとい木村瑠璃はこの春、絵の勉強するために外国へ留学した高校のクラスメイトだ。
差出人不明のこのメールも、差出人の見当はついている。
僕の推測が正解であるのなら、ここに来いという内容で、病院の名前が書いてるから多分緊急。
そして、僕は最低限身なりと持ち物を持って家を飛び出した。
病院の一歩手前へまで着く頃には、額には何本もの川となった汗が流れ、真っ黒のシャツが肌にベッタリとはりついてきて不快感を覚えた。
いくつか深呼吸をし、息を整える。
早く涼しい室内へ入ろうと足早に歩道を進んだ。
数歩先に大きめの、ブレーキをかける音が聞こえた。そちらを見やるとバスがちょうど病院前へ停車した音だった。
失敗した、と悔やんだ。
無意識のうちにバスというとても便利な公共交通機関の存在を、頭の隅に追いやっていた。
バスを待つ時間を入れて計算しても、今のように走って行くよりも十分早い。
急がば回れ、とはこういうことか。
バスだったらこの鼻の頭の怪我もなかったのに……厄日なのかと苦笑する。
後悔もほどほどに、自動ドアの前に立つ。でもドアは開かなかった。センサーに認識されなかったのかと思い、数歩下がってまた近づく。ガラス戸の端と端とに付いているタッチ式のボタンも押す。
でもドアは動こうとはしない。
中に居る看護師もこちらの異常に気付いている様子はない。
本当に今日は何なんだ、嫌なことばかり続く。
どうしようか迷っていると、ガラス戸に雑に貼り付けられている一枚の紙が目についた。
ああ、そういうことかと声に出さずに笑い、ひんやりとクーラーの効いた病院内へ足を踏み入れてエレベーターを目だけで探した。
「どうなってるんだ?」
振り返ると、透明のドアごしに先ほどのバスから降りてきたらしい──この蒸し暑い中汗をかいてないからだ──紳士的なおじさんが困って肩をすくめていた。
僕は自動ドアのスイッチを取っ手代わりに掴んで横に引いた。特に大きな音を立てることもなく強化ガラスでできたドアがあっさりと開く。
「どうぞ」軽く会釈をしながら、困惑の色が見えるおじさんへ向き合った。
「ありがとう。しかしこの病院のドアは自動ではなかったかね」
「ええ、そうですよ。でも今日は故障中だったみたいです。貼り紙は拝見しましたか?」
「いや、見ていない。いつ見てもがんの定期検診をしろとしか書いていなくてな。嫌になってくるんだ」
そう言っておじさんは茶目っ気な顔で軽快に笑う。僕もつられて乾いた笑みを零した。
二人で並んでもう一度、蒸し暑い室外へでた。
ガラス戸に貼ってある紙。そこには「故障中のため自分で動かしてください」と「自」という漢字と「動」という漢字が強調されて、簡潔に書かれていた。
これから定期検診なんだとおじさんが去っていった方向と反対方向にあるエレベーターに乗り込む。
三と表示されたボタンを押して直方体の箱が上昇するのを待った。
ごうん、と音をたてて動き出す。振動はとても静かで聞こえるのは、自分の吐息。
灰色の床の隅にほこりが溜まっていた。
軽やかなチャイムを鳴らし止まったエレベーターから出て、白と緑、そして黒。三色しか存在しない廊下を行く。
彼女の病室、三◯一号室を見つけるのに一分と掛からなかった。
もとよりエレベーターホールから近かったのもあるが、木村瑠璃様と記された病室の前に何度か面識のある彼女の両親が佇んでいたからだ。
「おはようございます」
瞼を真っ赤に腫らした母親がこちらを振り向く。
つい先程まで泣いていたのであろう。頬に涙の跡がある。
こんな時に不謹慎ではあるが、ぷっくりと腫れたその目は土偶に例えるのが一番早かった。
「ええと……山崎君だったかしら。ごめんなさい。瑠璃は今友達と話しているのよ……もうすぐ出てくると思うけど……あの子よ、シェリちゃん」
やっぱり、と自分の推測が正しかったことを知った。
僕が知りうる中で、木村瑠璃のことをりぃと呼ぶのは今も昔もシェリだけだ。
シェリは、瑠璃のことを他の者にそう呼ばせない。自分のことも、瑠璃だけにはシェルと呼ぶように言っている。
「瑠璃が貴方のことを忘れていても秘密にしてね」
おばさんの小さな掠れた呟きは、病室の扉が横にスライドする音に掻き消された。苦し紛れに聞き取った言葉を、聞き返す間もなく僕に対して一人の女の子の姿が覗く。
シェリこと篠原貝殻。近ごろよくあるキラキラネームで、貝殻と書いてシェルと読む。
キラキラネームの人はよく名前を隠したがるが、本人は特に名前を嫌うことはない。「シェルって呼びにくいからシェリって呼んで」と自ら言うぐらいは気に入っているみたいだ。本人いわく、わざわざ隠そうとしたほうがめんどくさいし自分の名前を恥じることないじゃない、とのこと。
あとは純粋にシェルというネーミングを気に入ってるのだと思う。
肩まであるふんわりとした栗色の髪にくりっとした愛らしい瞳。
性格もおしとやかな優しい、のではなく思ったことはなんでもずばずばと言う男勝りな性格。口はまっすぐ一文字に閉じられていて男相手にその口角があがることはない。
男嫌いのレズビアンだと噂が立つぐらいには、異性とは関わりを持とうとはしなか
った。
だから、シェリがわざわざ呼んでくれたのは不思議でしかなかったのである。
「意外と早かったじゃないの。あの子の彼氏だから仕方なく呼んであげたのよ。感謝してよね」
「それはどうも」
僕と瑠璃は、確かに恋人関係だ。昨年の夏、七月三十一日にお付き合いというものを始めた。
留学中は色々とあって連絡はとっていなかったけれども、まだ自然消滅の段階ではないのだろう。
シェリには感謝しなければいけない。
でも、男である僕に対してシェリの態度はは相変わらずシビアだ。僕には一瞬も笑顔を見せないのに、ほら、今はもうおばさんに笑顔で挨拶を交わしている。
「そういや彼女――瑠璃はどうして入院してるのですか?」
途端にさっきまでの和やかな雰囲気は消えた。
おばさんの無理矢理に作っていた笑顔も消えた。
入院している理由を、シュリは知っているようだった。
おばさんの顔を伺い、答えてもいいのかと迷いを見せている。
重苦しい空気のなか、タイミングを見計らったように病室の奥から声が聞こえた。
これを偶然と一纏めに表していいのか、僕は迷った。
僕と彼女が出会った時点で、これは必然だったのかもしれない。
「ねえお母さん、シェル、そこにいる男の人は誰なの?二人の知り合い?」
場の空気が、一瞬にして凍りついた。
あどけない表情と言葉で、残酷な言葉を発するのは、帰国したばかりの、僕のこいびと。
僕は彼女に忘れられていた。
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