琥珀色 Ⅳ
三章
憎ったらしい真っ青は、灰色の絵の具を混ぜたみたいにくすんだ水色へと変化していた。
中途半端に僕の気持ちを反映するならばいっそ分厚い雲で覆うか、気持ちに反して快晴が続くか、はっきりとして欲しい。
バスを待つ僕は、空を仰ぎ見る。
医者の話を聞いた後、瑠璃の病室までおじさんと少しだけ話をして、瑠璃の父の兄であることを知った。
親しみをこめてまささんと呼ぶと嬉しいと言われたから快く受け入れさせてもらった。
これだけで喜んでもらえるならお安い御用だ。
芸能人と同じ雅治なので、雅治叔父さんと呼ばれるよりは「まさ」のほうがいいと言っていた。そこは“有名人と同じ名前”という境遇のある人にしか分からない問題なのだろう。
実際に福山雅治と同姓同名の人が、許可を貰って会社では偽名を名乗るという話を聞いたことがある。
下手に先入観を与えてしまう、隠す理由はそこからくるのかもしれない。
僕の予想があたっているかは知らないけど。
三〇一号室の前を通り過ぎる時、足が止まったが瑠璃には挨拶をして帰らなかった。
きっと酷い顔をしているだろうから。向き合って彼女の声を聞くと、泣いてしまう恐れがあった。こんな姿、見せたくなかった。
すずしい車内で呆けて、うっかり目的のバス停を横切りそうになった。危ない、乗り過ごすとこだった。
家に着いてもうっかりは続いていた。
ドアの鍵が開かなければ、鍵を差し込むだけ差し込んで解錠をしていない。靴のままで部屋に上がりそうになる。そんなことを繰り返しながらベッドになだれこんだ。
くらりと眩暈がして、貧血か水分不足だろうかと他人事のように考える。
無理矢理起き上がってキッチンを目指して歩いた。乾燥棚からガラスのコップを取り出しコップのふちギリギリまで水を入れて一気に飲み干した。
冷たい水が喉をつたい、食道を通る感覚が気持ちいい。
でも今は何も考えたくなくて、蒸れたシャツのままで意識を闇に放った。
──ピピピピピ
自分が仕掛けたアラームに舌打ちをして行ったバイトも、散々なものだった。
レジは打ち間違えるわお客さんに話しかけられても気付かずに無視してしまって店長にこっぴどく叱られた。
これ以上居ても邪魔でしかないと、四時間の予定を半分の二時間で帰らされてしまった。
その分給料が減るがそんなにお金には困っていない。
帰宅しても食欲が沸かず、バナナ一本だけ腹に入れてずっとスマートフォンで宝石病に関する記事を漁っていた。
“宝石病”でヒットしたものを一通りみたら関連項目で検索する。次。それを何十回も繰り返した。
八〇を示していた電池残量が一〇パーセントを示したところで一つ、めぼしい記事を見つけた。
その頃には深夜二時を回っていた。
プロポーズを済ませ、結婚するはずだった男性の宝石病の闘病日記だった。彼女に忘れられ、悲観にくれている男性の理不尽な世界への叫びから日記は始まっていた。
宝石病というワードを使っていなかったので検索に引っかかりにくかったのだ。
「医者はこの事実を隠した。根拠もなにもなかったからだ」
その一文で、長い長い一年における闘病日記は終わった。
プリンターへ向かって日記の全ページを印刷すると、なんとかもっていた電池は尽きた。
この日記の制作者は一週間分を一ページにまとめていたので印刷するのは苦ではなかった。
これでこのページがいつ消されても大丈夫だ。トントンとコピー用紙の角を整えて、ホッチキスで纏める。
これは掛けだ。彼女が生きるか死ぬかの。
日記に記されてあったのは、あまりにも衝撃的なものだった。試す価値は、ある。
もはや鉄の塊になったスマートフォンを捨てて、パソコンの電源を入れる。
文書処理ソフトウェアを起動し、キーボードに指を走らせた。
書くことはもう決まっている。
◇◇◇◇◇◇
水から浮き出るように意識が浮上する。
大きく伸びをした。
朝は低血圧の僕にしては目覚めは悪くなかった。ただ、気分は最悪だった。
昨日の出来事が全て夢であればいいのに。
瑠璃は今遠い海外で絵の勉強をしていて、昨日は悪い夢。
食パンにバターをぬる。
昨日が在ったことを、時計が物語っていた。
午前十一時半すぎ、今の時間だった。
普段はよっぽどの夜ふかしをしない限りこんな時間に目覚めることはない。
文書を保存して床についたのがおおかた午前四時頃。
それから七時間半もの間爆睡していたというのか。道理で昨日の疲れが身体から抜けているわけだ。
冷蔵庫から卵を一個、ベーコンをひと切れ、フライパンを一本取り出して、油を引いた上に、たまごを落とした。
朝食にするつもりだった食パンの上に、焼いたベーコンと目玉焼きを乗せてベーコンエッグトーストにした。
我ながらいい出来だと思う。
僕は固まってぱさつく黄身が嫌いだ。だから
黄身はいつも決まって半熟。僕は基本的に口の中の水分を吸いとっていくものは好んで食べない。
後味も悪くて、固まった黄身を食べるの人の気がわからない。
半熟の黄身にすじを入れるとトロトロのオレンジがベーコンを滴って、こんがりと焼けた食パンに染み込む。
朝食兼昼食にしては少ない量だが、まだ食欲がないのでちょうどいいだろう。
コーヒーを一口すすった。
◇◇◇◇◇◇
僕は病室のまえに居た。
ちゃんとバスに乗って、転ぶこともなくここにいる。
自動ドアは一晩の間に修理されていた。
まささんと出会うきっかけの自分で動かすドアが、すこし恋しいと思ってしまう。
僕がここに来て十分は経つが、入れずに居た。
中に三者がいるから、遠慮して入らないわけではない。
喋り声がしないから、この病室には瑠璃ひとりっきり。
僕が入るとふたりっきりになる……などと少女漫画のような女々しいことを考えてもない。
なら、なぜ足を戸惑わせているのか。
瑠璃が僕に対しての記憶を失っていることを隠さなければいけないからだ。
昨日はシェリのフォロー入りながらの会話だったが、今日はそうもいかない。
不安だ。自分がボロを出さないか。
必要最低限以上のことを知ってると疑われてしまう。変に思われることなく自然な会話を交わす必要がある。
僕はいつだってネガティブだ。悲観的な考えしかできないのかと友人に言われたことを覚えている。
最悪の結果を最初に思い浮かべてしまうのは、幼い頃からの悪いくせだ。
試しに引き手を掴んだ。そのまま横に引いてみる。
一心にスケッチブックに向かっている瑠璃の姿があった。
よほど集中しているのか、こちらには目もくれない。
気付いてない様子にほっとして、椅子をベッドの脇に置いて座った。
鉛筆を走らせる音が子気味良い。
僕はしばらくの間、音に耳をあずけていた。
音を聞くのにも飽きてきて、彼女が一心不乱に描いているものが気になった。
数センチ椅子から腰を浮かして、彼女の手もとをのぞき込む。
斜め過ぎてよく見えない。もう少し、とおしりを浮かせると後ろで嫌な音がした。
勢いよく振り向いた瑠璃と、視線と視線が至近距離でぶつかる。
「あっ……」
声が重なった。慌てて退くと足が倒れた椅子に当たる。
とりあえず椅子を立て直して、元の位置より頭一つ分離れたところで腰を掛けた。
「いつからいらしたんですか?声を掛けてくれたらいいのに」
怒気を少しばかり含めた声で彼女が言う。
「十五分ほど前です。夢中に絵を描いていたものだから声を掛けずらくて」
ごめんなさい、謝る。
昨日、帰り際にタメ口でいいと言われたが、微妙に敬語が混ざってしまう。僕も敬語でなくていいよと返したけれど、抜けきれないのはお互い様だ。
彼女は僕と反対側にある棚の引き出しにスケッチブックを片付けてしまった。
逃がした魚は大きい。あとちょっとのところだったのもあって、そこまで気にならなかった中身が無性に気になる。
今までの経験から、こういう時に聞いても答えてくれないことは分かっていた。
──強情に聞き出そうとして不機嫌にさせたことがある。
「というか、本当に来てくれたんですね。
入院生活って暇なんですよ。今みたいに絵を描いてるしかなくって」
彼女は苦笑してみせた。
「でも、来てくれたってことはお話、書いてくれたんですか?」
首を女性らしく傾げる。僕は答えた。
「とりあえず書いてきました。まだ推敲もしてないんだけどいいかな」
「もちろん!あともうひとつお願いがあるんだけどいい?」
僕が手渡したコピー用紙を、卒業証書を渡すときと同じ形で突き返した。
何か彼女の気に触るような失言をしてしまっただろうか。僕は今までの会話を思い出す。
“本当に来てくれた”というところから、信用されてなかったところは明らかだけどこれは違う。
その他の心当たりはスケッチブックを覗こうとした以外にない。
「君が読んでよ。私読んでる間山崎くんすることないでしょ」
それに私読むの遅いしさ、と付け加えた彼女は有無を言わさない。僕は困った顔をしてみせるけど、これは瑠璃なりの気遣いだ。
一見伝わりにくい、そういう性格なのだ。出会ったころから。
「じゃあ、読むね。」
「下手くそでも笑わないから安心して」
ニヒルに笑う彼女を横目に僕はコピー用紙に目を移した。
「これは、ある少女と少年のお話です。ふたりが改めてお互いの存在を認識した日。
少年と少女が出会ったのは、花びらが舞い散る桜の木の下でもなく、かといって雪が降り積もる雪の日でもなくて、残暑の厳しい夏の日でした。夏休み終了の三日前です。
少年は学校の図書館に来ていました。夏季休暇の課題も全て終え、図書委員長だからという名目で度々休みの間も図書室に訪れていました。
今日も今日とて、新たに読む本をトートバッグに入れ、鍵を返しに行くため職員室に向かっていました。
ポケットの中の懐中時計は十一時を指しています。ナポレオン、という名の懐中時計は表蓋の中央部分には小窓が開けられ、その周囲には九金色に仕上げられたローマ数字の時刻表示とメモリが彫り下げられ黒色のペイントが施されています。
つまり表蓋を開けなくても時刻を確認できるようになっているのです。
指針が時を刻む音が、心地よく響いています。
担任に鍵を渡すと、帰るついでに美術室にまだ居る生徒にも帰るよう促すように言われました。
少年は断りはしません。
断るのが面倒だったからです。
用事を押し付けられるのは、日常茶飯事。先生から見れば、この少年は雑用を押し付けても一つも文句を言わない、従順なロボットのようなものだったでしょう。
先生から伝えられた名は、聞き覚えがありました。それもそのはずです。だってその少女は、いくつもの絵の賞をもらい、校内の至るところに掲げられていて、今まさに少年の真横に飾られている絵の作者なのですから!
隣のクラスの少年ですら、その名を聞かない日はありません。表彰式では毎度のように校長先生が名を連ね、それに合わせ明るい性格ときたので学校のスターのような存在でした。知らなはずがないのです。
妬む人もいました。でも毎日放課後、最終下校時刻ギリギリまで残り、熱心に絵を描いているすがたをみると、ぐうの音も出ませんでした。
そうしているうちに、美術室は目の前でした。少年は扉を開け、中を覗き込みます。
長い黒髪を上で一つにまとめた少女のシルエットが見えました。いわゆるポニーテールと呼ばれる髪型です。
キャンパスには、お城の絵。ヨーロッパあたりのお城の写真がマスキングテープで貼られています。それを見本に描いていたのでしょう。
少年は、少女の名を呼びました。
キャンパス以外を映さない瞳が少年を見据えます。
その視線にドギマギとしながら、少年は言いました。
「もうすぐ下校時刻だから帰れって先生が言ってましたよ」
少女はきょとんとした顔をしてから少年に問い返します。
「まだ午前中ですよ?……ってああ、今日は早く帰らないと行けない日だったね。ありがと」
「いえ、全然……では、ぼくはこれで」
少年が立ち去ろうとした時、少年を呼び止める声が聞こえました。
閉じかけていたドアを、もう一度開きます。
「ねえ、一緒に帰らない?いつも帰りはひとりだから誰かといっしょに帰りたくて」
少年はビックリしました。なんていったって学校のスターからのお誘いです。
帰るのがいつもひとりなのは、少女が帰宅する時間があまりにも遅い時間だからだと思うのですが、少年もいつもひとりで帰っています。友達がいないわけではないのですが、図書室で読みほうけているうちに、陽はいつの間にか西へと消えているのです。
少年はお誘いを二つ返事で受けました。そして片付けを手伝うとも言いました。
自分から何かを手伝うことは、滅多にありません。
少年はクーラーの効いた美術室に入って、扉を閉めました。
少年のポケットのなかで、懐中時計が時を刻む音が、心地よく響いていました。
これがふたりの少年と少女の、出会いの物語です」
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