ハッピー・マイ・ファミリー
上倉ゆうた
ハッピー・マイ・ファミリー
<次のニュースです。S県F市で、両親を殺害した容疑で、十六歳の少年が逮捕されました>
朝っぱらから、
「おお、怖い。家族を殺すなんて、気が知れないわ」
新聞をめくりながら、父さんも
「全くだ。うちは幸せで良かったな、
まあ、確かに、あんなのに比べれば、幸せであることは否定しない。
我が
僕も、まあ、少なくとも、親を泣かせるようなことはした覚えがない。多分、これからもしないだろう。ちょっと親に反抗しているぐらいが、男としては格好いいのかもしれないが、反抗する理由がないのだから仕方がない。
経済面や健康面の問題も、僕が知る限りはない。まあ、強いて言うなら、ヘビースモーカーの父さんの健康が、少し心配なことぐらいか。
理想の家庭、そう呼ぶ人もいるだろう。
しかし、僕にとっては、それはごく当たり前のことで、取り立てて幸せだと感じることもなかった。
「あら、もうこんな時間。学校に遅れるわよ」
慌てて牛乳を飲み干し、家を飛び出す僕を、両親が「いってらっしゃい」と見送る。
いつもの朝と、何も違わなかった。
ずっと、こんな毎日が続くのだと、信じて疑わなかった。
*
サッカー部の練習を終えて帰宅すると、すでに夕食時だった。台所では、母さんが鍋を温めているところだった。
「お帰りなさい、すぐご飯できるわよ」
それまで、テレビでも見ていようと、リモコンに手を伸ばした僕は、はっとした。母さんの足元で
母さんが大嫌いな、あれだ。その嫌い方は半端ではなく、見かけると、真夜中でもバルサンを
折り悪く、母さんが振り返ってしまう。このままでは、鍋をひっくり返しかねない。僕が慌てて、丸めた新聞紙で、それを退治しようとした、その時。
ぐしゃり。
それが、嫌な音を立てて潰れる。だが、潰したのは、僕の新聞紙ではない。
母さんの足だった。
僕は、我が目を疑った。あの母さんが――しかも、母さんは今、スリッパも靴下も履いていない。素足だ。
母さんは、まだぴくぴく動いているそれを、ひょいと摘み、ゴミ箱に放り込む。全ての動作が、冷静そのものだった。
母さん、いつから平気になったの? 僕が呆然と
「何が?」
母さんの口元は笑っていた。しかし、その
これが、母さんに対して、違和感を覚えるようになった、最初の切欠だった。
これだけだったら、日々の記憶に流されて、忘れてしまえたかもしれない。しかし、そうなる前に、またしても、僕は見てしまった。
数日後の朝、顔を洗って、何気なくベランダを見た僕は、慌てて目を擦った。だが、見間違いではなかった。
ベランダの花が、全て枯れてしまっている。
すぐに報告したが、母さんは「そう言えば、水をやっていなかったわね」と呟いたきり、確認しようともしなかった。
次の日には、ベランダの花は全部捨てられていた。中には、今からでも水をやれば、息を吹き返しそうな花もあったのに。
がらんとしたベランダを見つめながら、僕は呆然とするしかなかった。『大切に育てれば、お花も必ず応えてくれるのよ』と、よく僕に言っていた母さんが、一体どういう心境の変化なのか。
以来、僕は、母さんを注意深く観察するようになった。すると、他にも見つかったのだ。
以前の母さんと、明らかに違っている点が。
苦手だった
可愛がっていた隣家のペロに、見向きもしなくなった。ペロの方も、母さんの姿を見かけると、慌てて犬小屋に引っ込んでしまうのだ。耳を垂れ、尻尾を丸めて、怯えきった様子で。
どこで買ってきたのか、難しそうな本を読むようになった。『大脳生理学入門』だの『世界の鉱山』だのは、まだタイトルから内容は推測できるが『ナコト写本・日本語版』とやらは、一体何の本なのか。
一つ一つは、どれも
しかし、
一体、母さんはどうしたのだろう?
それでもまだ、この時点では、違和感は違和感でしかなかった。しっくりこないが、日常に支障をきたす訳でもない。その程度だった。
違和感に不安が混じり始めたのは、あの夜のことだった。
明日には、父さんが出張から帰ってくる。母さんの変化を知ったら、さぞ驚くだろうな。そんなことを考えながら、ベッドに潜り込んだ時だった。
階下から、ぼそぼそという
相手は父さんだろう。明日まで待ちきれなくて電話したのか。こんなところは以前と変わらない――。
――等と、
「定期連絡――実験は順調――
よく聞くと、母さんは全く意味不明なことを話している。いや、内容もさることながら――。
――これが本当に、母さんの声だろうか? 何の感情もこもっていない、まるで機械のような声。
「明日から――増員――第二段階に移行――の指示を――」
闇に、階下からの異様な囁きが忍び込む。
違う。母さんが変わったのは、日常の些細な習慣などではない。
本当に変わったのは、もっと根本的な部分だ。
僕は金縛りにあったように、微動もできなかった。聞いていることを、母さんに気付かれるのが、なぜか怖くて。
本当に――母さんは、どうしてしまったのだ?
*
とにかく、一度父さんに相談しよう。
翌日、その決意と共に、出張から帰ってきた父さんを出迎えたのだが。
「ただいま」
父さんの姿を見た途端、その決意は霧散していた。
「どうした、稔? ぼーっとして」
“父さん”に言われ、僕は我に返った。そうだ、父さんじゃないか。どうして、あんなことを思ってしまったのだろう。
誰だ、この人? などと。
しかし。
「お帰りなさい、出張お疲れ様」
「いや、大変だったよ。ヴァーモントの山中まで行かされて――」
にこやかに話している両親を見ていると、奇妙な気分になるのを抑えられなかった。まるで、
その理由に気付いたのは、数日後の週末のことだった。
たまには外で食事するか、ということになり――正直、気が進まなかったのだが――レストランに入ったのだが。
入口での、ウェイトレスと父さんのやり取りを聞いた瞬間、僕は聞き間違いかと思った。
「現在、禁煙席のみのご案内になりますが、よろしいでしょうか?」
「ああ、構いませんよ、煙草は吸わないので」
あの、ヘビースモーカーの父さんが?
そこでようやく、僕は思い至った。出張から帰ってきて以来、父さんが煙草を吸うところを、一度も見ていない。帰宅してから、恐る恐る灰皿を確認してみたが、思った通り、全く使った形跡がなかった。
さすがに健康に悪いと、禁煙を始めたのだ。という、安直な解釈に
まさか、父さんも?
動揺のあまりよろけた拍子に、勉強机に置かれた置物を、落として割ってしまう。父さんの出張の土産だ。慌てて拾い上げようとした、僕の手が止まる。
割れた置物の中に、何かが入っていることに気付いて。
レンズの付いた、小さな機械――盗撮用カメラだと思い至って、僕は愕然とした。
まさか、父さんが? そんな馬鹿な。何で、父さんが僕を――しかし、これを仕掛けられる者が、他にいるか?
今すぐ、これを父さんに突きつけて、問い詰めるべきなのかもしれない。しかし、本能が激しく抵抗する。やめておけ。それは、開けてはいけないパンドラの箱だ、と。
結局、僕は、置物を引き出しの奥に仕舞うことしかできなかった。
やはり、思い過ごしではなかった。父さんも、変わってしまっている。それも、母さん同様、人としての根本的な部分が。
そうだ、父さんが出張から帰ってきた時から、僕は薄々気付いていた。だから、何も相談できなかったのだ。
最早、早瀬家の中で、以前のままなのは、僕だけだった。
どうしたらいい? こんなこと、人に話しても、信じてもらえる訳がない。思い悩みながらも、僕はいつも通りの生活を続けるしかなかった。
「今日は、稔の好きな唐揚げよ」
「どうだ、サッカー部の方は順調か?」
両親も、表面上は今まで通りに振舞っている。しかし、僕にとっては、それが一層、不自然で不気味だった。
奇妙な感覚だった。現実の生活なのに、まるで
どうして、こんなことになったのだろう? いつまで、こんなことが続くのだろう。
しかし、終わりは案外早くやって来た。正確には、終わらせざるを得なくなったのだが。
それから数日後のことだった。
「ああ、稔、足元に気を付けて」
母さんは何やら居間の床を、きょろきょろと探していた。
カレンダーを貼り代えようとしていたのだが、手元に置いておいたはずの
はっとその足元を見ると、画鋲の針がきらりと輝くのを見た。動かないで! 僕はそう叫ぼうとしたが、一歩遅かった。母さんの足が、画鋲を踏んでしまう。
そう、確かに、思い切り踏んだはずなのに。
「どうしたの、稔?」
母さんは、平然としている。痛がるどころか、気付きもしていない。僕の口は、叫ぼうとした形のまま、固まってしまう。
そんな馬鹿な。両親の異常な振る舞いなら、もう慣れた。しかし、今、起きたことは、精神の変化だけでは、説明が付かない。
生物学的に、有り得ないことではないか。
慌ててベランダに駆け込み、庭を見下ろすと、父さんが愛車のセダンを洗っているところだった。その日常的な光景を見て、僕は何とか、落ち着きを取り戻そうとしたのだが。
取り戻すどころか、止めを刺される羽目になった。
ぴかぴかになったセダンを、父さんは車庫に戻し始めた。セダンは、するすると車庫に入っていく。だが、父さんは運転していない。では、どうして動いているのかというと。
父さんが、手で押しているのだ。
それも片手で、全く力む様子もなく、1.5トン近くある車体を、軽々と。
僕は、視界が歪んでいくのを感じていた。床も壁も天井も、凸レンズを通して見たように歪んでいる。
両親がおかしくなった? 違う。事態は、もっと深刻だったのだ。
おかしくなっていたのは、現実そのもの。早瀬家は、悪夢の世界に引きずり込まれてしまっている。
「稔、今晩のおかずは何がいい?」
母さんの声も、スロー再生のように
もちろん、合宿の予定などなかった。
*
もう、
僕は
自宅に忍び込み、両親の様子を探るのだ。今なら、僕が留守だと思っているはずだ。僕の前では見せない何かを、見せるかもしれない。
早瀬家を襲った異変の真相を、突き止められるかもしれない。
知るのは恐ろしい。しかし、このまま、得体の知れない恐怖と同居し続けるのは、もっと恐ろしい。結局、僕が帰る家は、あそこしかないのだ。僕は、なけなしの勇気を振り絞った。
真夜中近くまで待ってから戻ると、自宅の明かりは全て消えていた。一見すると、安らかに眠っている周囲の家々と、何ら変わりはない。誰に想像できよう、その中で、あんな異変が起きていることなど。
しかし、合鍵でドアを開け、一歩入るなり、僕は気付いた。家中に満ちる、異様な気配に。
違う、ここは最早、十数年住み慣れた我が家ではない。外見はそのままに、本質だけが
そう、両親と同じように。
息を殺し、足音を忍ばせ、一歩ごとに一日寿命が縮むような思いをしながら進む。まさか、自宅の廊下で、こんなことをする羽目になるなんて。
居間のドアから、明かりが
もう、何を見ても驚かないように、自分の心臓に言い聞かせてから、僕はそっとドアの隙間から、部屋を
思った通り、両親がいた。居間のテーブルに、向かい合わせで座っている。そして、あの囁きを
「行動パターン――想定より複雑――再現は困難――」
その表情を見た瞬間、僕は背中に冷たいものが走るのを感じた。
ガラスのような空ろな目で、眉一つ動かさずに、口だけをぱくぱくと開け閉めしているのだ。まるで、腹話術の人形のように。
テーブルの上には、何に使う物か、銀色に輝く、円筒形の機械が置かれている。あんな物、家にあっただろうか。
「(ザー)――君らも大変だな――(ザザ)――そんな物、被らされて――」
そこからも、ノイズ雑じりの囁きが聞こえる。通信機か何かだろうか。両親はあれと話しているのか。あの声、どこかで聞いた覚えが……しかし、僕が思い出す前に、会話は終わってしまう。
両親が、テーブルから立ち上がる。居間を出る気か。慌てて、隠れようとした、その時。
ふいに、両親の体が、がくがくと
そして――めり――。
何の音なのか、僕は一瞬分からなかった。無理もなかろう。そんな音、日常生活では、まず聞く機会はない。
人の顔に、切れ目が入る音なんて。
頭頂部から
僕が呆然と見つめる中、両親は自分の両耳を掴み、引き千切らんばかりに引っ張り。
めりめりめり。
自分の頭を、左右に裂いていく。まるで、バナナの皮でも
そんな馬鹿な、そんな馬鹿な、子供が嫌々をするように、僕はひたすら首を振り続ける。ここに来たことを、心底後悔していた。恐ろしいのに、恐ろしさのあまり、目を逸らせない。
なす術もなく、僕は目の当たりにしてしまった。
両親の、頭の中に詰まっていたものを。
それは、無数の突起を蠢かせる、卵型の何かであった。突起は絶えず色を変えながら発光し、居間を地獄さながらの色合いに照らし出す。
僕はようやく、全てを悟った。“人が変わったかのようだ”。その例えは、例えでも何でもなかった。
文字通り、全く別の存在が、両親に成り済ましていたのだ。
それでは、本物の両親は、どこへ行ったのか。まさか――恐ろしい想像に身を震わせた、その時。
みしり。床が、大きな
一瞬とも永遠ともつかない間をおいて。
ずるずるずるっ。まるで、
卵型の部分――頭部? 断言はできない――の下に繋がっていたのは、甲殻類のような体だった。表面は
今まで僕が両親だと思っていたものは、その足元にぐにゃりと広がっている。この怪物の手になる物なのか。何と忌まわしくも、素晴らしい技術だろう。
かしゃり、かしゃり、怪物はそれを踏みつけながら、ゆっくりと、しかし迷いのない歩みで、ドアに近付いてくる。逃げなきゃ、逃げなきゃ、頭の中で、けたたましく警報が鳴り響いている。しかし、裏腹に僕の足は、ぴくりとも動かない。
怪物は、もう、すぐ側まで来ている。ドアの隙間から、目も口もない顔が覗く。無数の突起が、激しく明滅している。なぜか、僕には分かった。あの光が、奴らの言語なのだと。いや、それどころか、意味まで分かる。そいつは、こう言っている――。
強制終了。
ぶつん。
糸の切れた操り人形のように、早瀬稔の体が崩れ落ちる。
開いたままの目は、自分を見下ろす怪物の姿を、ただただ空ろに映している。
「(ザザッ)やれやれ、擬似頭脳を使っておいて、正解だったな」
ノイズ混じりの声の主は、テーブルに置かれた銀色の円筒だった。どうやら、この状況が見えているらしい。声からすれば、若い男性のようだが――。
怪物が円筒の方を振り返る。あたかも、指示を仰ぐように。
「君らも、まだまだだな――(ザー)――擬似頭脳にさえ見破られるようじゃ――(ザザー)――本物の人間を
円筒の対等な物言いに対して、怪物は頭の突起を明滅させる。それで、円筒には通じるらしい。
「次は失敗しないって? フフ、その意気だ――(ザッ)――じゃあ、早速、トレーニング再開といこうか――(ザザッ)――おっと、その前に、メモリーは初期化しておかないとな」
稔の開いたままの目によく映るように、怪物が頭を突き出す。一際複雑なパターンで突起を輝かせると。
めり。
稔の顔に、切れ目が走った。
そう、彼の“両親”と、そっくりに。
めりめりめり。怪物の鋏が、両耳を引っ張って、稔の頭を左右に裂いていく。その無遠慮な仕草に、円筒がノイズ混じりの苦笑を漏らす。
「おいおい、もっと丁寧に扱ってくれよ――(ザー)――元は、僕の肉体だったんだから――」
“稔”は、ついに気付かなかった。
円筒の発するノイズ混じりの声が、自分のそれであることに。
ごろり。稔の頭の中から、金属製の球体が転がり出る。表面には複雑な回路が張り巡らされ、何十本ものコードで体と接続されている。
こんな物が入っていたのでは、本来そこにあるべき脳髄は、当然、収まるスペースなどあるはずもなく――。
*
<次のニュースです。A県C市で、三歳の子供を虐待死させたとして、両親が逮捕されました>
朝っぱらから、陰鬱なニュースが流れている。母さんは僕のカップに牛乳を注ぎながら、大袈裟な口調で言う。
「おお、怖い。家族を殺すなんて、気が知れないわ」
新聞をめくりながら、父さんも相槌を打つ。
「全くだ。うちは幸せで良かったな、稔」
まあ、確かに、あんなのに比べれば、幸せであることは否定しない。
「あら、もうこんな時間。学校に遅れるわよ」
慌てて牛乳を飲み干し、家を飛び出す僕を、両親が「いってらっしゃい」と見送る。
いつもの朝と、何も違わなかった。
これからも、こんな毎日が続くのだろう。
僕は、ちょっとだけ、神様に感謝した。
*
「擬似頭脳、正常に稼動――」
「実験を再開する――」
【参考文献】
ラヴクラフト全集1(創元推理文庫、H・P・ラヴクラフト/著、大西 尹明/訳) より『闇にささやくもの』
ハッピー・マイ・ファミリー 上倉ゆうた @ykamikura
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