「馬の目」

高騎高令

第1話 ホースショー


 2020年東京オリンピックに向けて、メイン会場の新築については、当初の設計コンペテイションで決まった案は、膨大な建設費が計上され、すったもんだの挙句、新たに設計案の募集を行い、先ごろ決定したが、またまた、その設計図には聖火台が組み込まれておらず、当局の無能ぶりを示す結果になった。

 メイン会場はさておき、そのほかの競技施設として予定された施設も、改装或いは増築等予定され、オリンピックの華とも言われる馬術競技場についても、競技の一部を行うため、JRAの世田谷馬事公苑が、前回の東京オリンピックの際にも使用されたが、2020年のオリンピックの際も、競技場として使用することに決まり、大改装が行われる。

 そのため、現在の施設内で毎年ゴールデンウイークの3日間に行われる恒例のホースショーは今年限りになる。オリンピック後どうなるかは未知数だ。

 そんな関係で、ホースショー参加者も、観客も例年以上の賑わいを見せて居た。


 これまで年間を通じて、このホースショー以外、滅多に使われずに、芝の手入れだけは季節季節に、雑草を抜いたり、一面にビニールのカバーを掛けたりして手入れされてきた。

 随分以前には、現在千葉県白井に有る競馬学校が、この馬事公苑に有って、芝馬場を囲いこむようにダートのコースがぐるりと取り巻き、見事に伸びて茂る木立と、白鳥が泳ぐ池や放牧場の囲いなどが包含されている。


 今年のホースショーは晴天に恵まれ、正門から真っ直ぐ厩舎地区へ伸びるメインの通路は、両サイドを塞ぐように、馬具や焼きそば、或いはスブラギ等の屋台店が出て、お祭りの浅草仲見世のように、人人で埋まるようだった。

 通路の左に白く塗られた埒に囲まれたメインアリーナでは、子供たちを対象に体験乗馬の列が伸び、右手の走路では、芝馬場で行われている競技の出場選手らが準備運動に余念が無かった。

 少し強い風が出ていて、準備運動馬場として開放されているダートの走路は、砂埃が巻き上がって、白いカーテンが下りたようにけぶっていた。

 競馬学校が白井へ移った後、走路は競技馬を運んで来た馬運搬車や、選手や関係者の乗用車などの駐車場に利用されていた。


 昭和15年にオープンしたこの馬事公苑は、騎手養成場として、また学生の競技場として使われてきた。先のオリンピックの際に、大幅に改装され、この芝馬場や、バス通りを挟んだ向こうにインドア馬場と外来厩舎が建てられた。


 競技が行われている芝馬場からは、選手の呼び出し、或いはその選手の紹介、選手の走行をアナウンスする声がバックミュージックに乗って、屋台店が並んだ通路の雑踏からの騒音に紛れ乍ら途切れ途切れに響て来る。


 高村浩二は、次に行われる点取り競技に出場するため、芝馬場から放牧の囲いなどがある地区から、走路を横切り警視庁交通部第三方面交通機動隊に所属する騎馬警察厩舎地区を抜け、バスの路線道路を挟んで向こう側にあるインドアアリーナへ向かった。

 インドアアリーナへは、西門を出て街路から行く事も出来るが、競技参加の慣れた者は、厩舎地区を通って、装蹄所と診療所の前から、本来は馬のためのLの字のトンネルを抜けて行った。

 蹄底や靴底に着いた砂や土などが落ちて溜まり、無論日が当たらないので、水はけが悪く、その通路は下がり切った辺りが、いつもジメジメ水溜まりが出来ていた。

 トンネルを抜けると、直ぐ隣の駒沢大学付属高校の石塀に沿って外来厩舎が並んでいる。

 厩舎の手前に2台ほどの馬運車が並んで止められ、インドアアリーナの長く伸びた庇の下の壁際にも何台かの馬運車が止められていた。競技会の何時に変わらない情景だ。

 厩舎地区には殆ど人影も無かった。これも大体いつも変わらない情景だった。

 一つ二つの馬房内で競技を終えて戻り、運動後の手入れをされる馬と一人か二人の世話係が居ても、関わっている作業以外に、傍を人が通っても無関心だ。

 高村は、自分が乗る馬が繋がれている覆い馬場の脇に有る厩舎の方へ足を向けた。

 覆い馬場前の埒馬場内には1頭も人馬は出ていなかった。塀の外の道路を行き交う車の音と、微かに競技場の方から響いてくるラウドスピーカーの声、時々上がる歓声が風に乗って響いてくるだけでひっそりしていた。

 覆い馬場は耐震設計で建てられていないとかで、職員以外使用を禁じているので、尚の事人気も無かった。


 覆い馬場の外壁に沿って、何台かの馬運車が縦横に並んで止められており、中の1台の馬運車はこれから馬を乗せるのか、或いは下すのか、後部のパワーゲートが下ろされ、道板の両サイドに有る滑車が地に着いておらず、少し地面との間に隙間が出来ているのが目についた。直ぐ縦列するように停められたほかの馬運車のヘッド部分に遮られて良く見えなかったが、道板と地面との隙間から黒いブーツの靴底が二つ並んで目に入った。

 「馬鹿な・・・・・・、誰がこんなことを、ブーツがお釈迦じゃないか」思わず口に出すと高村は歩を速めて、二つ並んで道板の下から覗いているブーツの所へ行った。

 走行中や普段はパワーゲートをしっかり閉めているが、車の仕様によって多少異なるが、後ろへ倒れて斜路を作るため、ゲートの板は500キロ前後の馬がその上を歩いて渡るため、鋼鉄等で補強され、馬の蹄が滑らないように、横に桟が何枚も打ってある。

 ゲート板を倒したり、元に戻して後部を塞いだりするには、ボデイの側面後部に内蔵された油圧機で、パワーゲートは緩々と後ろへ倒れて、上着の襟のように折り返しの道板が先に地面に着いて斜路が出来る。

 その道板の下から爪先を上に向けてブーツが覗いているので、高村は膝を着き体を斜めに傾けて斜板の下を覗いた。

 他の馬運車の陰で見えにくかったが、アスファルトの地面は日差しが影を作っていたが、仰向けに人が倒れて、両足の先が踏板の先から突き出しているのが認められた。

 「ジョウ・・・、冗談じゃない・・・・・・・・」高村はパワーゲートの縁に手を掛けて持ち上げようとしたが、とても一人の手では重くて持ち上げられない。

 「おーい誰か居ないか」高村は体を起こすと大声で厩舎の方へ向かって怒鳴った。


 競技会に際しては何時も主催者側で、緊急処置のために、医師か看護師を待機させており、このホースショーのためには、馬事公苑側で嘱託医を待機させており、先ず競技本部へ連絡が行き、芝馬場の観覧席に繋がる貴賓室に居た篠崎苑長の所へ、インドアアリーナでの事故が知らされた。

 それは、最初に見つけた高村が、パワーゲートの下に横たわる身動きしない男性を、死亡していると判断しての事だった。

 最初は斜めに車の後部から、地面に差しかけたゲート板の下に、這い込んで生死を確かめようと思ったが、高村は自分の競技出番が近づいていることで、関わって居られないと判断したからだった。

 高村の怒鳴り声に応えて走って来た、埒馬場に面した厩舎内にいた明星大馬術部の学生が、高村から様子を聞き、直ぐに同じく馬房内で馬の世話をしていた後輩学生の久保田がスマホで競技本部へ連絡した。

 高村は、その二人に後を任せると、自分の出番のため、愛馬のいる覆馬場の裏側にある厩舎へ走って行った。

 

 貴賓室で苑長等と観戦中だった嘱託医の上野は、篠崎苑長から事故の知らせを聞くと、次長の川村と共に、本部棟の端ある診療室へ立ち寄り、医療バッグを取って半ば速足で覆い馬場地区へ急いだ。

 二人が駆け付けた頃には、何人かの選手や関係者が、馬運車の周りを囲むように様子を見に佇んでいた。

 その中の歳を摂った者が「何十年か前、こんな事故があったよ、今みたいに長靴が下から覗いていたなあ」と物知り顔で漏らした。


 川村は、「一寸ごめんよ・・・・・・・・」と現場をのぞき込んでいる何人かの競技関係者に声をかけて、馬運車の後ろへ上野を押し出すように、傍観している男女の肩を押して間をあけさせて、「この車は何処の車あー・・・・・」と、ボデーに書かれた綾瀬ライデイングスクールのロゴを、傍観者の合間から見て取った。

 「済まんが、誰かゲートを揚げてくれないかな」

 川村次長の言葉に、周りを取り囲んでいた者たちの中から、どうやらこのクラブのメンバーらしい若者が、車の後部ボデイ脇にある四角な切込みのカバーを開けて、電動開閉機のスイッチを押した。

 「グイーン」と油切れのような音と共に、パワーゲートは付け根の所から、ピストンに押されるように持ち上がり、その下敷きになって居た人が露わになって来た。

 「ああ、鎌田さんだ」と周囲の何人かが、一斉に、ゲートの下敷きになって、まるでびっくりしたように口を開いたまま、顔をゆがめているのを目にして、その男の名前を叫んだ。

 外の通りを桜新町の方から、けたたましくサイレンを鳴らして救急車がインドアアリーナの正門前に到着した。

 斜路になって居たゲートが、車の後部を塞ぐように上がり切ると、ボデイの両端に取り付けられた丈夫そうな固定金具のフックに留め金を掛けて固定した。

 ゲートが元に戻ったのを確認すると、嘱託医の上野は、倒れている鎌田の傍らに近づき、膝を着くと、鎌田の左顎の下側に左手の人差し指と中指を指しあてて脈拍を確かめ、右手で閉じられた瞼をめくって確かめた。

 次いで、そっと鎌田の頭を持ち上げ首をひねるようにして、後頭部を見えるようにした。 

 丁度、盆の窪の少し上の所に、横に6~7センチほどの血が滲んで固まった傷があるのを認めた。

 インドアアリーナの正門を入って、何台かの馬運車が並んで止められた端に救急車が止められ、白衣の救急隊員らが、車から降りると現場へ近づいて来た。

 「ご苦労様、被害者は、呼吸しておりません、死亡が認められます」と上野は、救急隊員の上司らしき、小太り乍らてきぱきとした感じの隊員に名刺を差し出し、自分が馬事公苑の嘱託医であることを告げた。

 傍から次長の川村も名刺を差し出しながら、「事故だと思いますが」と口を添えた。

 そんなところへパトカーが到着し、二人の警官が腰の警棒を押さえ急ぎ足で近づいて来た。

 

 一通り、救急隊員は鎌田の体を調べ、被害者の死亡を告げた上野の言葉を確認し、二人の警官にも、辺りに聞こえないように、覆い馬場の庇の下に導くと、検視の状況を説明した。

 二人の警官は救急隊員の説明に納得すると、一応、確認するように遺体となった鎌田の様子を見分し、事故の場合、どのようにして鎌田がパワーゲートの下敷きなったのか、事故の原因となるのは何か、鎌田の後頭部の傷と、それほどの出血も見られないことなどを確認し、閉じられたパワーゲートに、事故の原因となるものが無いかと、一通り調べ、補強のための碁盤目のように縦横に格子状の桟が打ってあって、その縦横の桟の、丁度、鎌田の背丈より少し低い位置、後頭部と言ううより、首の辺りになる横桟に僅かに血痕と2~3本の黒い髪の毛がこびりついていた。

 「多分、何かの拍子に、滑ったか躓いたか転んだ時に、此処に後頭部をぶつけたんじゃないのかな」部下らしい若い警官が血痕を指さしながら上司に言った。

 「さあな、ぶつけたのは間違いないが、それがどういう状況でかわからんな、自分からぶつける訳はないし・・・・・・・・・」と語尾を濁して、納得いかない顔をした。

 事故の噂を耳にしたのか、或いは、日常茶飯事にも近い救急車のサイレンが、インドアアリーナの構内へ入ったのを知って、物見高いは世の常、いつの間にか、競技を終えた選手や関係者が、遠巻きに現場を囲んで、口々に被害者の鎌田の事やら、死亡の原因などについて勝手な憶測や、推論などをしゃべりあっていた。


 結局、事故と判断したのか、最初に生死の確認をした上野医師と救急隊員のこの場での判断から、死亡の原因は、後頭部の傷と、馬運車のパワーゲートに残った血痕などから、後頭部強打による、頭蓋骨骨折か陥没かが原因ではないかと、いずれにしても頭を開いてみなければ実際の死亡原因はわからないということで、遺体は救急車に載せられると、桜新町の救急病院へ運ばれて行った。

 

 戸田純一は、16歳になるアイルランド産黒鹿毛の騸馬ブラックフラッシュを駆って、点取り競技を終えて、割り当てられた馬房の有るインドアアリーナ地区の厩舎へ地下道を通って戻って来た。

 四方を壁に囲まれたようなトンネルは、蹄の音が四方の壁に反射して、「かつかつ」と心地よいリズムで耳に響き、インドア地区へ抜ける寸前、頭の上が亡くなり青天井になった途端に、蹄音は広い空間へ拡散して行くように、耳から遠ざかって行った。

 そんな耳に、鎌田を収容した救急車が門を出て、目の前の交差点を突っ切って行くために鳴らしたサイレンが飛び込んで来た。

 事故が有ったと言うのは、待機馬場にも噂のように流れていたが、サイレンの音で、戸田純一は、噂の事故を思い出し、そう言えば、競技へ出るために、インドアアリーナから、今通って来たトンネルへ入る時、何台か停められていた馬運車の辺りから、人が言い争うような高声と、「ガツン,ごつん」と言うような固いものに何かがぶつかる鈍い音を2回耳にしたが、競技への出番が迫って居たので、そのままトンネルをくぐって行ったのだった。

 


 「お疲れさんでした」厩舎に残って居たクラブの従業員黒川から声を掛けられ、戸田は馬から降りると、馬の頭から勒を外し、黒川が差し出した無口を装着して、馬の背中の鞍を下ろした。

 薄い鞍下ゼッケンも外してやると、ゼッケンの形に馬背から腹にかけて汗で濡れて、湯気がぱっと上がって消えた。

 「体、洗いましょうか」黒川は開放感から、ぶるぶるっと大きく身震いするブラックフラッシュの首筋を愛撫してやりながら、ゼッケンと鞍を抱えた戸田に指示を聞いた。

 「そうだな、それより、さっき其処で事故があったんだろう」

 「ええ、綾瀬の鎌田さんが、ゲートの下敷きになったらしいんです。滅多にある事じゃないですね」と肩を竦めた。

 「そうかね、さっき、出て行くときに、あそこで言い合っていたのを耳にしたけどね、乾草がどうとかこうとか、喧嘩でもしたかと思ったが、そうじゃなかったのか、何か聞いてない」

 黒川は、ブラックフラッシュを、覆い馬場の外壁に沿って設けられた杭に繋ぐと、水道栓を開いて、勢いよくゴムホースの先から水をほとばしらせ、馬体にぶつけるように水を掛けた。

 馬は、気持ち良いのか、一~二度体をぶるっと震わすと、辺りに水の飛沫を散らして、黒川のなすが儘に任せた。

 「君、そんなの履いて、踏まれないように気を着けろよ・・・・・・・」戸田は、馬体から流れ落ちる水で、足元は水浸しになるが、黒川が履いている、甲の部分にポコポコ穴をあけた合成ゴム製のクロックスを目にして思わず注意した。

 馬は時として、リラックスして4肢のうちの1肢を踏み変えたりするので、うっかりすると爪先などを踏まれることが有る。

 400から500キロも有る馬の体重、例え4分の一と言っても100キロ以上の重量が有るので、怪我をすることも有る。

 乗馬クラブの従業員として、馬の取り扱いに慣れているのはわかっているが、足元が水に濡れるからと言って、矢張り危険な状態で居ていい訳は無い。慣れているからこそ注意しなければ、戸田は自分でもそんな細かな事にも気を使う方だった。

 「調子はどうだったんですか」戸田の注意に、申し訳なさそうに頷いて、黒川はホースからの水を馬体に掛け乍ら、競技の成績を質問した。自分が扱っている馬の調子は誰でも気になるものだ。

 「うん、上々とまではいかないが、入賞は固いと思う、ジョーカーを2度クリアしてるから1000ポイント以上稼いでるからね」ブラックフラッシュの、濡れた首筋を叩きながら答えた。

 「事故の事、他に何か聞いてないか・・・・・」改めて戸田は黒川に、初めに質問した鎌田の事故について重ねて聞いた。

 「はい、道板に頭をぶつけたらしいと言う事しか・・・・・・・・・」手を休めず黒川は答えた。事故の事はあまり気にしていないようだった。


 

 

 

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