第2話 孤独の育児
思えばあの時は精神的にかなり限界を感じていた。
ミルクをあげても抱っこしても優しく子守唄を歌っても泣き止まない娘をチャイルドシートで車に乗せ、向かったいつものショッピングモール、ゲームコーナー。
一度車を走らせてしまえば娘は割と大人しくなってくれたけれども、再び大音量で泣き喚かれるのが恐ろしくて、私はちょくちょくこの騒がしい空間に足を運ぶようになっていた。
あちこちから聞こえて来る何がしかの効果音や音楽に包まれながら、抱っこ紐で抱いた娘の体を揺らし続ける。
ここならご近所に娘の泣き声を聞かれることもない。隣の家に迷惑をかけてしまうことや、虐待しているわけでもないのに児童相談所に通報されることに怯えなくて済む。
クレーンゲームの中の景品をぼんやりと眺めながら、電話をかけるべきところにかけることもできず、私はただスマホを握りしめていた。
育児はもちろん大変だけれど、みんな大変だと聞くからこんなものだろうと思っていた。大変とはいえ娘は可愛いし、休日は夫もきちんと育児を手伝ってくれる。
ただ、普段話し相手がいないのが辛かった。平日の夫は激務で帰りがいつも遅い。
まだ言葉を話すことができない娘に向かって話しかけ続けるのは、大事なことだと分かっていても疲れるし、正直虚しさを感じてしまうこともある。
メールやLINEでは気休め程度にしかならなかった。実際に誰かと会って話がしたかった。
話し相手を求めて児童館に行ってみるものの、既に仲良くなっているグループで利用している人が多く、そんな中に話しかけて混ぜてもらう勇気もなく、少し娘を遊ばせただけで帰ってしまった。公園も結果は同じだった。働いていて保育園に娘を預けていれば話は違ったのかもしれないが、出産を機に仕事は辞めてしまっていた。
こんなことなら実家にも帰りやすい地元でずっと暮らしていればよかった。でも、そこまでさかのぼって人生を後悔しても仕方がない。そもそもそうしていたら夫とも出会えていない。
幾度となく繰り返してきた半生を振り返る行為。それは不意に背後の両替機から小銭が大量に排出される音で中断された。両替を終えた学生が怪訝な顔をしてこちらを見ている。
「ふぁあ……」
今の音で娘の機嫌も少し悪くなってしまったようだ。あまり長時間ここにいるわけにもいかない。私は意を決して電話をかけることにした。
「もしもし」
「あっ、もしもし、あの、わたし、田賀谷由紀と申しますが、」
「??すいません、ちょっと聞こえにくくて」
「あ、すいません、すいません、少し移動します」
ゲームコーナーにいるということをすっかり忘れていた。慌ててその場から離れ、再度挨拶する。
「失礼いたしました、あの、わたし、田賀谷由紀と申しますが」
「はい」
見知らぬ誰かに話しかけるのは久しぶりなので緊張する。
「児童館の掲示板に貼ってあったチラシを見たんですけど」
「ああ、はい、トライアングルの」
「そう、それです!」
なぜ電話をかけたのか、それが一度相手に通じてさえくれれば後は早かった。次の水曜日の約束を取り付け、電話を切る。娘が電話中に泣き出さないでくれて助かった。
私が電話をかけた先は地域の子育てサークルの連絡先電話番号だった。チラシによるとそこは、乳幼児を持つ母親同士で集まってお遊戯をしたり、子供同士を遊ばせたり、情報交換をするところらしかった。Facebookで遠方の友人が似たようなサークルで子供の手形をとっている写真をシェアしていたのを見たことがある。
それもあって、育児に行き詰まりを感じていた私は、思い切ってそこに連絡してみることにしたのだった。
思えば私は昔から、ある程度同じコミュニティに属している人同士でしか安心して話せないところがあった。部活が同じ、サークルが同じ、部署が同じ……全く何もないところから相手と関係を構築するのが得意ではなかった。
児童館や公園では友達を作りにくかったけれど、ひとたびこういうサークルに飛び込んでしまえば、サークル仲間同士だから話をしやすいと思う。
繰り返しの日常に新しい風を吹き込めることへの期待感、大手を振って人と会話ができることへの喜びに胸を膨らませ、その日は久しぶりにぐっすりと眠ることができた。そんな母親の気持ちが伝わったのか、娘も比較的落ち着いて眠ってくれた夜だった。
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