第4話 写真

 二階に上がったとき。

 大きくなってきていたヴァイオリンの音が消えた。

「ああ……近づいたように思えたのに」

 しかし、音葉は無言だった。

 ふたりは階段を上がってすぐの部屋の扉を開けた。


 誰かの寝室のようだ。

 窓際に机と椅子、ベッド、衣装箪笥がある。一階の寝室とそう変わらない。

 ベッドにはシーツが敷かれていて、すぐにでも寝られるようにしてある。にもかかわらず、机の上には何もなく、衣装箪笥もからっぽだった。

「ここもか」

「見て!」

 ため息を吐いた響に、音葉が叫んだ。

 机の抽斗を開けている、音葉の手。


 そこには小さな箱が入っていた。宝飾品を入れるような、黒い天鵞絨の張られた箱だ。


 音葉が小箱を手に取る。

 彼女の視線に、響は頷いた。

 そっと小箱の蓋を持ち上げると、なかからブローチがあらわれた。

「すごいな」

 思わず言葉が漏れ出るほど、見事な大きさの宝石だ。小箱いっぱいに光っている。

「エメラルドね」

「縁取りは真珠かな」

 しかし、残念ながら真珠のほうは光沢が消えていた。かなりの年月が経っているのだろう。

「でも、こんな高価そうな品を机の抽斗なんかに入れておくなんて、不用心だな」

 呆れて言ったのだが、音葉は返事をしない。なにか思いつめた表情で、ブローチを凝視している。

「どうした?」

「……なにか、思いだしそうな気がするの」

「えっ」

 暫く黙ってブローチを手にしていたが、やがて音葉は首を横に振った。さらさらと、まっすぐな黒髪が揺れて艶めく。

「だめ。思いだせないわ。なにかこう、喉の奥に引っかかっているみたい」

「まあ、仕方ないよ。とりあえず、それを貸して」

「ええ」

 音葉の手からブローチを受け取った響は、素早く金具を開いてピンをだし、音葉のワンピースの襟もとに付けた。レースを傷めないよう、慎重に針を刺す。

 音葉が慌て声で言う。

「だめよ。誰のものかも判らないのに」

 響は平然と答えた。

「抽斗に鍵はかかってなかったろ。玄関の鍵は、きみが開けたんだから、これの権利も きみにある」

「そうかしら?」

「手がかりだ。叱られたら、戻せばいいさ」


 ふたりは隣の部屋に入った。

 ここも同じような間取りの寝室だ。

 そして、何もなかった。

 あと2室、空振りの部屋を探し終わると、次の部屋に向かった。


 その部屋には、ピアノがあった。

「あら!」

 音葉が嬉しそうな声を上げ、ピアノに駆け寄る。

 ピアノの蓋に鍵はかかっていなかった。

 音葉の細い指が鍵盤の上を走る。

 が流れた。

「すてき! ねえ、すこし弾いてもいいかしら」

「弾けるの?」

「そんな気がするの」

 両手を鍵盤の上に置いた音葉は、深く息を吸った。

 そして。

 あわだつ波を見つめるような第一主題。

 モーツァルトのピアノ・ソナタ第15番、ハ長調、K. 545、Allegro。


 軽やかに、涼やかに。

 音の弾ける粒を丁寧に。

 右手と左手が交互に踊る。

 弾き手と似た、可憐な曲だ。


 透明なプリズム。


 不意の移調。

 切なさの同居。

 鈴が転がるようなトリル。

 優しい終音。


 ほう、と響はため息を吐いた。

「……見事だよ」

「ありがとう」

 音葉が はにかむ。


 名残惜しそうに立ち上がり、

「行きましょう。ここにはピアノしかないわ」

「うん」


 次の部屋を開けると、そこは書斎のようだった。

 重厚な机が置かれ、立派な椅子がふんぞり返っている。

 書棚には洋書が並び、机の上にはライトが光っている。

 しかし、誰もいない。

 壁際に細長い金属の棒がたてかけられている。なんだろう。防犯用の武器にも思えない。手に取ってみると、それほど重くはなかった。先が丸く曲がっている。

 使い途の分からないものを もとのように壁に立てかけ、ぎっしりと本が詰まった書棚を一瞥し、部屋の中央の机に近寄る。

「これ……」

 響はふと、机の上に置かれていた写真立てを手に取った。木枠の内側に七宝焼きを組み込み、金で縁取りをした、いかにも高級な写真立てである。

「わ、たし……?」


 そこには、美しいカップルが写っていた。

 すらりとした長身であることがうかがえる、眉目の整った青年と、可憐な美貌の少女。

 どう見ても、音葉にしか見えない。

 しかし、写真の姿はとても古めかしい。

 響は暫く眺めてから、ふと思いついて写真立てを外した。

 そっと裏張りごと持ち上げて、写真を剥がす。慎重すぎるほどの手つきだった。

 写真を裏返す。

 そこには万年筆で こう書かれていた。


 『恭一朗ト許婚 ──1889』


「明治時代……」

「うそっ」

 いまは平成。2016年だ。

「130年近く前じゃないか」

 音葉は押し黙った。

「まあ、きみの先祖かもしれないし」

「……そ、そうね」

 しかし、音葉の顔色は悪い。

 もう一度写真を裏返し、ふたりの姿をまじまじと見る。

 その視線が揺らいだ。

「響くん。これ」

 音葉の指した先に、彼女の襟もとに光るエメラルドと同じブローチがあった。

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