幽月邸へ

第3話 幽月邸

 瀟洒な石造りの洋館は、窓に煌々と明かりを灯していた。

「本当についてる……」

 呆然と見上げる響の手が、鉄柵を握る。ぎいい、と音がして、門が開いた。

 近づいていくと、のびやかで憂いをおびた、清らかな音色が聴こえてきた。

「モーツァルトだわ」

「でも、ピアノがない」

「無伴奏で弾いているのね」


 その曲は、モーツァルトの母がパリで客死した直後に生まれたものだ。

 ピアノとヴァイオリンのためのソナタ、第28番、ホ短調、K. 304(300c)第2楽章、Tempo di menuetto。

 甘い懊悩。

 苦い後悔。

 雅やかな呻吟。

 上品で愛らしい憂鬱。


「すごい……」

「きれいね」


 玄関の扉を開けようとノブをつかむ。

 しかし、扉はびくともしなかった。

「鍵がかかってる」

 呼び鈴らしきボタンを見つけたが、押しても鳴らない。

 仕方なく、扉を叩いた。

「ごめんください!」

 何度か叫ぶ。

 より強く、扉を叩いた。

「誰か! すみません!」

 響の声に応える者はいない。


 そのとき音葉が緩々と動いて、首の鎖をたぐりよせた。

 見えなかったペンダントトップを取りだす。

 それは鍵だった。

 飾りの鍵にしては大きい。


「え? まさか」

 その、まさかだった。

 強ばった顔で、無言で音葉は鍵を鍵穴に差し込む。


 ──がちゃり。


「……開いた……」

 唖然として見守る響の目前で、大きな扉は観音開きに開いた。


 内部からの明かりがもれる。

 磨き抜かれた床に、優雅な彫刻や壺など。美しい彫刻が施されたコンソール台など、高価そうな調度品の数々。天井にはシャンデリアが輝き、階段には緋色の絨毯が敷かれている。いかにも資産家の邸宅だ。


 あいかわらず、ヴァイオリンの音色は続いている。


「すみませーん!!」


 大声で叫んだが、誰の返事もない。

 ヴァイオリンも止まらなかった。

 まるで壊れたレコードが同じフレーズを繰りかえすように、曲もクライマックスを何度も繰りかえしている。


「……誰もいないのかしら」

 不安そうに音葉が呟く。

「でも、きみの持ってた鍵で玄関が開いたんだ。もしかして、本当に引っ越してきたのかも」

「私ひとりで?」

 心細さに満ちた表情。

 その華奢な身体が、小さく震えた。

 響は鼻でため息を吐く。

 ──都市伝説なんて、こんなもんか。

「……とにかく、きみのうちと言ってもいいみたいだから、誰かいないか探そう。ヴァイオリンのひとが、どこかにいるだろうし」


 まずは一階から探していく。


 食堂。

 撞球室。

 図書室。

 小さな寝室がいくつか。

 その、どの部屋の棚も衣装箪笥も、からっぽだった。

 あったのは、台所の食器や調理器具だけだ。


「人の住んでいる気配が感じられないな」

 不気味だ、という言葉を飲みこんで響が言うと、音葉が小さな声で答えた。

「そうね」


 毛足の長い緋色の絨毯を踏んで階段を上り、二階へと向かう。

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