第2話 都市伝説

 ペットボトルの水でも持ってくれば良かった、と響は考えていた。

 これほど長く歩くとは思っていなかったので、用意を怠った。

 ──迂闊だな。

 墓参用の水はあるようだが、どう見ても井戸水のポンプで、とても飲む勇気はない。

「ねえ、響くん」

 音葉が響を横目で見上げてくる。

「なに?」

「どうして、こんな寂しい場所に一人で来たの?」


 一瞬、響の胸がきゅうっと痛んだ。


「……これから行く邸だけど」


 喉の渇きを我慢して語りだす。


「そこは、『幽月邸』って呼ばれてる」

「ゆうづきてい……」

「そう。昔の資産家の別邸みたいなものだったそうだ。今では空き家で、誰もいないはずなんだけど、満月の夜が近づくと邸じゅうに明かりが灯って、綺麗な音楽が鳴り響くんだって」

「満月が近づくと?」

 響は頷き、

「そう。そして、満月の夜に邸の主人に会って、と、って云われてる」

「失ってしまった大切なものを?」

「そう。だから、きみの記憶も取り戻せるかもしれない」


 か細い手を握って顎にあてた音葉が考えこんで、

「響くんは、なにを取り戻したいの?」


「それは……ヴァイオリン」

 隠すようなことでもないので、響は正直に答えた。

「ヴァイオリンを弾くの?」

「うん」


 小さいころ、隣家の綺麗なお姉さんが、見事な腕前でヴァイオリンを弾いていた。彼女の音に憧れ、響は両親に何年も頼んで、やっとのことでヴァイオリンを買ってもらった。

そのヴァイオリンを……。

「なくしてしまったの?」

「まさか! 壊れてしまったんだ」


 一週間前。

 響は音楽室でヴァイオリンを弾いていた。

 所属するオーケストラ部の練習時間は終わっていたが、気になるフレーズの問題点があり、どうしてもこの日のうちに仕上げたかった。

 そして、なんとか弓づかいボウイングを整えて満足したとき。

 いきなり、窓ガラスが割れた。

 そして、野球ボールが飛び込んできたのだ。


 気がついたときには、ヴァイオリンは無惨に割れてしまっていた。


 わざとではない。

 誰も責められなかった。

 しかし、悔しくて悲しくて、一晩じゅう泣いた。


 ヴァイオリンを修理してほしい。


 両親に、当然そう頼んだが、ふたりとも困惑の表情をした。


 ヴァイオリンは高価なものだ。

 ふつうのサラリーマン家庭で、しかも5人兄弟の響の家に、修理費用を捻出する余裕はなかった。

「ごめんな、響」

 響がどれほど頑張ってヴァイオリンに打ち込んでいたかを知っている父は、申し訳なさそうに詫びた。


「それで、ヴァイオリンを取り戻したいのね」

 茶色い瞳が、きらりと一瞬、輝いたように見えた。

「わかったわ。私、協力するわ」

「え?」

「邸の主人を見つけて、願いを叶えてあげればいいんでしょう。ふたりで力を合わせれば、きっと出来るわ」

 ──記憶がないというのに、どうしてこれほど前向きなんだろう。

 響は驚きのまなざしで音葉を見つめる。

 音葉は微笑んで、

「大丈夫よ。私、きっと力になるわ」

右手を差し出した。

 その手を響はおずおずと握る。

 ふたりは握手して、微笑み合った。

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