⑶ 人は生まれながらにして知ることを欲する


    ①

 まさかの夜行動。何を考えているのだか。

 

 ―それと、戦闘装備整えとけよ―

 ・・・まさか、そんなはずは。けれども、それじゃないと納得がいかない。

 とりあえず、装備を整えよう。

 

 装備というのは、私たちが相手にしているインテルガトスとの戦闘用の持ち物で、私は長めの剣一本とちょっとした防具。

 

 「これ、結構重いんだよなぁ」

 そんなことをつぶやきながら、私は装備を整えた。

 そして、夜。

 探偵社横のガレージには、すでに準備万端の零思さんがバイクのエンジンを温めて待っていた。

 「どうかしたのか? 少し遅かったぞ」

 「いえ、久しぶりに身に付けたので」

 零思さんは防具なしだ。身軽そうでうらやましい。

 武器としては、刀一本と服の下に忍ばせてある特殊リボルバー一丁の二つ。

 「まあいい。行くぞ、乗れ」

 私は、バイクの後ろに乗り込む。そうして、依頼者の友人宅まで移動し始めた。

 

    ②

 バイクに乗って移動していると、

 「『こうそくどう』使うぞ!」

 と零思さんが言ってきた。私は、しっかりと零思さんの体にしがみ付いた。

 

 《こうそくどう》というのは、私たちの使っている道路の種類で正式名称は『日本光速道路』といいます。アカシックレコードの中に書いてあった『物体移動』とかいう項目に書いてあった技術が使われているそうです。

 現在、日本に存在する道路としては、『下道』といわれる『一般道』、『旧高速』といわれている『東名高速道路』、そして、『光速』若しくは『光速道』と呼ばれている『日本光速道路』があります。

 光速道では、とてつもない速さで移動しているので、通常は車で利用するのですが私たちは主にバイクを使っています。その為、乗っている人はバイクにしがみ付いていないといけないのです。(私の場合は後ろに乗っているので、運転している零思さんにしがみ付いています。)

 

 移動している間、私は戦いに向けて準備をする。

 零思さんの背中に顔をうずめ、心を落ち着かせる。

 ふと、昔を思い出す。―父親の背中に顔をうずめていた頃。優しい両親に育てられ、何一つ不自由ない幸せな生活を送っていた頃。とても平和で、なにも知らなかった幼い私。けれども、あの日にすべてが砕け散った。

 

 「・・・!」

 

 「・恵理!」

 

 遠くで私を呼ぶ声が聞こえる・・・。

 お父さん?いや、この声は・・・。―

 

 「智恵理!」

 気がつくと零思さんが私を呼んでいた。

 「は、はい! 」

 「寝てんじゃないぞ! もうすぐ着く、注意しとけ!」

 「了解です!」

 心の整理をしていたら、いつの間にか昔のことを思い出していたらしく、気が付けば光速道を降りて輝美さんの言っていた友人宅の近くまで来ていた。

 そろそろ敵陣に入るので、いつ戦闘に入ってもおかしくないように私は警戒を始めた。

 

    ③

 輝美さんの友人の家は、今時珍しい閑静な団地だった。

 夜の団地は外に出ている人はおらず、部屋にも明かりは無かった。まるで、だれも住んでいない古びた建物が解体されるのを待っているかのような静けさだった。

 静かな団地にバイクの音がしていたが、それも止み私と零思さんの声だけが残っていた。

 「静かですね・・・」

 「ああ、怖いくらいだ」

 零思さんは少し笑いながら言うと、依頼人から教えてもらった部屋へと歩き出した。

 「そういえば、零思さん前にここ来たことあるんですか?」

 「ないけど、なんで?」

 「いえ、案内板も見ずによく部屋がわかるなと思って」

 「普通だよ、まず3ケタの番号の場合は最初の数字が『階』を表していて、次の2ケタが『番号』を表しているからな。今回の場合は「三番棟の402」だから、4階の右から2つ目の部屋だ。」

 「いや、それは分かるんですが・・・棟番号聞いてなかったじゃないですか。」

 「あ・・・まぁ、勘?」

 「『勘』って・・・」

 勘という割には、確信が有るかのように歩みを進めてゆく。

 「402・・・ここかな?」

 「あ! 表札の名前・・・ここですね!」

 「やっぱりか」

 「え? やっぱり来たことあるんですか?」

 「いや、兆候があったからそれで分かったんだよ」

 「兆候?」

 「それは、後で話そう。今は・・・」

 「目の前、ですね」

 零思さんは、おもむろに懐から手帳サイズの機械を取り出すと目の前にある玄関の扉に張り付けた。

 「え!? い、いきなりですか!?」

 「だって、わかってるんだもん。ほら、反応もあるでしょ?」

 零思さんはそういうと、私にインテルガトス用探知レーダーのモニターを見せてきた。確かに、反応がここのあたり一帯に薄く反応しており、一番強いと思われる部分が目の前にある。

 「あぁ、これ見ながら歩いてきたんですね」

 「ううん、ちがうよ~。だから、種明かしはお仕事の後」

 「分かりました」

 不機嫌そうに言った私をよそに、零思さんは装置についているボタンをいじり始めた。

 暫くして、

 「・・・う~ん」

 「また何か問題ですか?」

 「いやぁ、反応が薄くてチューニングがねぇ。もう少しだから、まってて・・・ね~」

 「ふざけてませんか?」

 「まあ、そう怒るなって・・・よっと」

 ピーー。

 機械から電子音が聞こえた。

 「ふぃ~、やっと準備できたよ~」

 「結構かかりましたね」

 私は、少し眠い目をこすりながら立ち上がる。

 「それにしても、私たち以外、外に出ていませんね」

 「いいところに気付いたねぇ。それも、今回の研究対象さ」

 「・・・」

 「?・・・どうかしたのか?」

 「ま、言っても無駄でしょうから、言いません」

 「変な奴だなぁ~」

 「零思さんに言われたくありません!」

 「ま、なんでもいいんだけど。戦闘中に注意力が散漫しなければ」

 そう言うと、零思さんは機械に向けて手をかざした。

 「絶対不可侵領域、防壁解放!」

 そう叫ぶと、張り付けた機械を中心に人が十分に通れるほどの穴が開いた。

 しかし、その先にあるのはどこまでも続く長い長い暗い廊下だった。

 

    ④

 廊下の先にはなにもなく、暗闇が広がっているだけだった。いつまでも廊下が無限に続いているようにも思えた。

 零思さんが先頭を切って歩いていく。私も後に続いていく。

 明かりもないのに、私たちの周りはスポットライトが点いているかのごとく足もとや目の前もはっきり見えていた。

 

 どれくらい歩いただろうか、入ってきた入口も、もうすでに深い闇の中に隠れてしまったころ、ふと零思さんが話し始めた。

 「この人は、よっぽど気長な人なんだろうな。しかも、見るからに清潔好き。

 『シンプル・イズ・ベスト』とか言ってそう」

 「確かに、壁は真っ白で床はフローリング。そして、埃ひとつなくてどこまでも一直線に続いていってますもんね。・・・どれくらい歩いてるんですかね」

 「ああ、もうかれこれ体感時間で1時間だね」

 「い、1時間!?」

 「う~ん、これはもうギネスものだね」

 「そんなのんきなこと言ってる場合じゃないでしょ!」

 「まぁまぁ、現実時間じゃぁ0.1秒くらいだよ。年齢にも影響しないんだからさ」

 「そういう問題じゃないですよ。疲れてきましたよ」

 その台詞を言った次の瞬間、目の前に小さな白い光が見えてきた。

 その光は次第に大きくなってきた。

 「かなりのご都合主義だな」

 「れ・・・零思さん」

 私は苦笑しながらも、目の前に見えている光の先に集中する。

 いよいよ、インテルガトスとの対決だ。

 

 

    ⑤

 長い廊下の先は、大きなドーム状の空間だった。

 真っ白な天井。然し、濃淡があるせいか天井があることはすぐに分かった。

 そして、その空間にあるのは大量の箪笥と本棚だった。

 「不幸・・・限界だっけか?」

 零思さんはこの空間を見ていきなり呟いた。

 「な、何の話ですか?」

 私はいつも通りわけがわからなかった。

 「とにかく、右端だ」

 「は、はい」

 私は言われるがままに空間の右端へと進んでいった。後ろに零思さんも続く。さっきとは逆の並び順。

 箪笥と箪笥の間を縫っていくように進んで行くと、壁に当たった。

 「もうちょっと奥かな?」

 そういうと零思さんは私の左側から顔を出しながら遠くを眺めていた。

 「後1300m」

 そういうと、私を後に眺めていた先へずんずん進んでいった。私も大急ぎで後を追う。

 少し歩くと、壁に扉があるのが見えた。白に溶け込む薄い橙色。注意して見ないと分からないぐらいの薄さ。取手もあるけれども、やはり目を凝らさないと全く見えない。

 「さて、問題です」

 「え、い、いきなりなんですか?」

 「なぜ、こんな扉があるのでしょうか」

 「え、なんでって言われても・・・隠し事をしているからですか?」

 「それだったら記憶領域の鍵かかってるところにしまわれるだろ」

 「じゃあ、どうして・・・」

 「正解は・・・」

 そう言いながら、零思さんはドアを開けた。

 「表面上だけしっかりしていようとする考えの持ち主、だから」

 ドアの先には光沢のある黒にドアよりも濃い橙色の層が幾重にも連なっている空間があった。そこにあったのは、今いた白い空間とは違い並べられていたであろう箪笥や本棚はあちこちに散乱していて、壊れているものもあった。

 その先にいたのは・・・。

 「やっと会えたなぁ、下っ端」

 零思さんは空間の先にいる人でもなく、悪魔でもない謎の『もの』に対して言い放った。

 「ギュエアアアアアア!」

 触手のようなものをうねうねと動かしながら、零思さんに答えるかのように触手を挙げ、声を出した。

 あいつこそ、『インテルガトス』

 「智恵理、今日はお前に任せる。自由に倒せ」

 「え、無理ですよ!」

 「もう2年もやってるじゃないか。充分経験積んだだろ」

 「でもぉ~」

 「泣いていたって始まらない。さぁ、やるんだ」

 「はいぃ・・・」

 私は、怖がっている自分をなんとか言い聞かせながら敵の前に立つ。

 自分でも分かるほど、膝が笑っている。

 目の前にすると、やはり怖い。

 「おっ・・・おい!」

 「ギュエエエエ・・・」

 「ひぃ!!」

 思わず一歩引いてしまった。

 それでも勇気を振り絞って敵に剣の切っ先を向ける。

 ちらりと零思さんを見ると、全く別方向を向いて突っ立っている。

 怒りたい感情を抑えて敵に向かって一気に駆け寄る。

 それと同時に剣を振り上げ、一気に飛び上がり上昇する。

 

 この世界『精神空間』では、現実よりも進む時間がそれぞれの世界『個人』で異なり、侵入した人の身体能力を大きく向上させます。

 

 それを利用し、私は敵の頭上よりもはるか上に飛び、一気に剣を振り下げた。

 そして、地面に降りた時には、敵は大きな『声』ともいえない音を出しながら真っ二つになって溶けていった。

 あたりは、オレンジ色の液体があふれては、すぐ蒸発して消えていった。

 「や・・・やったー!」

 私は嬉しくなり、飛び跳ねながら喜んだ。

 初めて、自分の力だけでインテルガトスを倒した。

 「零思さ~ん!ひ・・・一人で倒せましたよ~!!」

 私は、零思さんのほうを振り向いた。然し、零思さんは相も変わらず別方向を向いている。

 おそらく、先ほどと向いている方向は変わっていないだろう。

 「零思さん!どこ向いてるんですか! ちゃんと見てましたか!?」

 私が零思さんに向かって歩き始めた瞬間、

 「動くな」

 と向いている方向に向かって零思さんは銃口を向けながら言った。

 すると、零思さんの向いている方向から声が聞こえてきた。

 「なにしてくれてんだよ~」

 甲高い女性の声が聞こえたかと思うと、暗闇から一人の女性が出てきた。

 オレンジのロングの髪をして、目元にはピエロのような大きい涙の化粧がしてあった。

 「名前、聞かせてもらおうか」

 「あたし? あたしは『ミムベー』。我がレべリオン軍の第陸ろく幹部さ」

 何が起こっているか、一瞬わからなかったがすぐに理解した。

 この女は、あのインテルガトスたちをまとめるボス『幹部』の一人なのだ。

 私が驚いているのをよそに、二人は話を続ける。

 「やはりな」

 「この前、第漆なな幹部をやったのってあんた?」

 「御尤ごもっとも」

 「え! 零思さん、幹部と戦ったことあったんですか!?」

 「ほら、今日? 昨日? どっちだか忘れたが朝帰りだった時のアレだよ」

 私は、昼間に見た連続殺人犯逮捕のニュースを思い出した。

 確かに、前に零思さんは“重役ほど力が強いため、自然と凶悪犯などになってゆく”と言っていた。

 「まさかあいつを簡単に仕留めるなんてね」

 「斬るまえに尋ねる、大将はどこにいる」

 「さあね。でも、私の上司なら居場所は分かるかもよ」

 「知らないのなら聞く必要は無かったな。では、斬られろ」

 零思さんはいつの間にか、銃をホルダーにしまって刀の柄に手をかけていた。

 「ふん、誰が斬られるって?」

 そういうと、ミムベーは腕を横に振った。

 すると、地面から謎の生物と思われるものが出てきた。

 体は丸く大きく堅そうな皮膚で覆われており、太い腕に蟹股に開いた短い脚。首があるのか分からないが顔は細い目に牙の生えた大きな口、耳はウサギほどの長さでありながらギザギザしており、中には傷ついているものもあった。

 一言でいえば、悪魔のほうが似合っているかもしれない。

 「なんだ、使い魔くらいは召喚できるのか」

 「ふん、なめられたもんだね。召喚くらい、私にだってできるよ」

 零思さんの挑発に少し頭にきているのか、むっとした表情で返すミムベー。

 「でも、のんきなこと言ってられるのも、今のうちだよ!」

 そう言うと、腕を振り上げ私たちのことを手で指した。

 その次の瞬間、使い魔たちがこちらに向かってきた。手にはおそらく金属と思われる太い棒。

 「智恵理、ここは下がってろ」

 「い、言われなくても逃げてます!」

 「それならいいや」

 零思さんはそう言うと、刀を鞘ごと腰から抜いた。

 私は、巻き込まれないように少し後ろへ下がった。念のため剣を手に持っておく。

 零思さんは鞘が付いたままの刀を構えると、使い魔たちに向かって走って行った。

 使い魔たちが零思さんに襲い掛かる。

 それに対し、零思さんは鞘に納めたままの刀を振る。

 普通では、戦うことができない状態の刀を振っているのにもかかわらず、零思さんの後ろにある使い魔は、無残にも真っ二つに斬られていた。

 零思さんは使い魔を斬りながら、徐々にミムベーへと近づいてゆく。

 私は危険を承知しながらも、零思さんが心配になり零思さんに近づく。

 近くで見ると分かるが、使い魔の体は綺麗に刀の軌道を描いて斬られており、その傷口はギザギザなどしておらず綺麗な曲線・直線だった。

 それが確認できたかと思うと、使い魔の体はさっきのインテルガトスと同じようにオレンジの液体となってすぐに蒸発していった。

 そうして零思さんのほうを見ると、すでにミムベーの目前まで迫っていた。

 「く・・・くっそぅ!」

 ミムベーは自分の武器であろう短剣を二本取り出すと一気に零思さんに向かっていった。

 零思さんはそれを刀で受け止める。

 いよいよ、一騎打ちだ。

 ミムベーは両手に携えた短剣を器用に使い零思さんに連続的に素早く攻撃を入れる。零思さんはそれを刀で抑えている。

 両者ともに無傷のまま一歩も譲らずにいた。

 切羽詰まった表情で必死に攻撃しているミムベーに対し、笑みの中に少し忌々しそうな表情で余裕に受けている零思さん。零思さんのほうが有利なようだ。

 それがしばらく続いたのち、ミムベーが間合いを遠ざけた。

 そう思うと、零思さんに向かい一気に詰めてきた。

 それに対応するように、零思さんは刀を縦に持ち構えていた。

 「零思さん! 気を付けてください!!」

 そんな私の声もよそに二人の間合いは詰められてゆく。

 ミムベーが零思さんの目の前にまで攻め入った瞬間、零思さんは地面を強く蹴ると、そのままミムベーの真上を通過すると同時に縦に構えた刀をミムベーの真上で突くような仕草をして後ろに降り立った。

 しばしの沈黙。

 誰一人として、動こうとしない。

 しばらくして、ミムベーが口を開いた。

 「き・・・貴様・・・い、一体・・・なに・・を・・・」

 私にはその言葉の意味が分からなかった。

 わかることと言ったら、ミムベーが走っていた体勢を崩さずに、プルプルと震えていることだけだ。

 ミムベーの放った言葉の後に続くかのように、零思さんの刀が動く。

 私の気が付かない間に、刀は少し刃が出ていた。

 零思さんはゆっくりと、まるで堅い革に針を通しているかのように刃をしまっていった。

 その瞬間

 「ぐ・・・がはぁ・・・はぁはぁ・・・うっ!」

 ミムベーから苦しそうな声が聞こえ、口からは血のようなものが吐かれていた。

 「何って・・・『神経〆しんけいじめ』さ」

 そう言って、零思さんは刃を鞘にすべてしまった。

 チンッという鞘に納められた音がしたと同時に、ミムベーは足から床に崩れ落ちていった。

 そして、零思さんがゆっくりと立ち上がり私の方を向いた。

 「お腹空いたなぁ~」

 そして、この一言。

 「・・・お、お腹空いたって!ちょっと! 零思さん!なに呑気(のんき)なこと言ってるんですか!」

 私は零思さんに駆け寄る。

 「だってさ、もう終わったじゃん。もう帰ろー」

 「ちょ、ちょっと! 幹部の一人を倒したんですよ!? 少しは驚くとか、こう・・・もっと何かないんですか! 何かやり残したとか・・・」

 「あー、そういやデータもらってなかったか」

 「ほ、ほら、あったじゃないですか」

 私がそう言ってミムベーのほうを向くと、彼女はピクリとも動かず倒れた状態のままの姿勢でそこにいた。

 零思さんはミムベーに近づくと腰のあたりにあった小さな長方形の箱のようなものを取った。

 零思さんはその先端のほうについていたカバーを取った。

 それはUSBだった。

 「よし、終わった。帰ろう」

 「あ・・・はい!」

 やっと、終わった。

 私たちは最初に通ってきた道を戻り、元の団地の部屋の玄関前に出てきた。

 出てきた扉は閉まると同時に壁との境界がなくなり、元の玄関へと戻って行った。

 出てきた早々そうそう、零思さんはふところからところどころに白い濁りのある透明な棒を出し、口にくわえて火をつけた。

 「はい、お疲れ様」

 零思さんはその火の付いた煙草のようなものをくわえながら私に言った。

 辺りには、ほのかに鼻に来る塩っ辛いにおいが漂っていた。

 「また塩煙えんもくですか! 学之君から塩分控えるようにって言われているじゃないですか!」

 

 塩煙とは、零思さんの塩好きの心が生み出した煙草のような塩の結晶のことです。

 煙草ほどのサイズで、形は円柱。そして、火が付くという何とも不思議な塩です。勿論、塩なのでそのまま舐めることもできますし、火をつけても煙草と違い、出てくるのは塩の香り、燃えカスは焼き塩と環境にも周りの人にも良いものなのですが・・・。

 

 「えー、別にいいじゃーん。高血圧じゃないんだし」

 「でも、近いんでしょ?」

 「だからそれなりに減らしているよ?」

 「ふーん、どうだか」

 

 実は零思さん、定期健診で塩の摂取を控えるように言われたのです。まったくもう、この人は・・・。

 

 「そんなことはいいんだよ、とにかく帰ろう。もう疲れたよ・・・」

 「まあ・・・そうですね。帰りましょうか」

 そんなやり取りをした団地では、いつもの静けさと温かさを取り戻していた。

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