第17話 忠誠心と集団化について #とは #定期 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 

忠誠心と集団化について


忠誠心は人間の美徳と言われるが、一歩間違うと権力者に都合よく従う残虐な権力の手先になる人間を育む事にもなる。


集団化とは何かを考える事により、美徳としての忠誠心と悪徳としての忠誠心の明確な境界を認識する事ができる.


集団に対して集団への忠誠として自己抑制と他人へのやさしさを持つ。そのかわり集団(他人)に対して愛情を掛けてもらい、構ってもらえる権利を持つ、という一般的な考え方がある。


宗教の神に対する罪と愛という考え方では、宗教的な考え方では「失敗」に対する認識が、神に対して隠し通せない絶対のものであり、他人の有無に関わらず償うべきものと考える。


宗教的でない「失敗」の認識の形は、「失敗」を、常に


「他人(集団)に対して自己がどうあるか」


という、人間同士の相対認識において、相対的であやふやで、しかも(他人にばれなければ良い)と考える.


それが「ばれなければ反省しなくても良い」という考え方を生み、自浄能力の無さを生む。


この点で重要な事は、宗教的で在るか否かに関わらず、失敗に対し反省をしない者は、失敗を繰り返す構造を改めず、温存してしまう為、再び同じ過ちを繰り返す可能性が極めて高い、という事である。


 そして失敗は不幸を生む。


 反省とは単なる態度ではなく、実際に失敗した仕組みを構造的に改める、という意味と行動と結果でなくてはならない、そうではない失敗の反省は、単なる心理的表現としての反省であって、それは失敗を繰返さない者に進化するという事ではない。


 反省とは進化の為に無くてはならないものだ。


世界的に、コミュニタリアン(個人はある集団の中の一部の細胞として存在し、個人は全体に尽くし、自らの身分や立場を考えて、全体の秩序を優先して抑制的に考え、全体が上手くいくことによって個人の幸せがある、という主義の人々)の考え方は、権力者と民衆の間に


「お互いの幸福をお互いが支えあい、間違ったときは自ら進んで責任をとる、その代わり民衆は権力者や責任者を無理に追及はしない」


という、


「暗黙のルール」


が機能している間は良好な関係が続く。


つまり、性善説的な考え方だ。


しかし、その考え方は集団を操る権力者にとってとても都合が良く出来ている考え方だ。


なぜなら人々の生活が上手く言っている時は、人々は権力者に逆らう事は無く、人々の生活が上手くいかなくとも、人々は権力者、支配者の暗黙のルールにおいて何らかの行動を取り、人々の生活を良くしてくれると期待して、おとなしくしているからである。


そして人々は一般的に、そういった考え方が集団の秩序を保ち人間関係の仲の良さを生み、集団の関係と団結力を高め、社会の安定と成功を生み出すと考えている。


民衆のこの集団に対する「暗黙のルール」の認識は明らかに間違っている。


これらの考え方は幻想に過ぎない。


なぜなら、集団は自己抑制をする個人を必ず助けるわけではないし、集団内の権力者は個人や民衆をむしろ都合良く使い見捨てる事が出来るからだ。


権力者は都合良く黙っていて、民衆は暗黙の約束を当てにして押し黙ってしまう。


権力者はしかし、民衆に対して正しい行いを行うとは限らない。


「暗黙のルール」が権力者の正しい行動を生み出す訳ではない。


なぜなら暗黙のルールを守らない者に対し、何らの罰則も加えられない以上、権力者は逃げようと思えばいくらでも逃げおおせるからだ。


だから誤魔化し、真実を覆い隠そうとし、逃げ口上をいくつも用意し、証拠隠しに奔走する。


権力者の不正と社会的義務の不履行を追及する、社会的な仕組みが必要なのだ。


それがあって初めて、権力者も正しい行いをしないことのリスクを考え、間違った行いを正そうとする。



しかし、警察は内部監査が弱く腐敗が進行し、司法は裁判官や弁護士の人数が足りず裁判が長期化し、費用が掛かるため殆どの一般の人々が裁判を利用出来ず、新聞などでも被害を取り上げられる事が無ければ、殆どの人々にとっては、何かの被害に巻き込まれても泣き寝入りするしかない。


だから、余計な被害に巻き込まれまいと、チャレンジ精神を失い保守的になり、挑戦的精神の不在と、チャンスを与えずチャンスを潰す世情を生み、余計な物事や余計なサービスを通じて、知らない物事や知らない人々と関わりを持とうとしなくなり、何かの時に備えて貯金をしようと考え、これが社会全体に蔓延して消費不況を生む。


この考え方の曲違いは極めて深刻な問題だ。


この「暗黙のルール」は問題が在り過ぎる。


なぜならこの「暗黙のルール」は、ある特定の支配者と被支配者の間に存在すると思われているだけの思考プログラムであり、人々がこのプログラムにおいて、考える事を止めれば無くなってしまう、存在の不確かな考え方であり、従ってコミュニティー内の個人同士の関係において成り立つものであり、従って世界全体に適用出来ず、自分が他人に愛され構ってもらえるかどうかが、ある特定の民族や国家に自己が属するかどうかという事が重要になり、ある集団に属する者として自分を位置付ける事により、集団同士の対立関係に、個人や被害者が巻き込まれる元となる。


結果として集団同士の対立の壁を作る基となる。


なぜか?


個人の集合体としての集団として、全人類という集団がある。


ところが、個人は自らと他人の助け合いの関係、愛情と相互扶助の関係を構築する範囲を、その思考プログラムの範囲により、あるコミュニティーに限定してしまうことによって、他のコミュニティーの人々とは相互扶助の関係を築かない、助け合わない、対立する、といったことになってしまう。


つまり個人は、その思考の様式として、自らの愛情の届く範囲を、全人類全体ではなく、全人類という母集団の中の一部の人々の集団である


「あるコミュニティーの範囲の中」


に限定し、それ以外の人々を愛さず、助けず、見捨てる。


だから民族、人種差別が起こる。


同じ人間であり、お互いのコミュニティーに属する人々が、共に平和で幸せな生活を望んでいる。


つまり、対立しているコミュニティー同士の両方の人々が、同じ目標をもって生きている。


しかしコミュニティー同士で対立し、戦争をする。


真の問題は何だろう?国家か、民族か、人種か?


それらは単なる区別でしかない、しかし人々はその区別を利用して、対立し、憎しみ合い、殺し合う。


真の問題は、全ての人々が無条件に愛し合う、という約束事が必ずしも世界全体で、明確に確立していない事だ。


「愛情の限定化」こそが、世界の真の問題である。


つまり「人間の思考上において、個人が全ての人々を愛する」という事の、無意識的な暗黙のルールとしてではなく、明確で自意識的な確立が必要なのだ。

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