第15話 心理的過程としての問題無認識主義 #戦争 #平和 #心理学 #哲学 #とは #定期 

心理的過程としての問題無認識主義


子供の頃から能力の高い者は、失敗と謝罪の機会に出会う事が、人生経験の中で少ない。


 だから失敗を認めることに慣れていない。

 だから能力を問われるような局面を嫌う。

 失敗すれば、不得意な失敗と謝罪を認めなくてはならなくなる。

 それは自尊心の否定という、辛い感情を生む。

 

だから、自己の能力を問われるような局面に入る事自体に拒絶的になる。

 自己の能力を問われる局面に入る事自体を拒絶すれば、失敗も謝罪もしなくとも良い、何もしなければ良いのだから。


 そこで、問題の存在自体を認めない、もしくは問題を過小評価する、それにより、

「自分は何もしなくとも良い」

という状況になる事を望むのだ。


 つまり、自分自身のプライドを守る為、自分自身が傷付かない為に、

「自分は何もしなくとも良い」

という判断を下したいが為に、問題解決を怠ろうとする、それにより責任を放棄し、しかし政治家、官僚としての権限と権威と立場は失いたくは無いので、問題を放置する、という心理変化と行動のメカニズムが働くのだ。


 つまり、この様な過程全体が、責任放棄と権力、権威への執着、そして問題放棄の社会的仕組みそのものなのだ。


この様な構造から、人々のニーズに合わない事を平然と行なう、政治家や官僚が出てくる事になる。


 深刻なこの社会構造的病理は、これらの構造より起こっているのだ。


 そしてそれが、官僚という、高い教育費が掛けられる、社会的上部層の人々が勤めやすい職業として成立しやすい以上、税金による資金の徴収は、国民にとっては、何の社会的問題、つまり人々の苦しみを解決しない、社会的上部層による国民からの搾取に他ならなくなり、それが階級対立と不満の蓄積、そして内乱、戦争となっていく。


政治家や官僚は総じて、高い教育費を掛けられる家庭に生まれ育った者がその職に就く傾向が強い、つまり成績優秀者とは、同時に社会的上部階層者に属する物が多くなりやすく、そのような官僚の人生経験自体が、貧困や病気や公害や犯罪や差別といった問題に人生経験として触れた事が少ない事になる。


そのような社会基盤の上で、教育として


「あらかじめ用意された問題に、上手く答える訓練」

ばかりを受け、


「自ら課題を発見し、解決する」


という訓練を受けないまま、成長して大人になり、政治家や官僚になってしまう、という事である。


 そして政治家や官僚は、その親族も含めて、総じて社会的成功者に囲まれる生活を送る、その中で聞き及ぶ様々な社会問題は、社会的成功者の悩みであり、それは比較的に、社会的な供給者側の問題であることが多くなり、政治家や官僚の知識と経験の中に、消費者や被害者や社会的に恵まれない人々の悩みや問題が入り辛い。


 その為、いわゆる事なかれ主義、問題無認識主義的な政治が行なわれる、となってしまうのだ。





国民のニーズに対し、サービスを提供するのは、国民に対する政治家や官僚の義務である。


しかし、税金による収入の保障は、政治家や官僚に錯覚を生じさせる。


サービスを提供するからこそ、その対価として収入がある。


民間企業では成立するこの図式は、政治家や官僚においては成立しない。


国民が政治家や官僚にサービスの提供を求めるのは、それが国民と納税者に対する政治家や官僚の義務だからである。


税金による政府への国民の支払いや、税金による政治家や官僚の収入の保障とは、いわば政治家や官僚のサービスに対する、国民の政治委託料の前払いでしかない。


国民が政治家や官僚に頭を下げて依頼するのは、その政治家や官僚個人への服従を意味するのではなく、その許認可権限への依頼であって、政治家や官僚の個人的性質には全く関係が無い。


しかし、政治家や官僚は、その点で錯覚してしまう。


政治家や官僚が偉いのではない。


国民は認可を求めているだけであって、政治家や官僚を褒め称えているのではない。


 問題無認識主義的な態度を政治家や官僚が取り続けると、次の様な社会問題の進展が起こる。


 政治家も含む、官僚病的官僚とは、社会の問題自体を発見できない為、人々が苦しんでいる問題自体を認識出来ない。


 国民による報告や、マスコミによる問題の報道などがかなりの数に登っても、官僚機構の動きは鈍い、責任を問われる事を恐れて、行動を取る事を恐れる為である。


 その為、問題自体を無視、または過小評価してその解決に取り組もうとせず、問題の進行に対し、何らの対応も取らない。

  ↓

何らの問題への対応を取られない為、問題が更に深刻化すると、官僚はその次に、問題を放置した責任を問われる事を恐れ、責任回避の言動を繰り返し、責任を放棄し、更に問題を放置する。

 ↓

その結果、取り返しの付かない事態に事が進行してしまい、それによってより多くの人々が苦しむ事になるが、そこまで事態が進行し、時間が経過した頃には、問題発生時の責任者の官僚は、人事異動による配置換えになって転任しており、新しい責任者は、前任者の責任だから、と更に問題の先送りを謀ることになるのだ。


 この様なことを繰り返していると、社会全体の問題解決能力自体が無くなってしまう。


 その結果、問題はまるで解決されず、人々は苦しみ続け、その不満がはけ口を求めて、暴力や革命となっていき、社会は内乱から戦争へと至るのである。


 官僚病、事なかれ主義と言われるものの本質とは、


この、

問題無認識主義


であり、この様な態度を取る官僚とは、国民にとっては、政府という強制力のある存在が、力ずくで税金を取っておきながら、何のサービスも提供せず、それどころか国民生活の邪魔をしており、場合によっては国民の敵となってしまっている、という社会環境を生んでしまうという事である。




そして、教育制度において、人々の訓練として、どうしても前例主義者を社会全体で育てる形が生まれる。



政治家や官僚が、問題無認識主義に立つのは、何の人権意識も無く、問題を認識し、人々の苦しみを解決しようという目的意識が欠落しているからだ。


そしてそれは、知識を教えるという作業自体が、大量の前例踏襲型の人格形成を促してしまい、それが必然的に、これらの問題の創出の起点となってしまっている。


 この様な官僚は、国民にとっては、税金泥棒でしかなく、搾取者以外の何者でもない。


 人権意識の無い官僚は、国民の敵となってしまう、そして、国民の敵を、国民の税金によって養ってはならない。


人権意識の無い政治家は、国民の敵となってしまう、そして、国民の敵を、国民の税金によって養ってはならない。


 政治家や官僚は、国民に対し、自分達は、国民の敵ではなく、味方であるという事を、証明し続けなくてはならない。


それが、税金は国民からの搾取ではなく、国民への奉仕の為の費用の徴収であり、国民の富を騙し取ろうとしているのではないという証明なのだ。


 この問題無認識主義を生み出す、連続循環から脱出するには、まず教育カリキュラム自体に、


「人々の苦しみを自ら理解し、自ら問題や課題を発見し、その解決策を考え、実行する」


という項目や授業を追加する事である。


その結果、問題の発見と、解決を生み出す人格に子供が育ち、社会全体が問題解決能力を向上する。


 それが人々の苦しみを解決し、結果として暴力を生み出さず、世界から戦争を生み出さない社会を作り出すのだ。


 そして政治家、官僚は、自分自身の頭の中にある情報や判断が、常に社会的強者の情報になりやすく、その為政策判断も、社会的弱者の立場の考え方を見落としがちになりやすい、という職業的特性に、十分配慮しつつ仕事を行なう必要が在る。


 官僚主義、事なかれ主義、といったこれらの事象の本質は、問題無認識主義である、と言える。


 官僚主義、事なかれ主義といった用語は、具体的イメージとして伝わりにくいが、問題無認識主義だ、という指摘は、イメージとして解りやすい。


 問題を認識すれば、解決の為のアイデアが生まれる機会が生まれ、新しいアイデアが、問題を解決する、その繰り返しが、全人類全体の進化を生み出す。


 問題無認識主義は、問題自体の認識を拒絶する為、新しいアイデアが生まれる機会を潰す、それは全人類全体の進化の機会を潰す事である。


 問題無認識主義は、全人類にとって退化に他ならない。


 官僚的な事なかれ主義とは、問題無認識主義の事であり、それは怠慢の極みであって、そのような政治家や官僚を、税金をもって養ってはならないのである。




これは教育制度がはまり込んでいる一種の罠のような物である。

人々は優秀な人材を育てようと教育を行うが、それは同時に

「前例主義者、常識主義者」

を育て上げる仕組みとも成っている。

その為、常識や前例に適合しない新たなトラブル自体の認識と解決の意志を持とうとしない人々を大量生産する仕組みともなっている。


これが、苦しんでいる人々の問題を

「前例ではなく常識でもないから相手にしない」

という態度を平然ととる人々の大量生産に結びついているのだ。

それは苦しんでいる人々にとっては、前例主義者と常識論自体が巨大な社会の壁として出現することを意味する。

それは前例と常識では解決しない苦しみを持つ人々にとっては、常識論と前例主義の展開自体が、自分の人生の苦しみが解決しない、苦しみの永続化の社会構造となって表れてくることを意味する。


それが暴力的反発、内乱やクーデター、戦争へとなっていく。


教育制度は優秀な人々を育てるべきものであるはずだし、また教育者自身もそういう「前例ではなく常識でもないから相手にしない」という態度を平然ととる生徒を育てようとしている訳でもないだろうが、しかし記憶と反復能力の総量のチェックとしての試験制度による人間の選別とは、そのような前例主義者と常識論の決定的な無慈悲さと残酷さを社会全体、そして個人の人格育成という点で強固にしてしまうのだ。


人類全体が、この様な人格育成上の

「教育の構造的罠」

に気付き、新たな問題に即時に対処、対応する意志と能力を持つ人々の育成を図らなければ、戦争を生み出す歴史の循環から人類全体を開放することは困難なのである。

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