第13話 理不尽な常識について #戦争 #平和 #心理学 #哲学 #とは #定期

嘲笑主義の問題


他者への差別や侮蔑の基準によって、他人を罵る事は、その基準によって、人間を認識するという事であって、他人を嘲笑する人間は、それと同じ基準によって、同じ人間である自らを見る事に成る。


人間が人間を認識し判断する過程において、ある価値基準を持つ場合、人はその基準によって、他人のみならず、自らもまた同じ基準で判断する。


 従って、他人を苦しめる基準において、人を判断する人は、同じように人を苦しめる基準で、自らも見る事になる。


 他人を苦しめる基準を心に持つ人は、単に、他人に自らが苦しめられた時、直接的に苦しめられる事による苦しみを持つことになるだけでなく、他人を苦しめる心の基準で、自らも見ることにより、直接的な苦しみと共に、心の基準に達していない、という


「二重の苦しみ」


を生み出す構造を、自分の心の中に組み立ててしまうのである。


 他人を苦しめる心の基準を、自分に持たないならば、他人に苦しめられる事があっても、他人を苦しめる基準で自らを見ることによって、二重の苦しみを自らの心の中に生み出すことは無い。


 自らを苦しめたくは無いのならば、他人を苦しめる基準を、自らの心の中に持ってはならない。


 他人を罵ったり蔑んだりする事を、喜んで行う者は、その価値基準で、自らも見る事により、自らを苦しめる事になるのである。


 自らを苦しめたくないのならば、他人を苦しめ、蔑んだり罵ったりする事、その様な心の基準を持つ事を、止めなくてはならないのである。




理不尽な常識について


理不尽さへの強制を子供に強いる事は、子供に理不尽さへの順応能力を競う教育環境を生み、現状打破の創意工夫の機会と経験を奪い、創造力を高める能力の育成を阻害する。


理不尽さへの強制を、


「社会の常識」


の名の下に、単に子供達のみならず、全ての人々に社会全体で強制する事は、社会全体もまた同様に、現状打破の創意工夫の機会と経験を奪い、創造力を高める能力の向上を、阻害するような社会になる事を意味する。



そのような教育から生まれる人間性が、生み出す社会の在り様が行き着く先は、人間性から創造力と発展性を抜き取った、無意味な愚かな社会規範にも順応する、何の発展性も無く、創意工夫を拒絶し、従って冷笑的且つ冷淡的で、努力を軽視し前例主義と官僚的な問題無認識主義に立つ、腐敗し続ける社会となる。


その様な社会においては、責任を持つべき者が全く何もせず、その問題解決の先送りの行き着く先が、社会的弱者にしわ寄せを生み、弱者が反発の表れとして、暴力に傾き、内乱から戦争へと至る歴史の戦争過程が生まれる。


 常識的であるかどうか、という認識の方法は、実際には有効性を持たない。


 なぜなら、どんな社会規範であれ、それらが


「人間の欲望に合うか否か」


を問い続けるのが、人間の構造であって、欲望に対し適格性を持たない社会規範は、それがどんなものであれ、常識的で在るか否かに関わらず、歴史の進展と共に消えていく。


 人々は、例えそれが常識的社会規範であっても、理不尽で、欲望に合わないと判断すれば、関心を失い、誰もが気にも留めなくなり、いつの間にか消えてしまう。


 そのような歴史の進展の中に、戦争を生み出さない為には、全人類の苦しみを解決しない、むしろ増してしまうような社会規範には慎重に対処する事である。


どんなものであれ、社会規範には、その規範が成立した歴史の過程というものがある。


 それは尊重しつつ、全人類全ての苦しみを解決するようにする事が、結局は全人類の為になり、戦争を生み出さなくするコツなのだ。






常識論の限界


 殆どの人々が、


「常識的感覚」

という、生まれついた環境や経験の中で、自然に身に付いた感覚を人生の指針として生きている。


それは当然の事かもしれない。


しかし、そこには無意識的な、次の様な問題を含んでいる。


常識とは、過去の様々な歴史を通じて、数多くの人々の成功と失敗の集積として生まれた文化的蓄積であり、それは、過去の成功と失敗の経験則の総和である、と言える。


現代の様に、技術革新による時代の変化がとても早く、過去の成功体験が、すぐに陳腐化し、その後、むしろ失敗の方法論に転化する事も、珍しくない時代においては、過去の成功の経験則といえる常識的感覚に基づく判断と行動は、失敗を生む考え方にもなりやすい。


何より、常識論という、過去の成功例の範囲で救われなかった人々にとって、常識的判断によって行なわれる政治や企業行動、そして人々の判断と行動は、その全てが、自分達を救わない、


「常識的感覚」


という範囲からの巨大な排除の壁であり、自分達を救わない「常識」によって、自分達を世界と社会と集団から排除しようとしている様に見える、という事だ。


常識によって救われない人々にとって、常識とは、残酷な切捨てと排除の為の、巨大な暴力的壁に他ならない。


それは、全世界という人々の母集団の中に、巨大な亀裂を生む元になっている。



つまり、常識論自体が、時には、


「愛情の限定化」


を生み出し、「自分達」という集団から排除する者とされる者という対立を生み、排除の具体的方法として暴力を必要とするようになり、支配者層と被支配者層、階級対立、内乱そして戦争と至ってしまう思考過程を生んでしまう。


「他者排除型の論理体系」

はこの様に構築される。


 暴力の必要性の創出は、結果として全人類の滅亡へと、全人類を導く。


漠然とした、不明確な常識感を当然の事とする人々は、これらの事を真剣に考えなければならない。


排除の論理が構築されれば、排除されまいとする人々は、その排除に抵抗を試みる。


それが、場合によっては、暴力を生み、対立の拡大は、遂には戦争となるからである。


必要な事は、どの行動と結果が常識的であるか、という判断ではなく、どの行動と結果が、全人類の全ての苦しみを解決するか、という事の明確かつ具体的な行動と結果である。


そしてその目標を実現する為の、アイデアと、解決策と、実現する能力と、環境と、その為の人々の集団である。


全ての人々の苦しみの解決を目標とする時、全ての常識論もまた、より良く人々の苦しみを解決する為の、方法論の選択肢の一つに過ぎなくなる。


常識が正しいか、間違っているか、と考える前に、これらの事を考えてみることは、実に有意義だ。


その時には、自己の意見を常識的で在るか否か、という論争によって、不毛な人間関係の対立を生むことは無くなり、どういった事が、具体的に、人々の全ての苦しみを解決していくのか、という具体的検証を伴う建設的論争になる。


(筆者は、いわゆる反抗期や、反社会的人格と呼ばれている物事の理由のある程度は、こういった構造に基づくものだろうと考えている。)

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