第11話 嘲笑主義の問題 自律制御自己完結型の論理 #とは #定期 #心理学 #倫理 #論理 #哲学

嘲笑主義の問題


他者への差別や侮蔑の基準によって、他人を罵る事は、その基準によって、人間を認識するという事であって、他人を嘲笑する人間は、それと同じ基準によって、同じ人間である自らを見る事に成る。


人間が人間を認識し判断する過程において、ある価値基準を持つ場合、人はその基準によって、他人のみならず、自らもまた同じ基準で判断する。


 従って、他人を苦しめる基準において、人を判断する人は、同じように人を苦しめる基準で、自らも見る事になる。


 他人を苦しめる基準を心に持つ人は、単に、他人に自らが苦しめられた時、直接的に苦しめられる事による苦しみを持つことになるだけでなく、他人を苦しめる心の基準で、自らも見ることにより、直接的な苦しみと共に、自らの持つ人としての尊敬と軽蔑の価値基準という想定した基準に達していない、という


「二重の苦しみ」


を生み出す構造を、自分の心の中に組み立ててしまうのである。



 他人を苦しめる心の基準を、自分に持たないならば、他人に苦しめられる事があっても、他人を苦しめる基準で自らを見ることによって、二重の苦しみを自らの心の中に生み出すことは無い。


 自らを苦しめたくは無いのならば、他人を苦しめて自ら喜ぶ基準を、自らの心の中に持ってはならない。


 他人を罵ったり蔑んだりする事を、喜んで行う者は、その価値基準で、自らも見ることにより、自らを苦しめる事になるのである。


  自らを苦しめたくないのならば、他人を苦しめ、蔑んだり罵ったりする事、その様な心の基準を持つ事を、止めなくてはならないのである。


 人が自らにおいて、他人との力関係において、他人からの圧力の結果として、人を苦しめる事を止めるのではなく、人間の思考構造への理解と、自己構造への事実の理解から、自ら進んで、他人を苦しめることを止める事、それが自律制御、自己完結型の論理体系の本質である。









 倫理の根拠をどこに置くのか?という問題


 人類は、その倫理の根拠をどこに置くのか?


 宗教においては、それは神と人間との関係において成り立つものと考える事が多い。


 しかし、ここでは問題がある。


 ある宗教においての倫理が、必ずしも他の宗教に適用される訳では無い、


つまり宗教別の違いが壁となる。


また、無宗教の人間には関係が無い事になる。


 


刑法や社会的規範などによる倫理もある。


しかしここにも問題がある。


それらは文化の差、地域差、環境、民族、国家の違い、などによる違いがある。


また、それらの違いから、


「別の国の倫理は、私の国では関係無い、だから私に


は関係が無い」


といった判断をする人が多く、これらの倫理は、全人類全てに共通する倫理としては通用する事が難しく、従って全ての人が、自らに通用する倫理として、それらの倫理を必ずしも考える訳では無い。


 



このような倫理観の違いは、民族、国家、宗教、地域差などの、様々な差異性によって多様性を生んでおり、それが人々の行動規範の違いから、人々の多様性ある行動を生んでいる。


しかし同時に、これらの様々な壁自体が、人間の取るべき行動規範と、倫理の適用範囲の縮小を生んでしまう。


無宗教で、国籍や地域に属しない人々にとっては、それらの倫理は関係が無い、ということになってしまう。


殆どの人々にとっても、ある倫理は自分たちの倫理ではない、と無視する事になる。


その結果、行動原則として、倫理的行動を取る人々が少ない地域では、倫理的行動規範を人々が守る事によって得られる、治安の安定、犯罪発生の減少、といった機能がその地域、集団に生まれなくなり、人々は生活において様々な困難に直面する事になる。






 殆どの人々が、自分自身の認識を、単に一個人としてだけでなく、自分の属する民族、国家、宗教、地域、環境、仕事などに属する者として、自己を認識する。


 その自己認識の形式による、倫理観の構築もまた、民族、国家、宗教、地域、環境、仕事などによる限定を受けたものになる。


 また、相対的な倫理観や価値観は、その対象とする対象への個人的認識や知識、経験と感情に左右される。


 これは例えば、国家に対し、良くない思い出、感情を持っている人は、国家的な倫理観を嫌う、といった個人的反応など、といった事である。


 自分の民族、国家、宗教、地域、環境、仕事などを好む人々は、それらにある道徳や倫理観を好み、自分の民族、国家、宗教、地域、環境、仕事などを好まない人々は、それらにある道徳や倫理観を嫌い避ける。


 その為、自分の民族、国家、宗教、地域、環境、仕事などを好まない人々は、それらにある道徳や倫理観を嫌い避ける為、道徳や倫理を無視し、犯罪等を起こしやすくなる。


この様に、特定のパターンへの容認と否定という形で人間の個別の行動パターンを定めようとする試みは、そのパターンの定め方がパターンの個別具体性によって分かれるために、全人類全体に適用することが本来的構造として困難なのである。


個人の有り様の思考、行動パターンをパターンそれ自体で規制し、それによって全体の効率的運用を図ろうとする試み自体の限界性に気付いておかなければならない。


自立制御、自己完結型の論理はこれらの点を踏まえ、「人間の構造認識を通して、パターン認識に基づくものではなく、欲望という構造において、どの目標を設定することがもっとも人類の欲望適格範囲の拡大を促し、戦争を行わない存在として人間を存在出来るようにするか」と考えたものである。




民族主義、国家主義といった集団協調主義の構造的問題


民族主義、国家主義といった集団協調主義には「ある特定の範囲内の人同士は助け合うが、それ以外は排除する、そのために暴力を必要とする」と言う問題がある。


なぜ人々は、このような概念的集団性の観念の構築、そしてその概念と自己観念を同化する事で集団化する、という、いわばまわりくどい集団化の方法を取るのだろうか、なぜ単純に集団化しないのだろうか。


一個の人同士の関係論でいうならば、人と人が助け合いの関係を作るときには、純粋な意味での弱肉強食的関係が構築されやすい。


つまり、

「私の能力はこの範囲で出来ることはこのくらいなので、より大きな目標の達成には能力が不足している」

と言うときは、その目標に対し不足している能力を補うために他人の能力を必要とするために、他人の存在を保障する、つまり協力関係を作る。


逆に言うと、能力不足の相手は関わらないし、見捨てる、と言った関係になる。


更に悪化すると、より弱い相手から搾取しようと考える。


これが単純な人間関係の対立図式だ。




すると問題が生じる。


人類の進化と繁栄は技術的進化によるところによるものが大きく、その為には平和的関係の持続性、つまり暴力的対立の低い社会の成立と維持が不可欠である。


ところが、単純な人間関係論では、暴力的な強弱の力の差のほうがより直接的に影響を与えやすい。


ミクロ的な人類の関係論は、マクロ的な人類の生存、進化と繁栄の方法論と対立しやすいと言える。


これが、人類全体の中での自壊的作用としての内乱やクーデター、そして戦争となりやすい根本的な内部対立となるのである。


これはつまり人類の繁栄の方法が、個体としては体力的に他の動物などに対して弱く、集団性を構築し道具を進化し、知能の進化によって行ってきたということにより起こる、内部矛盾なのである。


そこで、人々は国家、民族といった

「ある歴史的時点からのある地理的、特定範囲の人々による集団化と、その集団内の保障関係の構築、及びそれ以外の排除」


という概念範囲を作り、その観念的範囲と自己観念を同化させる形で


「私はあなたと助け合うかどうかは弱肉強食的能力判断から解らない」


という振るい落としの関係とその恐怖からの開放として、


「私はあなたと同じ国家民族の人間であるから、助け合いましょう」


という関係論にすり替えているのである。








つまり、


「私とあなたの弱肉強食」


という関係の直接性を緩和するために


「私と、同じ民族、国家という概念と、あなた」


という、中間的関係性を構築しているのである。


そしてこの「暗黙の了解」としての人間関係が成立していると、人々が思い込むことによって、この関係論が全体として機能している。それが暴力的対立関係を抑制的にし、また同じ民族、国家の人間同士が保障しあう関係ともなっている。


他人に対し、同じ民族、国家の人間らしくあれ、と人々が暴力を持って他人に強制したがるのは、実際には他人が自分の思い通りにならず、時として襲い合う関係にならないようにする為。また他人を自分と同じ概念の共有者として、自分と同じ思考、行動様式の持ち主として相互協調を図りたいと言う欲望の表れなのだ。


つまるところ、ナショナリズムや民族主義の本質的欲求とは、人間の相互保障関係の絶対化への欲求に他ならない。逆に言えば、これらの人々は他人との関係論において、様々な理由で不安で不安定なのである。






しかしこれは同時に


「ある大集団と大集団同士の対立」


という戦争という構造を作り出してしまうという問題があるのである。


つまり、能力不足の者や他の者に対しての負担の極大化は能力上不可能という考え方自体か、心理的に「ある範囲は助けるが、それ以外は無理だから助けない」


という心理的防衛線を張ってしまっており、それが地理的には国境線という形で具現化している。


そしてその範囲内の人々同士は助け合うが、それ以外は助けない、という関係論と構造論が、それ以外の人々を排除するという関係、そしてその為の暴力の必要性を生み出し、それが転じて今度は、その集団内の暴力的能力の高い者と低い者という暴力の序列化を生み、それが、今度は暴力的能力の高い者が集団内でよりよい地位と生活、つまり欲望による適格範囲の拡大をより大きく取れる事に成るので、暴力的能力を持とうと試み、それが暴力の応酬から平和的関係の破壊、そして生活のための道具の進化のための思考と試行の時間と資源の削減を生み、貧困と内乱と戦争の悪循環となる。


問題は、ほとんどの人々はこれらの全体の構造を自意識化しないまま、無意識的に考えていると言うことである。


その為、無意味な殺し合い、そして戦争となるのである。



解りやすく書いてみると、「人を助けようという意志はあるが、能力が無い」という段階と、「他人を助ける意志も目標もなく、また能力は無いが、排除のための暴力的能力は在る」という段階は、違う。


大半の人々は、この思考段階上の違いを自覚しないまま、一律にパターン的に国家や民族の違いを理由に排除しようとするから、その暴力的行動への反応として暴力的悪循環が広がる。


そして、他人に対してある一定の思考パターン、また行動パターンを(それが政治的に右的であろうと、左的であろうと)適用しようと強制しようとすると、暴力の必要性が生じ、その暴力と強制への反発から、暴力の悪循環となる。


人間の思考と欲望の構造において考えるのではなく、一定のパターンに人間性を押し込めようとする試みとその方法論自体に、非常に大きな問題があるのだ。


解りやすくいうと、AさんがBさんに、「お前はこれこれこう考え、こうしろ」と言うと、Bさんはその考え方や方法論の目標や具体性や範囲という構造について考えるのではなく、その強制と暴力自体に反発し、喧嘩になる。これが国家単位になると戦争になっていくというパターンもある。


思考と欲望の構造論とその目標と具体性において考えることと、パターン認識において他人をあるパターンに当てはめようとすることは、似ているようで、違うのだ。







パターン認識において人間を一定のパターンに押し留めようとする固定性への回帰としての強制は、暴力の正当化と事実の故意的無視


(そうしないとパターンという固定性自体の成立要件である理由付け自体が揺らぐ事への恐怖からのもの、この点においてパターン主義者はパターンの成立のために事実自体を無視する態度を取る)


による、問題の事実と構造の正確な認識とその解決方法の策定の不安定化によって失敗の確立をはるかに高めてしまう。






能力が足りないのならば、より多くの人同士で助け合えば良いし、排除される恐怖から開放される為に相互保障関係を「国家、民族」という中間的関係性を概念的に間に挟むことによって、より大集団同士の排除と暴力の関係を行う戦争を生み出すのではなく、より直接的に、無意識的にではなく自意識的に全人類全体の相互保障関係を作り出すことが必要なのだ。


つまり、構造として人間の思考と欲望と能力を捉え、それによって問題を正確に把握し、問題自体を速やかに解決すること、つまり環境及び対象をより欲望に適格化する事が必要なのであって、パターンに合わない者を一律に排除しようと暴力を振るうことではないのである。


それこそが戦争と言う構造を生み出さない人類の思考様式。


人類の集団化の方法論それ自体の進化が必要なのである。


それが、


「全ての人々が、全人類全ての苦しみの解決を目標とする事」


の明確な自意識化と、明確化。


自己規律、自己完結型の論理体系による集団化なのである。

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