第4話 人類の進化に必要な戦争、という考え方について

個人の思考が、自分が助ける対象が、自分及び自分と同じ民族や国家の者にのみ限定される、という現象を取り除く為には、いくつかの問題点の整理が重要である。


1, 個人の思考では、ある対象が、欲望に合うかどうかを考える時に、その対象を獲得できる能力が自己に有るか否か、また環境や周辺状況的に、その対象を自己が獲得できるかどうか(つまり、他人に譲ってもらう、運が良い展開があって手に入れる、などの事が起こる)によって、その対象を獲得したいと考えるかどうか、といった選別が行なわれる。


2, その為、自己の能力、また環境や周辺状況的に、その対象を自己が獲得できるかどうか、といった事によって、他人を助けるかどうかが、制限される事になる。


3, これは、目標を獲得する事に対し、必要とされる能力が、自己及び周辺状況に有ると考えると、足りないと考えた場合、あきらめる、という事を意味する。


4, それは、能力の大小によって、人と人とが助け合う関係が生まれるかどうかが、常に左右されてしまう事を意味する、人と人との助け合い関係が生まれる範囲が、能力的に可能な場合のみという、常に非常に狭い範囲に限定されるので、誰もが、「自分は他人に助けてもらえるだろうか」という不信感を常に抱いてしまい、その不信感が社会に蔓延すると、相互不信の高まりから、人が人と対立しやすくなってしまう。


5, その行き着く先は、社会全体に相互不信の高まりを生み、個人の意思を特定の方向性に従わせようと、暴力的措置による個人意思の抑圧と強制を求めることになっていく。


 


 つまり、目標範囲の必要とする能力に対し、能力が不足していると、目標の達成をあきらめる、という思考順序が人にはあるので、その仕組みが、人が人を助けるか否かという判断に、弱肉強食的選別を生み出してしまう。



 更に次の様な問題もある。


6、 人間は感情の動物である。感情が生まれるには、自己の得て来た学習や経験などによる、判断の基準が大きく関与する。


7、 その為、人が人を助けるかどうか、という事において、「人を助けよう」と考えるか、またその感情、欲求を持つかどうか、といった事が、個々の人々の個人的学習範囲や経験の範囲に限定される。


8、 これは、人間の思考において、感情や欲求を持つ判断基準としての知識や経験が、個々人によって違うので、ある人は、ある人を助けようと考えるが、別の人はそうは考えず、助けない、見捨てる、といった事になる事もある、という事。


9、 その為、全人類全体、という人間の全母集団の中で、ある一部の人々は、ある特定の人々を助けるが、それ以外の人々は助けず、見捨てる、といった関係を作り出してしまう。


 


 人が人を助ける、という事を、個人の意思が考え始めるまでに、その思考の発生の前提条件として、人を助けようという感情が生まれるかどうか、という感情発生の個人的認識能力の条件の範囲、更に、人を助ける能力が、自己及び周辺環境的に有るかどうか、といったことによって、常に左右される。





 それは、人間が互いに助け合おうとする関係が、非常に狭い範囲でしか成立しない事を意味する。


 この構造では、人は人に対し、常に不信感を持つ、という、潜在的な対立関係の構築をしてしまい、不毛な対立が生まれる事を阻む事が出来ない。





人間の思考構造と、感情の発生条件やその構造に無自覚である事、そしてその様な人々の群れ、それは人類社会において、戦争を生み出す土壌である。





 果たして、人が人を助ける、という事が、その様に限られた範囲でしか成立しない物事であって良いものだろうか?


 これまで人々は、この様な思考過程を、当たり前の事として受け入れてきた。





 しかし、冷静に考えれば、人間が永遠に進化し続けるのであるならば、この様な思考の限定性もまた、進化すると考えられる。


 


 ここでは二つの問題点が明確である。


1、 思考過程における、能力範囲による目標範囲の限定化。


2、 思考過程における、感情、思考の発生条件自体による限定化。





 この限定化を解決するには、次の様な考え方によって可能である。


1、 能力が足りない、と自覚したときには、その足りない能力の不足分を、自己以外の他人との助け合いによって、能力の不足を補えばよい、と考える事。自分だけでなく、人を助けようという意志を持つ人とで、協力して事に当たれば良い、と考える。それこそ、人と人との協力関係であり、その協力関係を気付く事こそ、真の意味で、人の集団化の意義である。


2、 人が人を助けよう、という考えが、感情や思考として、自己の中に発生する、という、感情発生後の人助け、という事ではなく、感情発生以前から、人と人とが助け合う、という考え方を持つ事、つまり、感情発生以前からの愛情、


「何よりもまず、人を愛する」


という意志を、全ての人々が持つ事。





その様な人間関係を作り出す構造は、何だろうか?

自立制御、自己完結型の論理は、その為の考え方である。





人類の進化に必要な戦争、という考え方について







戦争によって人類の技術が進歩するから、戦争は人類にとって必要悪だ、とする論調があり、事実戦争の為のテクノロジーの進歩がある。


もし、人類の進化の為に戦争が必要であるなら、人類は自らを簡単に滅ぼしてしまう能力を得て、破滅するまで、戦争技術の進歩を高めてしまい、遂には破滅するだろう。


戦争を必要としない人類の進化、その保障もまた必要だ。





 強制と暴力によって個人の自発性を抑制し、他集団と対立を起こしやすい、


「他者排除型の集団化論理」


は暴力を必要としてしまう。


 暴力の必要性が生まれてしまうと、暴力の技術は進歩し、戦争を生む。


 戦争が生まれない世界を生み出すには、暴力の必要性の存在しない、人類の集団化が必要である。





 ここで注意していただきたいのは、筆者は、民族、国家や政府といった、集団化の方法論に反対している訳ではない、という事だ。


民族別や国家別に人間を認識する事は、単に人間を区別する方法の一つに過ぎず、政府などの行政機関は、社会の利便性の向上の為に必要なものだ。


問題は、どんな集団化の論理であれ、最初は人類の為に作り出されたものであるのに、時間の経過と共にいつの間にか暴力と憎悪の連鎖、そして戦争を生み出すという、悪循環を断つ事だ。






その為には、全く暴力を必要としない、人類の集団化の方法を築き挙げる必要が在るのだ。


それ無くしては、全人類の永遠の平和と繁栄と進化は生まれず、戦争の繰り返しが、やがて全人類の滅亡を生み出す、歴史的過程を終わらせる事が出来ない。





そしてその様な人類の集団化の方法は、民族、国家、政府の違いや、文化の違いを超えていなくてはならない。


 また、個人の自由と自発性を阻むものであってはならない。


 また、人類の進化を停滞させるものであってはならない。




 では、それは何か?







それは、全人類の、お互いに違う何か、によるものではない、全人類全てに共通するものでなくてはならない。





では、全人類共通普遍のものは何か?


それは、人類の思考対象ではなく、人類の思考構造そのものである。


それは、欲望の構造そのものだ。


欲望の対象は、人それぞれに違うものだが、欲望という構造自体は、民族、国家の違いに関わらず、共通である。


 欲望の構造とは、快を求め、苦を否定する、という構造である。


 


 では、欲望の構造において、どういう設定をすればよいのか?




どういう設定が、全ての人に存在する時、人類は、暴力を必要としない、人類の集団化を生み出すのか?


 集団化が生まれるには、その集団化が自己にとっても、他人にとっても、集団にとっても利益になる、と判断される目標の達成が存在するときに生まれる。


 そしてそのような目標の達成が欲しいと考えた時、人は何の強制が無くとも、自ら進んで協力関係を築こうとする。その時、強制の為の暴力は必要とされない。




 では、どの様な目標の設定が良いか? 


 自分と同じ民族、国家、の人は助けるが、それ以外は助けず、見捨てる、といった考え方は、つまり、個人の助けようとする目標範囲が、一部に限定される事が問題なのだから、一部ではなく、全ての人を、目標範囲として、助ける事が良い、と言える。


 ただし、人助けといっても様々に種類があり、漠然とし過ぎている。


 そこで、全ての個人が、全人類全ての幸福を目標とし、共に協力する時に、戦争が終わるのか、と考えてみる。


 確かにそれは間違ってはいないが、幸福という言葉の意味する範囲は非常に広く、また地域差や文化の差によって、ある地域では幸福な事も、別の地域では不幸を意味する、といった文化の差も大きい。


例としては、肉食を禁じている人々もいれば、肉食を好む人もいる。


人々が、自らが幸福である、と判定する基準は、全人類全体を通して見ると、ばらつきがあり、この範囲の違いは、場合によっては対立を生む元となり、全ての個人が、全人類全ての幸福を目標とするという事が、必ずしも、全人類共通普遍を意味する事にはならない。


  幸福という事とは、欲望において、欲望における目標が達成されている状態を意味する。その結果、快が生まれ、苦しみが否定されている状態を幸福と言う。


 では、全ての個人が、全人類全ての快を目標として、求める事、という目標の設定が全人類全ての全ての個人にある時に、暴力を必要としない集団化が生まれるのだろうか?


 確かに人々の快楽を求める欲求は強いが、全世界を見渡せば、快楽を求める為に、より多くの苦しみと不幸を生み出している例はいくつもある。


 麻薬中毒患者による殺人事件などは、その典型例だろう。




 では、全ての個人が、全人類全ての苦しみの否定を目標として、求める事、という目標の設定が全人類全ての全ての個人にある時に、暴力を必要としない集団化が生まれるのだろうか?


 確かに人々は苦しみを否定したいだろうが、単に苦しみを否定したいと言うだけでは、問題のある、手間暇の掛かる事には、関わらない、といった消極性を生み出しかねない。それは人類に、問題点を解決しない消極性と、それによる能力の退化を生み出しかねない。





 では、どの様な目標の設定が良いのか。





 必要な事は、問題を明確に把握し、解決する、という事だ。





 つまり、戦争を生み出す人間の思考の方向性、目標の設定が問題であり、その様な目標を設定する思考構造が問題であって、この問題を解決する事なのだ。





 全ての個人が、全人類全ての苦しみの解決を目標として、求める事、という目標の設定が全人類全ての全ての個人に有る時に、暴力を必要としない集団化が生まれるのだろうか?





 全ての個人が、全人類の全ての苦しみの解決を目標とする時、人々は、その目標が単に自己のみならず、他者にとっての他者、つまり全ての「自分」を含む、全ての人の苦しみの解決を求めている事を理解し、行動する事が理解出来るので、人々は自ら進んで、この目標において行動する事を選ぶ事が出来る。


 全ての個人が、全人類の全ての苦しみの解決を目標とする時、誰もが、全ての人の苦しみを解決しようとするので、誰もがお互いを信頼し、愛し合い、助け合えるようになる。


 全ての個人が、全人類の全ての苦しみの解決を目標とする時、集団の目標と、個人の目標の一致があるので、何の強制と暴力も必要としない、人と人との協力関係と、集団化が生まれる。





全ての個人が、全人類の全ての苦しみの解決を目標とする時、誰もが進んで問題を解決しようとするので、様々な技術の進歩、人類の進化が生まれる。





全ての個人が、全人類の全ての苦しみの解決を目標とする時、必要とされる能力は非常に大きく、様々な新しい能力やアイデアが必要とされる。


人々は問題点の発見と、その解決に積極的になり、様々な問題の解決が、より多くの進化と繁栄を生み出す事になる。



全人類全ての個人が、全人類の全ての苦しみの解決を目標とする事こそ、全人類全てに、暴力を必要としない集団化を生み出す目標の設定であり、その時こそ、戦争停止の定理である、戦争を行なおうとする思考を持つ人間が、一人も存在しなくなるという事を、成り立たせる方法である。





全人類全ての個人が、全人類の全ての苦しみの解決を目標とする事、それこそ、全人類の戦争と破滅の歴史に終止符を打つ方法である。


 


 全人類全ての苦しみの解決を目標とする個人の総合としての全人類世界。


この目標の設定は、全人類全ての個人の人格が、全人類全ての、永遠の平和と、進化と、繁栄を保障する。



全人類全ての苦しみの解決を目標とする個人の総合としての全人類世界。




その時、全人類全ての個人の人格が、全人類全ての、永遠の平和と、進化と、繁栄を保障する時代の始まりとなるだろう。


これこそ、全人類全ての、永遠平和を実現する方法である。

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