第3話 戦争の停止を人類全体の共通構造とする

戦争の停止を人類全体の共通構造とする




世界中の全ての人々の行動プログラムの中から、戦争を起こそうとするプログラムを停止、消去させる為には、戦争を起こす必要性自体を止める事と、戦争を生み出さない人格として人を位置づける事が必要。


 その為には、どういったプログラムを人々の頭の中にインストールすれば良いのだろうか?


 


問題は、明らかに、


「愛情の範囲の個人の思考内での限定化」


である。


 その範囲の限定性自体を拡大する事こそ、問題の真の解決法である。



自律制御、自己完結型の論理体系


 様々な主義、主張、民族、国家、といった人類の集団化の方法論は、元を正せば、人類全体の永遠の繁栄と、進化と、安定の為の方法論に過ぎず、また個人においては、個人の幸福の追求、欲望の達成の為の方法論に過ぎない。


 しかし人々は、これらの方法論を巡って、憎しみ合い、殺し合い、滅ぼしあって来た。


それはむしろ、人類全体の永遠の繁栄と、進化と、安定の為、また個人にとって、個人の幸福の追求、欲望の達成を妨げてしまうという意味で、本末転倒であり、人間の愚かな歴史でもある。


 この愚かな歴史の繰り返しを乗り越え、人類の思考パターンそのものを根本的かつ次元的に昇格し、進化しなくてはならない。


そして戦争を繰り返す歴史そのものに終止符を打たなくてはならないのだ。


 なぜならば、戦争と対立は、その歴史と共に、戦争と殺戮の技術的進化を生み出し、制御不能に陥り、ついには人類自体の破滅を生む事は明らかだからである。





 これ以上の戦争技術の進化は、その技術の行き着く先として、より早く、より多くの人類の消滅を意図する物へと兵器を進化させ、その結果、全人類のみならず、全ての動植物、全ての全遺伝子の消滅を生み出す事だろう。





 それは本末転倒である。


 従って、この矛盾と破滅の連続性を終わらせるには、それらの方法論を作り出す元々の理由である、人類全体の永遠の繁栄と、進化と、安定の為の、また個人においては、個人の幸福の追求、欲望の達成の為に、何をどう考えるべきか、そして行動し、結果を出すべきか、という事の明確化が必要だ。





 それは全ての個人の思考内において、戦争と暴力が、欲望における目標の達成の為に、必要とされなくなる、という事が成立する、という事を意味している。





 そこで、その構造を全ての人の思考内で生み出す為の考え方とは何か、これを明確化してみよう。



   集団化とは何か







人間はなぜ集団化するのだろうか、もし人類が集団化しようとしないのならば、国家や民族にもこだわらず、大規模な集団同士の戦争も起きず、それぞれの人


々がそれぞれに生きて死んでいく、そういった存在として人類は存在している事だろう。


 しかし人類は集団化し、民族や国家別に互いを区別して認識する。


 


 太古の昔より、大自然内の人類は、個体としての能力が、生存を保障する事において、他の生物に比べて、それ程高い訳ではない。 


 肉食獣達の様な筋力は無く、鳥のように空を飛べる訳でも無い。


 自然界を見渡せば、個体の非力さを補う為に、同種同士で集団化し、群れとして成立し、その群れの中で役割分担を行い、作業の効率化を図り、より生存の可能性を高めようとしている生物が数多く存在している。




 人類もまた同じである。


元々人類が群れを作るのは、個体としての能力が非力であるからこそであり、また群れを構成した方が、より大きな目標の達成と成果を挙げることが出来るからである。


人類の集団化の本来の目標、それは、人同士の助け合いによる、欲望における目標の達成の可能性の拡大であり、それは、


「人間同士の助け合いの関係、救い合う関係の構築」


である。


 この点において考えるならば、本来全ての人が、人間同士の助け合いの関係、救い合う関係の構築により、世界は戦争の無い、平和な世界になっているはずだ。


 現実にはそうはなっていない。なぜか?





 他者排除型の論理体系




 集団を構築する利点は、それによって、個体のみでは達成が難しい、様々な目標の達成を可能とする、という事である。


 しかし、その為には、役割と作業を個々に分断し、効率良く行動する事が重要になる。


 もし、ある個体が、集団の目標にそぐわない行動を取った時、集団内の統一した行動は乱れ、結果を生み出そうとする集団行動に支障を来たし、結果を阻害する。


そのような個体の振る舞いを抑制しなければ、集団は、より効率的に結果を追求する事が難しくなる。


 その為、集団内の行動の効率性の追求の為に、個体の行動を、ある一定の方向性へと抑制する為に、暴力を必要とする。


 これは、集団の欲望の目標達成の為に、個々の欲望を抑制する事を意味している。


 それは欲望の目標達成において、集団の目標が、個々の目標と一致しない状況であり、その一致を求める為、暴力による抑制を必要とする、という構造である。 


 その為に、暴力によって個々の欲望の自発性を抑制し、個々を集団の目標に沿う様に抑制する。


 この集団における統治のシステムは、自然発生的なものであるが、しかし問題もまた生み出してしまう。





1、 暴力の必要性を生み出してしまう。


2、 それによる暴力技術の進化を生み出してしまう。


3、 暴力を振るう者と、振るわれる者、という階級構造を生み出し、対立と憎悪の元の構造を生み出してしまう。


暴力を振るわれた者は、暴力を振るった者に怒りと憎悪を持ち、更なる暴力の繰り返し、報復行為を生み出す。それが対立構造を生んでしまう。





 つまり、集団の目標と個人の目標が一致していなければ、そこに暴力の必要性が生まれてしまうのだ。


この事を避けるには、この問題意識を明確に全ての個人が把握した上で、集団の目標範囲と、個人の目標範囲が、常に一致するようにすることにより暴力の必要性が生じる状況を避ける事が必要だ。





 しかし、それは同時に、集団の目標に個人の目標を一致させようとする、個人の自発性を抑圧するものであってはならない。


 それは個人の自由の抑圧であり、人間の多様性の制限となり、人類の進化を阻みかねない。


 集団と個人の目標が一致し、しかもその目標が個人の自発性と自由を抑圧しないもの、人類の進化を促進するもの、そういった目標の明確な設定が、これらの問題の解決に不可欠である。





もう一つの問題は、集団化の範囲の問題である。


集団化それ自体は、自然発生的なものであるが、その理由が、民族や国家である時、問題が生まれる。


1、 民族別、国家別に人同士を区別してしまう。


2、 その為、個人がそれぞれ、自分と同じ民族や国家と同じ人同士は助け合うが、違う民族や国家の人同士とは助け合わない、見捨てる、といった考え方に陥りやすい。


 これは、個人の思考においては、自分が助ける対象が、自分及び自分と同じ民族や国家の者にのみ限定される、という事を意味している。


それは個人の思考内で、愛情の対象範囲が、ある特定の範囲に限定化される事を意味している。


「愛情の限定化」


という現象である。





 この様に、愛情の限定化を起こし、集団の統制と秩序維持の為に暴力を必要とする集団化の論理構造を、


「他者排除型の集団化論理」




「他者排除型の論理体系」




と、この文章中では表現する。

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