幽準の五崩鎧に襲わるるのこと

 父は苦しげなそぶりも見せずに火鉢の前に腰を下ろしている。長兄と次兄は、父を気遣いながらも、幽準に寄り添う怜春の後ろすがたに見とれていた。まだ幼い幽準に容色の美醜はわからなかったが、たしかに、怜春は、帝都にもまれに見るであろう美しい娘だったのである。幽準は、父と長兄次兄、火鉢に背を向けて、泣きはらした顔で蔵の闇を見つめていた。

 再会した父は、喜び合うよりも先に、誰にも告げずに素性の知れぬ兄妹とともに山に入った幽準を、厳しく叱りつけたのである。幽準にもわかってはいたが、家族が無事でいた安堵と、己の心配が理解されぬ悔しさに、あふれる涙を堪えられなかった。

 かばったのは怜春である。家族を案ずる童子が、夜の山でいかに勇敢であったかを父に強く訴えたが、通じなかった。父の叱責が終わって拗ねた幽準が闇を見つめだすと、怜春はとなりに座って、しきりになぐさめてやっているのである。だが、背後で、兄と戒啓を名乗る僧の話には、耳を澄ませていた。

 怜春の兄は、済秋(さいしゅう)と名乗って、兄妹と幽準が要塞を訪ねた理由を語った。己のあごひげを撫でていた戒啓は笑った。己も、いにしえの叡智を求めてこの要塞を訪ねたものである。だが、目覚めた五崩鎧のために、いまは猟師の父子とともに山を下りる道を探している。

 済秋と戒啓が五崩鎧の語らいをはじめた。怜春は、まだ鼻をすする幽準の耳元でささやいた。三月前の冬、師と兄妹のもとへ、要塞の記された古地図を持ってきた男こそ、ほかならぬ戒啓である。いかにして隠し砦のありかを知ったのかさだかではないが、五崩鎧を目覚めさせたのもこの僧であろう。幽準はすする鼻をとめた。では、山を乱した元凶が父と兄を導いているのではないか。

 済秋は木切れで火鉢をかきながら、戒啓に問うた。傷ついた猟師をともないながら五崩鎧に追われ、よくこの隠し砦にたどり着いたものである。なまなかな知恵と勇気ではなしえまい。なにか策でもあったのであろうか。

 戒啓がまた笑った。逃げまどうのに策などあったものではない、むしろこの山を下りる策を考えているところである。若い学問の徒よ、師から授かった叡智のうちに、徘徊する五崩鎧をまた鎮めるすべはないだろうか。

 火鉢をかく木切れを止め、済秋がつぶやいた。動く五崩鎧を止めるすべはふたつある。しかるべき儀式をもって使命を終えさせるか、あるいは、骨格を砕くかである。儀式については、名と使命を与えた際の秘められた様式にのっとらねばならぬ。我ら兄妹はこの隠し砦にその秘法を求めるものである。

 戒啓が首を振った。この隠し砦に逃げるすがたを五崩鎧に見られている。足跡をたどられ、ほどなくこの蔵にいたるであろう。夜闇に沈む要塞で、儀式の秘法を見出す時は残されていまい。いまいちど問うが、俊英なる学問の徒よ、修めた知識のうちに、哀れな五崩鎧を鎮めるすべは、はたしてまことにないだろうか。

 諭すように語る戒啓に、済秋は答えぬまま木切れを火鉢に置いた。堪えかねたのは幽準である。火鉢をはさんで座る僧に向き直り、怜春が止めようとするのもかまわず、指をつきつけた。

 黙れ! 聞けば、その身はこの兄妹に要塞のありかを尋ねたというが、五崩鎧を目覚めさせたのではないのか! 五崩鎧を鎮める秘法を見つけるに、いとまがないというなら、なぜ逃げもせず火鉢を囲んでいられる!

 幽準にしてみれば、父と兄をあざむく僧のたくらみをあばくつもりであった。だが、たちまち、父に叱責され、長兄に口をふさがれた。もがく幽準は怜春から引き離されて、長兄と次兄の間に座らされたのである。

 息子の非礼を父が詫び、戒啓はかすかに笑った。たしかに勇敢な男児であるが、この僧はけして人をおとしいれるものではない。くわえて、もがく幽準に何かを告げようとしたが、棍棒が盾を打ち鳴らす音が蔵の闇に響いて、さえぎられた。


 棍棒が盾を打つ音は蔵の壁に反響し、いくつともしれなかったが、ひとつではない。長兄は父に寄り添い、次兄は幽準を押さえ込まねばならなかった。打ち鳴らされる音は蔵の入り口から近づいてくるようである。怜春はうろたえて、兄と蔵の闇を見ていた。戒啓は、木切れに灯る火を見つめる済秋から、目をそらさなかった。

 やがて、火鉢の揺れる火に照らされ、蔵の闇から二体の五崩鎧がすがたをうかびあがらせた。盾を打ち鳴らす手を止め、蔵の闇に背を向ける済秋のうしろに立ち止まり、曲がった背骨から伸びる長い首をめぐらせている。仮面に開けられた覗き穴の奥からは、ひとみの無い暗い闇が、幽準たちをながめていた。両腕の棍棒と盾は、腕から垂れたまま、振り上げられなかった。

 戒啓がつぶやいた。どうやら、我らは五崩鎧の敵ではないらしい。隠し砦に逃げてくる折には、見つかって、盾を激しく打ち鳴らしながら追われた。だがいま、この僧と猟師の親子三人が襲われぬのは、はたしてなぜであろうか。

 幽準には思い当たるところがあった。要塞に向かう古道で、すでに五崩鎧と遭遇していたが、盾を打ち鳴らすばかりで、幽準と兄妹を打ち砕こうとはしなかったのである。伝えようとしたが、次兄に口をふさがれ、もがくばかりである。

 済秋は火鉢から木切れを一本取って、立ち上がった。旅の僧よ、この蔵で四体の五崩鎧を目覚めさせ、まず襲われたのはその身であろう。いかにして生き延びたのか、また見せてもらおうか。

 言うや、済秋は、脇に座っていた妹の手を取り、怜春が止めるのも聞かず、五崩鎧の背後に回りこんだ。たちまち、五崩鎧の一体が戒啓に向かって棍棒を振り上げた。長兄が父に覆いかぶさり、次兄が幽準を抱きしめてかばった。

 棍棒は、振り下ろされなかった。もう一体の五崩鎧が、棍棒を握る腕を止めていたのである。なおも戒啓を打ち砕こうとする亡骸の胸を、押さえつける五崩鎧が棍棒で殴りつけた。

 重い音が響き、巨大な甲冑が宙を飛んで、蔵の床に倒れた。打ち倒した五崩鎧はすぐに、倒れた亡骸の胸を踏みつけて、甲冑も骨格もなく、棍棒を幾度も振り下ろした。

 戒啓は満足げにうなずいた。我らを襲った五崩鎧もすぐれていたが、この僧が目覚めさせた甲冑にはおよばぬようである。勇敢な童子よ、まずは何から言ってきかせてやろうか。

 叫びもうめきもなく散らばった五崩鎧の残骸を、ことばもなく見ていた幽準に、戒啓が告げたことである。兄妹は、すでに、蔵の闇の奥へと消えていた。


 たしかに、この僧が、隠し砦の五崩鎧を目覚めさせ、山を乱した元凶である。兄妹の残した旅具をあらためながら、戒啓は認めた。だが、要塞のありかは済秋に教えられたという。

 三ヶ月前の冬、兄妹の師を訪ねたが、要塞がどこにあるのかはわからぬという。己が信頼を得ていないためであろう。別の賢人を求めて師の家を去ろうとした折、済秋が話を持ちかけてきた。

 山野に眠る五崩鎧を帝都で売れば一財となろう。要塞の五崩鎧を目覚めさせる紙片四枚を渡そう。いにしえの五崩鎧四体を持ち帰れば、あとはいかようにでもなる。ただし、くれぐれも師に明かしてはならぬ。

 つぶらな瞳と柔和な顔立ちの、まだ年若い身にしては狡猾な打算であった。戒啓は要塞のありかと紙片を授けられ、春を待って山に入った。居並ぶ五崩鎧は見込みより多く、戒啓は己の五崩鎧二体にくわえて、済秋より授かった紙片で五崩鎧を目覚めさせた。

 いずれもあたえた使命は、要塞の探索である。だが、たちまち済秋の五崩鎧に襲われた。己の奴隷を戦わせ、一体を砕かれ、一体を残しながら、要塞から逃げ出した戒啓は、山をさまよう猟師の親子と出会ったのだった。

 すでに、父と長兄次兄は知っていたことである。五崩鎧に見つからずには山を下りられぬとあきらめ、猟師の助力を得るために、戒啓はすべてを明かしていた。

 戒啓は兄妹の旅具をあらため終え、見つけた紙片を懐中に収めた。荷物を見るに、あの兄妹はきわめてすぐれた学徒のようである。五崩鎧を目覚めさせた術はいかにも難解であり、ふたたび眠らせる術を解き明かすいとまはやはりあるまい。

 戒啓と幽準の親子たちは、蔵をはなれ、要塞の一室に逃れていた。ひときれの木切れに灯る火が、部屋に吹く風に揺れていまにも消えそうになりながら、幽準たちの顔をかすかに照らしていた。部屋の外には、戒啓の五崩鎧が戸をくぐれず、たたずんでいる。

 僧よ、はたして、我らはこの山から下りられるのであろうか。長兄がついに問うた。傷ついた父をともない、山野にはあと三体の五崩鎧がさまよっている。この窮状をいかにして脱するのか、知恵はあるのだろうか。

 戒啓はつよくうなづいた。いかにも、我が五崩鎧が、猟師の親子を集落まで導くであろう。この部屋に逃れたのは、残る三体の五崩鎧をあざむくためである。いまごろ、この僧が残した呪術に惑わされていよう。

 猟師の親子には、戒啓もまた五崩鎧をあやつるすべに長けているとしかわからず、うながされるままに一室を出た。僧に導かれて要塞の南門にいたるまでに、回廊や中庭にさまよう五崩鎧を見かけた。いずれも、棍棒を振り上げては空を殴りつけ、盾を打ち鳴らして同胞を呼び合っている。

 すでに雨は降らず、春の夜天は晴れ、星々が輝いていた。暗雲は夜風に流れていくわずかな影が見えるばかりである。何も言えぬ父をかかえた長兄次兄を、戒啓は褒め称えた。猟師の親子よ、この門にいたるまでよく耐え忍んだ。もはや帰路をさまたげるものはあるまい。傷ついた父を抱えて集落まで運ぶよう、我が五崩鎧の使命もあらためよう。

 己の背後に立つ五崩鎧を見上げて、戒啓は命じた。猟師の親子を守り、父を抱えて長兄次兄の後を追い、集落でこの僧を待て。五崩鎧は棍棒と盾を背にかけて、父を腕に抱えた。

 猟師の親子たちは、ついに山を下り、家族の待つ集落に帰るのだと安堵した。戒啓にふかく礼を述べると、長兄次兄が門を通り、父を抱えた五崩鎧がつづいた。幽準も次兄の背を追おうとして、門の下で戒啓を振り返った。僧は、門の向こうに立ち止まって、猟師の親子を見送っている。

 その身は山を下りぬのか。幽準が問うと、戒啓は首を振った。この僧はまだ隠し砦に使命を残している。それを果たさずして、山を下りられぬ。勇敢な童子よ、家族に遅れてしまわぬうちに行くがよい。

 幽準が見れば、父を抱えた五崩鎧の背は、すでに夜闇に消えようとしている。かたわらで、長兄と次兄が手を振っている。幽準は戒啓にわかれを告げ、去ろうとした。

 風を切って何かが飛んでくる音が、幽準に聞こえた。背を向けた要塞からである。戒啓が幽準の名を叫んだ。幽準が門から飛びのいて身を伏せると、投げられた棍棒が門を砕いた。身を起こした幽準が見たのは、崩れ落ちた岩の塊にふさがれた門であった。


 済秋は、いつか一財を成そうと決めていた。五崩鎧の学問を修め、帝都の官吏ともなればやがて得られよう。だが、旅の僧がもたらした古地図と、要塞に眠るであろう五崩鎧が、聡明な学徒の野心をそそのかしたのである。

 いったい、師から授かる使命のままに帝国の四方をたずねても、荒らされた古跡があるばかりである。師もまた、己の師と帝都の賢人からふかく学んでいたが、すでに知られた史跡にあらたな知識がないか、あるいは己の学問がたしかであるかをもとめるばかりで、いにしえの知恵の探求としてはささやかである。

 王朝を二代さかのぼる古い時代に、いかなる外敵にも屈しなかった小国があった。山の民を祖として山脈に城砦を構え、山道の要所に関所をもうけ、どれほど強大な軍勢であろうと無償の通行はゆるさなかった。勇猛にして堅牢な小国は、時の大王より山脈の守護に任ぜられたという。

 税を取りたてた民たちはやがて大いに富み、ついに平野に領地をもとめて山を下った。領土を侵された時の大王は怒り、大軍勢を差し向けて小国を滅ぼしたという。山林は焼かれ城砦は砕かれ、生き残ったものはないと伝わっている。また、小国はたくわえた富ですぐれた五崩鎧をそろえていたというが、見つかることはなかった。

 旅の僧が持っていた古地図には、この小国の要塞が記されていた。聞けば古地図も僧が見つけるまで書庫に眠っていたという。済秋は断じた。五崩鎧は要塞でふたたび使命を与えられるのを待っている。

 五崩鎧を使役する紙片はみずから書いて渡した。己の言うままに僧が五崩鎧を目覚めさせればすべては済む。僧がしたがわぬとも考えられ、済秋は道を急いだのである。だが、僧は済秋の思わくを越えていた。

 五崩鎧をあざむくには、亡骸に秘められた使命をあざむかねばならぬ。また骨格をおなじくする五崩鎧を打倒するには、一兵としてより強大で精細な呪術をかけねばならぬ。戒啓はいずれも済秋を凌駕する、すぐれた五崩鎧の賢人だったのである。

 済秋は五崩鎧たちの鳴らす盾の音を追い、星明かりに照らされる要塞の回廊を歩いていた。片手には妹の手を取り、ちからにまかせて引いている。師から授かる使命を果たすためだといつわったところで、もはや妹は信じなかった。

 要塞にはあらたに八体の五崩鎧が徘徊している。いずれも済秋の命にしたがう奴隷である。ひとたび去った蔵から戒啓たちが逃れた後、済秋はまた戻って、五崩鎧を目覚めさせた。あたえた使命は、敵と見なせる者の抹殺である。

 済秋は、兵が寝起きしていたであろう宿舎の前で立ち止まった。戸をくぐれぬ五崩鎧が四体、宿舎のまわりを徘徊しながら、しきりに盾を打ち鳴らしている。僧が立てこもっているのであろう。

 妹の手を掴んだまま済秋は宿舎に呼びかけた。旅の僧と猟師の親子よ! この身はただ太古の秘法を、利得や害悪のためにもちいられぬことを望むものである! もしこころざしを同じくするなら亡骸どもを退かせよう! いかに!

 戒啓にはあざむきだと知れていよう。猟師の親子を惑わせられればよい。妹が宿舎に向かって叫んだ。騙されてはならぬ! たちまち済秋は妹の顔を殴り、黙らせた。宿舎の暗がりから戒啓が答えた。叡智の徒よ! この僧は死地に臨んで恐れるところはないが、猟師の親子だけは逃せ! 生業のままに過ごし、ただ災禍に遭ったあわれな民である!

 すでに望みを絶っている戒啓を済秋はあざけった。いかにも、猟師の親子は集落に帰るであろう! 案ぜずとも、その身がいにしえの秘法をほしいままにするのを恐れるのみである!

 また宿舎から戒啓が答えた。この身は太古の叡智をうやまい、恐れるものである! 利得のためにわたくしする卑しさはもたぬ! だが、この隠し砦に眠る悪鬼の骨を見るまでは死ねぬ!

 春の夜風が済秋の頬に吹いた。八体の五崩鎧は宿舎のまわりを徘徊し、遠くでは、戒啓の呪術にあざむかれた五崩鎧がまだ盾を打ち鳴らしている。掴んでいる妹の腕にちからはない。済秋は宿舎を囲む五崩鎧に、なにものも襲ってはならぬと命じた。

 やがて戒啓が宿舎の暗がりからあらわれた。かすかな星明かりに、幽準の手を引いているとわかった。妹が呼びかけて、男児は手を振って見せた。ついに妹が己を責めはじめたが、済秋は戒啓に問うた。悪鬼の骨がこの要塞にあるとはまことであろうか?

 戒啓はうなずいた。ある。己が見つけたのは古地図ばかりではない。この隠し砦に悪鬼の骨があると知ればこそ、訪ねたものである。だがもし己の命が奪われれば、悪鬼の骨は時の終わりまで見つかるまい。

 僧身も苦境にあれば、命を惜しむいつわりを吐くと見える。まことである証はいずこにあろう。済秋があざけった。戒啓は、ただ、悪鬼の骨が納められた墓所のありかを告げたことである。聞いてみれば、たしかに、済秋の学んだ知識にも充分にうなずけるところがあった。だが墓所の戸は戒啓でなければ開けぬという。

 すでに要塞の五崩鎧を支配し、山を下りればどれほどの財産になるかもわからぬ。旅の僧も望みを失っていよう。いつわりであると断ずる前にたしかめようとする慢心が、済秋を迷わせた。

 たちまち幽準が戒啓から離れて、要塞の闇へと駆け出し、見えなくなった。済秋は二体の五崩鎧の名を呼び、命じた。童子を追い、棍棒で動かなくなるまで打て。その後、童子のからだを山野に捨てて戻れ。

 歩き出した二体の五崩鎧に、怜春は悲鳴をあげ兄をののしった。兄は戒啓とともに墓所へ向かおうと、己の手を引くばかりである。ちからの限り手を振り払おうとしても、兄はけして放さなかった。


 夜雨に濡れた草を踏みつけ、幽準はわずかな星明かりの下を走っていた。うしろから重い足音が近づいてくる。幽準が向かっていたのは、怜春たちと要塞に入った戸口である。五崩鎧の体躯にはひくく小さい。くぐってさえしまえば追ってこれまい。

 重い足音は己の背に近づきつつありながら、むしろゆるやかである。踏み締める歩幅が広いのであろう。幽準は、闇から襲い掛かるであろう五崩鎧の巨大さに恐怖した。肉を食らう獣がちいさな鼠を狩るのに似て、太古の亡骸はたちどころに己を引き裂くであろう。

 ついに足音が己の背を踏むばかりに迫った。すでに戸口をくぐろうとしていた幽準は前に跳び、本堂の闇へと転げた。荒く削られた石の床が童子の肌を傷つけたが、痛がるいとまはなかった。

 転げたまま幽準が戸口へ顔を向けると、五崩鎧が本堂の中へ長い腕を伸ばし、己の頭を掴もうと目の前で五指を広げていたのである。冷たく乾いた骨が頬に触れ、ついに幽準は悲鳴をあげながら首をよじった。握り締められた五指がふたたび開くより早く、幽準は本堂の闇の奥へと駆け出していた。

 曲がる角は八回あった。もしひとつでも間違えれば、生きて山は下りられまい。幽準は伸ばした手も見えぬ闇を、壁づたいに進んでいた。向かう先は、五崩鎧が安置された蔵である。

 もはや幽準たちも五崩鎧を使役して済秋に立ち向かうほかに、助かるすべはなかった。戒啓は、本堂までの道筋を覚えているという幽準に、五崩鎧をしたがえる紙片をたくしたのである。

 はたして、幽準はただしく角を曲がり、蔵に着いた。鉄格子に触れた幽準は、胸元から蝋燭を取り出して灯すと、わずかに安堵した。あとは五崩鎧に使命をあたえるばかりである。戒啓の呪術と使役する五崩鎧が済秋に勝っているとは、幽準も知っていたのである。

 壁から離れ、冷たい鉄格子をつたい、扉をくぐった。蔵に並べられた台座に近づいて、闇にそびえる五崩鎧のすがたを見上げようと、幽準は蝋燭をかかげた。

 亡骸のすがたは、無かった。怜春とともに五崩鎧を見上げた台座である。済秋が目覚めさせたのであろう。幽準は焦りに駆られながら、隣の台座に蝋燭をかかげた。やはり、台座には何も乗っていなかった。

 幽準は足早に並べられた台座の前で蝋燭をかかげ、五崩鎧のすがたがひとつも無いと認めると、ついに蔵の床に座り込んでしまった。いくつかの台座の脇には、砕けた亡骸と破れた大甲冑が散らばっていた。戒啓たちに使役されるのを恐れた済秋が、己の奴隷どもに砕かせたのであろう。砕けた骨格を組み合わせても、戦える五崩鎧にはならなかった。

 蔵の中に、重い足音が響いた。己を追ってきた五崩鎧であろう。三歩、四歩と近づいてくる足音から逃れようと、幽準は蔵の闇へ首をめぐらせた。だが、わからなかった。先ほどは戒啓に導かれるまま蔵から脱したのである。ひとりとなったいま、四方の闇を見回したところで、わかるはずなどなかった。

 すでに手が恐怖で震え、蝋燭の火が揺れていた。せめて足音から離れようと、左右に並ぶ台座の向こうへ蝋燭をかかげた幽準は、闇にきらめくわずかな輝きを認め、目を細めた。たちまち、なんであるかを思い出し、幽準はきらめきに向かって駆け出した。

 寺社の本尊のように安置され、怜春が引き倒した五崩鎧である。骨格は散らばり甲冑は伏したままである。足音はいよいよ背後に迫り、あと数歩で幽準に棍棒を振り下ろすであろう。

 幽準は倒れた甲冑の背に乗ると、胸元からたたまれた紙片を取り出した。開きもせずに足元に置いた紙片に指で触れ、五崩鎧を動かす呪文を唱えた。授ける名と使命は口から出るにまかせて、もはや叫んでいた。

 無数の罪を至妙の武技でもって晴らさんとする亡骸よ! 汝を罪武(ざいぶ)と名づく! 潔白を証立て己が天命を崩さんがためにこの世の果てをただ待つのみなら、いま! 命をおびやかされるこの身を守れ!

 言い終えぬうちに、幽準は、背後から巨大な手に頭を掴まれた。ついに、追ってくる五崩鎧に捕らえられたのである。己のからだごと頭を宙に掴み上げる指をほどこうとして、蝋燭も落としてしまった。

 暗闇の中で己を引き裂くであろう五崩鎧にあらがい、幽準は身をよじった。腕から逃れようと振ったつま先は、足を伸ばす前に、思いのほか、目の前にあった甲冑を蹴った。

 たちまち頭を掴む指はほどけ、幽準は冷たく硬い床に尻から落ちてしまった。たったいままで立っていた五崩鎧の背中が、無くなっていたのである。

 石床に尻をつく幽準の顔を、頭上にともった蒼白い炎が照らした。見れば、ゆらめく炎は棒のように延びて、端を白骨の五指が掴んでいる。五崩鎧の手が、燃える剣を握っているのである。

 闇に揺らめく炎が、二回、閃いた。剣の斬光である。暗闇に慣れた幽準の瞳に残る斬光が薄れもせぬうちに、重く硬いものが崩れ落ちる音が響いた。蒼白く燃える剣は五崩鎧の手に握られたまま、動きを止めた。

 何が起こったのかわからぬまま動けずにいる幽準が剣を見つめていると、剣先が石床を割って、幽準の足元に突き立てられた。蒼白く燃える刃に照らされて、五崩鎧が屈んできた。罪武である。

 ひとみの無い頭蓋は、幽準を見つめてから、片膝を石床について、こうべをふかく垂れた。暗闇に目が慣れた幽準は、罪武の背後で砕けている五崩鎧を見た。この身を救ったのか。幽準が問うても、太古の傀儡は膝を屈したままである。

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