第1話〈今日という1日が永遠に続きますように〉

「あぢぃ…………」


梅雨も明け、本格的な夏が到来したとある年の、とある木曜日。


雲ひとつ無い晴天で日差しが強く、最も気温が上がる午後2時を回った高校1階、3年生の教室。


もはや汗で濡れ透けになった女子生徒を見てエロいと喜ぶ段階をとっくに過ぎたうだるような暑さの教室で、授業も碌に聞かぬままダれている1人の少年がいた。



「あり得ねぇ……いや、マジで。都会のど真ん中だってのにクーラー壊れてる教室で授業するのは完全に殺しにかかってるでしょ……」



窓際の席で全開にした窓から片腕を出し、ギンギンに照りつける太陽の下でボヤくのは漣 暁人さざなみ あきと


その机のサイズにどう見てもあっていないデカイ図体も、いつものようなどうどうとした雰囲気はそこには無い。あるのは、干からびて死にそうな顔をしたただの干物。



「アキト、授業はちゃんと聞かなきゃダメだよ?」


「いや、だってさ?そこの気温計を見てみましょうよサチコさん。36℃だよ、36℃。頭おかしいでしょ?」


「まぁ確かに暑いけどさ。ボクみたいに授業聞いてれば忘れるって。」


「聞いてる授業はようこちゃんの授業だけじゃんか……」



そんなアキトに話しかけてきたのは隣の席の梢 幸子こずえ さちこ


発言は真面目だが、そういうサチコも午前中の授業は内職をしていた。この授業、いや、この授業を受け持つ担任の先生の下らない雑談目当てに聞いているだけらしいので、残念ながら全くもって説得力が無い。



はぁ、とアキトは軽く溜息をつき、雑談に聞き入るサチコの横顔を何気無しに見つめる。


うだるような暑さの中で、汗だくであっても見る者に全くと言っていいほど不快感を与えないその姿。


むしろ、汗で濡れた肌はしっとりと輝き、艶やかな雰囲気を醸し出す。

ポニーテールをする事によって露出したそのうなじに魅入る男子はアキトだけでは無いだろう。


アキトは3年連続、合計にして十数回の席替えを経て尚連続で隣の席に君臨するサチコを見、再び溜息をついた。




今、3年G組のこの時間の授業を受け持つのは、シワが気になり出すお年頃のオバ……いや、アラフォーの女性教員。年齢に似合わないイチゴのヘアピンをいじっている。



「……はぁ。」



今溜息をついてのはアキトでは無く教師の方。何でお前が溜息をつくんだ、と教師は心の中でアキトに突っ込む。


教師になってから早20年、こんな生徒は見た事が無い。


今窓際でボケェっとしている少年を見、アラフォーはこめかみを抑える。


自身の担当クラスにして、最大の天敵。

その生徒は自分のクラスの担当というだけでなく、私生活においても少しばかり接点がある。


その生徒の態度はあまりにも酷い。


2年と数ヶ月前に入学し、3年生、つまり受験生になってから既に3ヶ月が経とうというのに、授業は全くと言っていいほど聞かず、体は黒板では無く完全に隣の少女の方を向いてしまっている。


普通なら遅めの思春期の少年が幼馴染だという隣の少女を見ている所で微笑ましく思い、少しいじって終わる所だが、この少年だけは違う。


その少年には、とある事情、というか性癖によってそんな普通の思考が及ばないのだ。


おまけに服装も乱れている。

夏だと言うのにわざわざ長袖を着用し、それを捲っている。かっこつけだ。


注意は今までにゆうに100は越え、もはや注意をする気にすらならないが、その少年が大あくびをかまし、隣の少女に何か言われるのを見てとうとう我慢の限界に達する。



「さ・ざ・な・みぃ?」


「へい、呼んだかようこちゃん?」


「ちょっと立てぃ!」



ようこちゃんこと、このクラスの担任とアキトの攻防がいつ始まるのか今か今かと楽しみにしていた生徒達の間でどっと笑いが起きる。



「始まったぞ……」


「これで7回連続だな……」



プンスカ怒るアラフォーようこちゃんに対峙するは明日、即ち7月13日に誕生日を迎える17歳と364日、アキト。


こうして実際にアキトが立つとよく分かるが、教壇の上に立つようこちゃんより教壇の下にいるアキトの方が頭2つ程デカイ。

決してようこちゃんは背の低い方では無いが、それでも女性である。

ましてや、アキトの背は学校1の193センチ。敵うはずも無い。

加えてその体格差により、迫力という意味で顕著な差がでてしまっていた。



「どうしたんだよ、ようこちゃん。今日はまだ何もしてないだろ?」


「授業を聞けといつも言っているだろうがぁ!」


「そんな……酷いよ、ようこちゃん!ようこちゃんの授業を!聞き逃した事なんて!一度も無い!」



ほぅ……と目を細めるようこちゃんに、アキトはまずい事言ったかな?と不安そうな顔になり、サチコはやれやれと言った風に首を振り、クラスは大いにわく。



「では、私の質問に答えられるな?もちろん今日の内容だ。」


「当たり前……だ。」



自信なさげな情けない声にまたもや笑いが起きる。



「では……今日のテーマは何だ?」


「か、神隠し事件と不可解な目撃情報について……。」


「では、その事件は何年前のものだ?」


「…………。」


「ほれ、どうした?言ってみなよ?」


「じゅ……」


「じゅ?」


「12年前?」


「13年前だボケがぁぁぁ!」


「そう、それそれ。」



全く反省の見えないアキトにもはや先生であるどころか女性である事を忘れて牙をむくようこちゃんに、教室は大爆笑の渦である。



いつもながら見ていて飽きることの無い光景にクラスの雰囲気が和む。

ようこちゃんからしてみればたまったものでは無いとは思うが。



「あ!カナタちゃんだ!走ってるよアキト!」


「何⁉︎くそっ!あまりの暑さに今日だけ時間割変更があったのを忘れてた……!今日の国語は体育に変更だった!」



サチコの言葉に身を翻し、ようこちゃんの事なんかすっかり忘れて窓枠に飛びつくとアキト。


若干眉を潜める発言があったような気もするが、触れたら長くなりそうなのでここではスルーしておく事にする。



「あーあ。今日はここまでだな。」


「梢さんもダメだよなぁ。こうなるの分かってるのに。まぁ、そんな天然で巨乳でポニテで、ついでにボクっ娘な美少女もいいけどね!」



勝手に盛り上がるモブはさておき、カナタちゃんとは一体誰なのか。


アキトの視線を辿ると、そこには1人の美少女がいた。



綺麗な汗を煌めかせ、ウェーブがかったショートヘアから飛び出した、チャームポイントのアホ毛がより一層可愛らしさを際立たせる。



「おぉーい!カーナーター!今日も可愛いぞー!」



残念な事に貧乳だけど。


大声でカナタに対し、そんな事をのたまうアキト。その体格に見合った大声に、周りの生徒達は今日も帰りのホームルームが長引くであろう事を確信する。



「お、お兄ちゃん⁉︎次大声出したら土下座だって言ったでしょう⁉︎」



何を隠そう、この美少女はアキトの妹、漣 彼方さざなみ かなた15歳。


品性良し、頭良し、運動神経良し。


兄妹の共通点は運動神経だけだ。残念な事に。



ようこちゃんもカナタを認めてはいるが、ようこちゃんにとって不幸だったのはこの教室の位置だったであろう。アキトの教室は校舎1階の校庭側。


つまり、校庭での体育の授業が丸見えなのだ。


カナタのクラスの校庭での授業があるたび毎度毎度こうなってしまうアキトにもはやようこちゃんは沸点を通り越してしまっていた。



「ふふふ……。今日こそは師範も呼んでじっくり……ふふふ……。」



もはや教卓に肘をつき、髪を乱す様子はホラーである。


当のアキトはというと、大声で呼びかけカナタのクラスの授業を中断したことに対し、窓の外で土下座させられている。

その前に立つのは、仁王立ちしたカナタとなぜかサチコ。


だが、これもいつも通りの光景。


そう、いつも通りの1日のはずだったのだ。今日もこうして1日が過ぎるはずであった。


だが、当たり前というものは当たり前で無い何か、異物が入り込む事によって一瞬にしてその性質を変える。変わる。変わってしまう。


即ち、非日常。


それは、本当に突然の事だった。







アキトが違和感に気付いたのは散々地面に擦りつけられた頭を上げた時。


否、気づいたのは違和感にのみであって、その原因には届いていなかった。



「な…………んだ……?」



いまやアキトのクラスだけではなく、カナタのクラスの全員にも注目されていたアキトの様子が変化した事に全員が戸惑ってしまう。


先程までヘラヘラし、いつものようにのらりくらりとしたふざけた態度は吹き飛び、そこにあったのは言いようのない緊張感。



「お兄ちゃん……?どう、し……!」



カナタの言葉は後には続かない。もう、他の生徒達、ようこちゃんや体育の先生も気づいていた。


大気が震えている。


おかしい。


何かが……。



「あ。」



アキトが大きく口を開ける。間抜け面そのものだが、だれもそんな事は指摘しない。

アキトの視線の先。生徒たちからおよそ10メートルほど先だろうか。



そこには……ナニカが、現れていた。



『グ……ガ……』



それは、おそらく生き物だった。二速歩行で、大きな頭に長い手足。ここまでは、人間も同じ説明ができるであろう。


だが。


その生き物は、圧倒的に人間ではなかった。


まず、その肌。人間のようなツルツルとした皮膚ではない。鱗、と表現するのが正しいであろう。鱗と呼ぶにはあまりにも機械的で金属然とした黒々とした輝きではあったが。


次に、その顔。頬まで裂けた真っ赤な口に、ギロギロとした目。


最後に、その四肢。爪はかぎ爪のように鋭く、そして太い。


そう。その生き物はまるで爬虫類が二速歩行しだしたかのように見た目だったのだ。それにしては尻尾が見当たらないが。


それは儚いとは無縁の姿だったが、どこか触ればかき消えてくしまいそうな雰囲気があった。

時折、その体は壊れかけのテレビ画面のようにブレる。

それは、夢か、あるいは集団幻覚か、はたまたコスプレ変態野郎か。

そのようなことを考える者は、ここには1人としていなかった。


そのような妄想を許さない、圧倒的な存在感。


絶対的な現実感。


その姿は、よく見れば満身創痍であった。所々ウロコが剥がれ、体液らしきものが漏れ出ている。

だがその瞳には、確実にその生き物の意志が宿っていた。



『ガ……ァ……』



その生き物が音を発する。


誰1人として動ける者はいない。


蛇に睨まれた蛙の如く。その場全員の足は棒と化す。

その場を支配するのは、濃密な殺意だった。絶望的なまでの死。

それは、すぐそこまで迫っていた。



生き物のギョロギョロと狂ったように動いていた眼球が、ふと一点で止まり、焦点を合わせ始める。



『ゴ…………ァ……』



その動きは、あまりにもぎこちない。あまりにもぎこちなさすぎて動き出したことを誰もが認識できなかった。


その生き物は、今や完全に焦点を合わせていた。


そう。


紛れもなくカナタに。



一瞬の踏み込み。


土煙がたち、その生き物の姿がかき消える。目で追う事すらできない。何が起きたのか、それは行動した本人でもわからなかった。



「きゃ……」



カナタの目の前に、生き物が現れる。


目を爛々と輝かせ、その細い首を噛みちぎろうと顎を大きく開く。


カナタが見たのは、自分をまさに今、食い殺そうとする狂気とそこに飛び込んできた1人の少年の背中だった。



「があ゛⁉︎」



一瞬だった。本当に、一瞬だった。

なぜ身体が動いたのかは分からなかった。


アキトは、今まで神に祈った事も、神に願ったこともない。


だが。


それでも、アキトはその瞬間、体を動かしてくれたことを神に感謝した。



ぶちぃ……



あってはならない音を響かせ、アキトの左側がありえないほどに発熱する。



「あ……」



痛みは無い。そこにあるのは、ただの熱。



視界が激しくスパークする。


アキトに突き飛ばされたカナタとサチコの上にアキト自身も転がり込む。


何か、何かとてつもなく大事なものが溢れ出していく、そんな感覚。


とても熱い。


魂が、流れ出る。


命が、溶け出していく。


倒れ込んだ視線の先で、生き物が何か棒状のものを咀嚼しているのが見える。



カナタとサチコが何か叫んでいるのがわかる。


周りの生徒達はもうパニックだ。


だが、何も聞こえない。


それでも、何も届かない。


視界のスパークは更に激しくなり、空間に黒い亀裂が入る。




バリバリと剥がれるような音がし、世界が遠のいていく。



失われる。



無くなる。



奪われる。



ーーもう、もう2度と失いたく無い。


ーー失うわけには、いかない。


ーーそんな事、この俺が許さない。



もう2度と、失わないと決めたのだ。


もう2度と、傷つけさせないと決めたのだ。


誰かを守れないくらいなら、こんな身体は必要無い。


誰かを守れないのなら、こんな命、必要な無い。


誰かを守れなかったのなら、そんな記憶、必要無い。


誰かを守れないのだとしたら、こんな世界、必要無い。





誰かの声が聞こえる。


あぁ、そうだ……


これは、きっと。





「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛‼︎」





























世界が、吹き飛んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る