第9話 World is beautiful

 長大な壁が出来た理由について。分かつ必要があった。つまり、争いがあった。そして、争っていることを周囲に理解させる必要性があった。壁はその象徴であり道具だったのだ。

 幾つもの傷跡がある。その殆どが人為的なものだ。人々は監視の目を盗んでは壁に近づき、石や硬い木の枝で壁に抗議の傷をつけてきた。数えきれないほどに走る傷跡は、そのどれもが、白く、寒々しくて痛みを感じさせる。それは争いが終わり一年を経た今でも変わらない。壁は壁であり続けている。人々は壁が役割を完全に終えてしまって良いのかどうかをまだその総意としては判断しきれずにいるのだ。

 懐中には数枚の写真を常に抱いている。ずっと昔、僕が初めて撮った写真。写っているのは、僕が子供時代を過ごした農場だ。今はもう無くなっている。軍の車両置き場か何かに転用された筈だ。僕が足に怪我をして軍から離れた後の事だから、敢えて知ろうともしなかった。

 僕は今、壁の前でカメラを構えている。初めて使ったカメラよりも数世代新しいものだ。祖父から遺品として譲り受けた、僕の最初のカメラが壊れたのは、軍に入ってすぐの事だった。僕よりも数年早く所属していたつまらない人間に貸したら、川に落してきやがった。今でも時々思う。あの時どうして撃ち殺してしまわなかったのか、と。カメラを壊した三週間後にくだらない事故で彼は死んでしまったから余計に僕は後悔している。彼だってきっと、事故死よりは僕に殺してほしかったに違いない。それに、そうすれば僕も誰かに殺してもらえたかもしれない。軍で、この争い事に主体的に関わった殆ど全ての人がそうであるように、僕もまた余計な物事を知りすぎたし、目撃し過ぎたのだ。人を傷つけたし、自らも傷ついてきた。本来ならば僕もまたいなくなるべき存在なのだと思う。同じようにいなくなった人々と僕との間に、ほんのわずかな違いすら認められないのだからそれは当然の事だ。結果としてそうならなかったのは、ほんのわずかな行き違いのようなものに過ぎない。



 ファインダーの中は、灰色の空と、空よりももう一段暗くこの場に取り残され続けている壁が在る。その悲劇を強調し、僕はシャッターを切る。繰り返し、複数枚。渇いた音が周囲数十センチに広がるたびに、物語は陳腐になっていく。薄く引き伸ばされた不幸と、それに関連する幾つか。壁はもう何も語らない。ただ、在り続けるだけだ。西風が強く吹き付ける。

 カメラを一度仕舞い、僕は、僕と世界を隔てる境界線を無しにして、壁と直接向き合う。高さはおよそ二メートル半。このあたりはちょうど壁の全長の中腹で、東西にずっと壁が続いている。西側は僕のいる側の国がかつて、争いのずっと以前から宗教的な意味を持つ場所として崇めていた山岳地帯にあたり、壁はその麓からずっと伸びている。東へ下っていくと、約十キロで幅二十メートルほどの河川にあたる。国境線が川伝いに南下するのに従って壁もまたそのまま河川に沿う。僕は車に乗り込み、壁づたいに、川に向けて進んだ。

 川沿いに十五キロほど南下した場所には崩れた石造りの橋がある。どういう経緯で崩れたのかは不明。軍の資料にもそう書いてある。争いが起こる以前は無数にあった、相互に行き交うための検問所が置かれていた堅牢な橋。そして、争いの中では互いに牽制しあうための監視小屋がそれぞれに建てられ、歩哨が置かれていたらしい。

 橋は高い位置にあり、渡るためにはまず階段を登らなければいけない。階段の途中に鎖が渡されていて、その中心に、〝KEEP OUT〟と印字された看板が一枚。僕はまず、それを撮影した。白地に赤い文字で、ただ伝えたい事だけが記されたそれは、とても印象的で雄弁だ。

 川面を覗きこんでみた。魚がいるのかどうかを推し量ることの困難な薄暗く濁った水だ。ところどころに油膜のようなものが浮かんでいる。橋が崩れたせいで川に良くない影響があったのだろう。流れが澱むことによって、沢山の魚が迷惑を被ったに違いない。川面や油膜、橋の全景を撮影した。このつまらない悪影響が自然にかそれとも人為的にか取り除かれるその日が少しでも早く、穏やかに訪れることを願う。



 崩れた橋からそれほど離れていない場所にある町に一泊して、頭上を隙間なく覆っていた雲が別の空に流れていったのを確認、僕は元来た道を戻り始めた。

 川に沿って車を走らせ、気が向くままに車を止めてはしばらく周囲を歩きまわり撮影した。

 壁の、ひときわ深い傷に手を触れた。

 「明日には」とだけ書かれた落書きがあった。

 数発の弾痕。

 鳥が二羽、空を横切って行く。

 遠く、壁の向こう側から運ばれてくる風にはかすかな匂いがあった。

 穏やかに流れる雲。

 眩暈を覚えるほどの青空。

 足元で揺れる背の低い草達。

 行き違いで此処に在る僕。いなくなってしまった人々。何の関係もなく 壁はこの先も暫く壁として在り続ける。それは象徴的な意味においても、実質的な意味においても。

 全てに向かって風は吹き、空気は流れ、陽の光が差し込む。空は青く、時間は優しく過ぎていく。痛みの痕跡は少しずつ和らいでいく。僕は此処に在る。いなくなるべきであろうとも、それとはまた別の意味を持っている。上手く言葉にすることのできない世界の蠢きの中で僕はファインダーを覗き、写真を撮影する。そして僕はカメラを仕舞う。肉眼で、世界と直接的に一体になる。――世界は時々、美しい。僕はそれを再確認する。

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