第8話 未だ見ぬ場所へ

 軍の最下級兵として歩哨になったのは二年前の事だ。

 それは、とてもありがちな不幸の連続のようなもの――親が死んだり、飼っていたインコが行方不明になったり、恋人が犯罪者になったりとか、その手の、退屈さを伴う不幸群。わたしの愛すべき仲間達と言ってもそれほど間違いではない――がもたらした最終的な結果のようなもので、現状のわたしは当時の決断をそれほど後悔はしていない。おそらく、この国の中では中流以上の暮らしが出来ているし、一般市民はわたしみたいな最下級の兵であろうとそれなりの礼儀をもって応対してくれる。多分、わたしは恵まれているのだ。

 戦争になんかまるで興味は無いし、ちょっとした自衛組織だけあれば良い……そんな顔つきをしていたわたし達の国がいつの間にか戦争をとても肯定的に捉えるようになったのは、わたし達に石を投げたり、抗議行進を飽きずに続ける反戦主義者の怒鳴り声によると十年ほど前の事らしい。特に興味は無いけれどいつの間にか自衛組織は軍隊になり、大昔の因縁をほじくり出して隣国との小競り合いを始めた。きっと、それを決めた何処かの誰かには、そうしたいだけの動機があったのだろう。きっと、戦争はその程度の事でも始まる。きっと、それは誰か一人をこの手で屠るよりも簡単なことだ。そう、きっと。

 赴任先は隣国との国境線になっている小さな川の中流付近で、幅十五メートルもない川には古臭くてみすぼらしいレンガ造りの橋がかけられていてわたし達の国の側に一つと、隣国側に一つ、それぞれ同じような意匠の小屋が置かれている。そこで日中、じっと立ち続けて相手側を見張るのが今のわたしの仕事だ。歩哨。見張り。一応。銃と軍服を身に着けているから、それによってかろうじて遊びではない事は分かる。本当に、ぎりぎりのところで、これは遊びではない。

 小屋から眺め下ろす水面の表情は、どんな天候の時でもとても平和そうに見える。晴れている時はきらり、きらり、と光を揺らし、雨が降れば、自由奔放に跳ねまわる。冬、雪の季節には、冷たい風をその身にめいっぱい受け止めて、一枚の絵のようになる。今日と明日が〝似ているようで違う″事をきちんとわたし達に教えてくれる。上流域に工場が幾つかあるせいであまり綺麗ではないけれど、それでも多分、わたしや、他の多くの人々よりは綺麗。

 わたしはそんな〝綺麗な〟川面を眺めながら、色々な事を考える。今日の事、明日の事、昨日の事、来年の事、子供のころの事。いつか死ぬ、その時の事。夢や希望も別に無いし、思い出して心が弾むような過去があるわけでも無い。それでも、考えている時間、わたしはこの小屋の中から自由になれるような、そんな気がしていたから、毎日、毎日、飽きることもなくあれやこれやを考える。

 子供の頃から、誰かとかかわるのがあまり好きでは無かった。一人は楽だ。気がつけばそれはわたしの中の常識になった。誰かと関わり合うその時、わたしはその人を傷つけてしまうかもしれない。だからわたしは、誰も傷つけたくないから、一人でいる。そんな後付けの理由を考えついたのは父が死ぬ前後くらいだ。自分で嘘だと分かる。本当は面倒くさいだけだ。昔、学校が同じだった人に〝寂しいくせに〟と言われた。わたしのこれまでの考え事の中でも最長を誇るテーマになった。未だに答えは出ていない。寂しい? 

 そんなわけでわたしは、朝一番の鐘から夕方の鐘まで大体十時間、毎日、考え事をしながら歩哨をして暮らしていたのだ。



 初めて声をかけられたのは、良く晴れた春の午後だった。わたしは眠かった。きっと、向こうも眠かったのだろう。いかにも気まぐれらしい、能天気な声だった。

「今日はいつもより目つきが優しいね」

 最初は無視した。何か言っているな、とは思ったけれどまさかわたしに向かって言っているとは思わなかったのだ。許可無く敵国側と交流するのは禁止になっている。こちらでそうなっている以上、向こうだってそうに決まっている。返事なんかする理由は何処にも無かった。

「大丈夫、こんな吞気な日、他には誰もいないからさ。暇だろ?」

 本当に暇だったから、手放さないように命じられている長銃の先を向けてやった。

「何処かへ行きたいと思わない? 悪くないと思うんだけどな」

 そう言って、向こう側でも銃を構えた。馬鹿馬鹿しくなってわたしが下ろすと、向こうも下ろした。

「何が目的?」

「別に。暇でね……ねえ、もし鳥になれたら何処へ行きたい?」

「別に何処へも。わたしの仕事は此処での見張りだから」

「そう……ねえ、それよりさ、魚って幸せそうな顔をしているよね。僕、時々、心から魚や鳥に生まれたかったな、って思うんだよね。君はそういうの無い?」

「鳥でも魚でも何でもいい。わたしはわたしだから」

 向こう側から残念そうな声が一つ聞こえてきて、会話は終わった。多分、わたしは驚いたのだろう。鼓動が早まっていることに気付くまで少し時間がかかった。無意味な会話をしたのなんか随分久しぶりのことだったのだ。〝了解〟とか、“お疲れ様です”以外の言葉を発したのは、いつ以来だろう。商店で〝お釣りが違っています〟と四日前に言った時以来かもしれない。高揚とまでは言えないけれど、眠気がとれて、気持ちが少し上向きになったのを確かに感じた。

 年は二十でわたしと一緒。普通に就職をしようと思ったけれど、何処にも使ってもらえなくて軍隊を選んだ。両親は健在で、どちらも軍人。コネで軍に潜り込めたと自分では考えている。紛争が終わったら仕事が無くなりそうだから、出来ればあと百年くらい小競り合いを続けてほしいと思っている。趣味は休暇の川釣り。結婚のあては無い。貯金も無い。歩哨は退屈で、出来ればもっと大きな街で仕事がしたいと思っている。夢は、遠い異国を回る事。

 そんな彼のプロフィールをわたしが知るまでにかかった時間は大体一週間くらいだ。どうも、一度に色々話すべきでは無いと考えているらしくて、一日に数分ずつちょっとした事を話して、わたしが無視を続けていると残念そうに黙る。そんな繰り返し。それでも彼は色々な事を喋り、わたしは仕方なくそれを聞き続けた。担いでいる銃のせいで、耳を塞ぐことも出来なかった。

 当然だけれどわたしから何かを喋る事は無かった。けれど時々、気が向いた時には返事をしてやる事ぐらいはあった。そんな事をすれば、いよいよ彼の話が止まらなくなる事くらいわたしだって分かっていたのに、どういうわけか時々気が向くのだ。自分でもよく分からない。

 喋っている時の彼の目は、子供のような、無邪気で貪欲なぎらつき方をしていた。一度求め始めたら、飽きるまで止まらない。前向きで、真っすぐで、少しも周りの事を気にしない、そんな目。人によっては、“可愛らしい”と評価するかもしれないけれど、わたしからしてみれば気持ち悪い。何かを失ったり、捨てたりした事が一度も無いのかもしれない。そう見える。きっと、幸せなのだ。静かで小さな田舎町で歩哨をしている事が唯一の問題点なのだろう。そう考えると、なんだか苛々としてくる。

 身長も小さいし、見た目も貧弱そうだ。少し猫背。手に持った長銃に弄ばれているように見える。子供のころは詩人になりたかったらしい。わたしとは無縁な人種だ。幸せで吞気で退屈で夢見がち。何処にも行けないくせに、いつでも何処かへ行きたがる。

「今度ね、僕達の側、建国五十周年なんだ。それで、交代で特別休暇を貰えるんだよね」

「……それで?」

「ん? 別に。目一杯釣りをして、幸せそうな魚たちを幸せな料理にして、満腹になる予定。だけど、いつもは行けないくらい遠く、そうだな、上流まで行くかな。形の良いのが釣れたら持って帰ってきてあげるよ」

「いらない。何処へでも勝手に行けばいい」

「こうやって向かい合ってるとさ、なんか、本当に戦いになっても撃てる気がしないんだよね。此処だけ勝手に無視して、仲良くしてたら怒られるかな、やっぱり」

「安心していい。いざというその時には真っ先にわたしが撃つ」

「君ならやりそうだ」

「怒られる暇もなく、死ねる。川に落ちて、〝幸せそうな魚〟の餌になれる」

「上手く落ちられるかな。橋の上で死んだら落としてくれる?」

「そこまで面倒を見るつもりは無い」

 必要以上に応じ過ぎると、不安になる。悲しくなる。何処へも行けないと分かり切っているくせに、うっかり、何処かへ行けるようなそんな気がしてくるから。

「わたしが撃って、それが外れたとする。撃ち返す?」

「君がそれを望むなら」

「望む」

「だけどやっぱり撃たないな。多分、それを僕は望まない」

 下の川で魚が一匹跳ねた。まるで、同意するかのように。春と夏の間。川原の草達や、少し離れた町から流れてくる色々なものが風に乗って、優しく小屋二つを包みこむ。不意に死にたくなってきた。理由を自問してみた。きっと、何処かに行けそうだからだ。そんな自答の後には苦笑いしか浮かばなかった。



 向こう側の小屋の、その更に向こう。隣国側の国境の町からいつもと違う時間に鐘が鳴ったのは、夏の中腹の頃だった。午後の十三時に十三回鳴らされる鐘。この周辺一帯の風習では、それは葬送の鐘ということになっている。

 わたしは左足に包帯を巻き付け、杖で身体を支えながらその音色に身を任せていた。簡単な事だ。彼は死んで、わたしはいまだに生きている。何処かへ行けた側と、相変わらず行けなかった側。あっさりと切り分けられた。きっと、ずっと昔からそうなるように決まっていたのだ。鐘が十三回鳴り終わった後の静けさの中で、あたしはそう思った。

 わたしが最初に撃った。彼が、川底に潜む魚を声に出して数えているその時に。下を向いて身を乗り出していたから、きっと上手く落ちる。そう思って。

 上手く当たった。彼は、何一つ言い残す事なく水面に向かって落ちていき、水しぶきをあげ、周囲の水をいくらか赤くした。これで良かった、と思った。

 彼を撃った長銃はそのまま川に捨て、腰に携えていた短銃であたしは自分の左足を撃った。本当は右足も撃つつもりだったけれど痛みが酷過ぎてすぐに上手く動けなくなってしまったのだ。

 銃声を聞きつけた町の人間が通報し、わたしは病院に担ぎ込まれた。銃弾が体内に残っていなかったことが幸いしたらしい。神経にも問題は起きていなかった。立っているだけの仕事だから、杖があれば出来る、と無理を言って入院を拒んだ。小さな町、軍属の言う事にわざわざ歯向かうような医者なんかいなかった。包帯を毎日替え、清潔にしなければいけないと強く言われ、毎日仕事帰りに寄る事を約束させられただけで済んだ。そうしてわたしは翌日、小屋の中で鐘の音を聞いた。どうしてもそうしたかった。わたしが何処へも行けない事を思い知るために。そして、補充として小屋に配属されるはずの隣国の新しい歩哨にあわよくば殺してもらえないかと思って。我ながら図々しいとは思う。残念な事に新しい歩哨は、ただ黙って、冷たい目でこちらを見続けているだけの退屈そうな奴だった。これでいいのだ。わたしは何処へも行けない。その再確認に過ぎない。

 夏が過ぎて、夜の到来が早くなってきた頃。包帯がとれ、杖を病院に返し、相変わらずわたしは歩哨だった。人づてに聞いた話だけれどわたしを処罰するかどうかでちょっとした揉め事になったらしい。どんな流れでその揉め事が収まったのかはわたしの知るところでは無いけれど、結果わたしは以前と変わらぬ歩哨暮らしだ。きっと、他に替えがいなかったとか、そんなところだ。月々の給料が少し減らされたけれど、どうと言う事は無かった。隣国にどんな説明をしたのやらも不明だ。新聞にも載らなかった。何処かで、偉いという事になっている誰かが何とかしたのだろう。つまり、わたしには関係無い。

 小屋の低い天井を見ながら。揺らめく水面の光を見ながら。飛んで行く鳥を、泳いで行く魚を、黙りこくってこちらを見続ける、名も知らぬ敵側歩哨を見ながら、わたしは以前、彼を打ち抜く以前には考えた事もなかった「未だ見ぬその場所」を求め続けていた。そこに至る道筋を想像し、自分の目の前にある選択肢に向かって目を凝らし続けた。例えばこの場で銃を捨て、川沿いに、ずっと下流に向けて歩いて行っても良い。わたしはわたしだけれど、いつまでもずっとわたしであり続けるわけではないのだ。何にでもなることが出来る。

 そんな思考が繰り返した末の気まぐれだ。理由はそれしか見つからない。気まぐれという奴は大抵、そういう時を狙ってやってくるのだ。

 わたしは対岸、敵国側の冷たい目をした歩哨氏に向け、不自然ではない範囲の笑顔を作って言った。

「君は何処かへ行きたいと思うことはないのか?」

 


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