第7話 約束――続 Jamshede

 大体どの街にも二つか三つはありそうなチェーン喫茶店の、小さなテーブルを挟んで座る二人掛けの席。自分の対面の席には鞄を置いて、その日その日の気分で飲みものを注文して、後はひたすら時間と向き合う。三か月ぶりにジャムから電話がかかってきたのが五日前のことだ。それを受けて、久しぶりのジャム待ち。こうして、二人掛けの席で待機しているというのはすごく自分に合っているような、そんな気がする。

 ジャムは言っていた。「これ以上嫌なもの見ないうちに、もう日本に行くよ。付き合っていられないからね。来週には」と。どうも、彼の親の起業は「手違いによって」中止になったらしい。ジャムはあまり詳しい事を話したがらなかった。とにかく、その中止を受けて彼と彼の両親の間で幾つかの面倒なもめごとがあったらしい。彼にしては珍しい怒気をはらんだ声で彼は再来日を言い出したのだった。

「約束出来る?」

「出来る、出来ますよ、ナカさん、ワタシを信じて」

 明るい声。私は電話口で思わず吹き出した。知っているのだ。ジャムが〝約束〟を言い出す時、その殆どは上手く守られない。最終的には上手くいくけれど、ちょっとした失敗でそれは遅れる。約束通りに現れないからジャムだし、それを待っているから私。なんだか、嬉しかった。

 帰って来たら私の携帯に電話をすぐ入れること。帰って来る日は来週中、と二つの約束を交わして五日が経って、約束した週がやってきた。学校へは相変わらず殆ど行く必要が無かったから、自主休暇を決め込んで、私は毎日駅近くの喫茶店で待機。文庫本を二冊持って行って、長居の態勢を整えて。



 ジャムとの約束、と言えば去年の夏に思い出がある。その日はジャムが主催するバーベキューパーティーに招かれていた。

 準備を手伝って欲しいという連絡をもらって、ジャムの家の最寄り駅から各駅停車で三十分くらいの、その辺りでは一番大きな駅で待ち合わせ。最初に食材の買い出しをする予定だと聞かされていた。ジャムから指定された時間はお昼の十二時で、私は十分前に到着。ジャムからの連絡が来たのは約束の時間を十分以上過ぎた後の事だった。

「遅いよ、何してるの?」

「ちょっとお仕事でよく分からないことになっちゃって遅れますからどっかで待っていてください」

 分かった、とだけ言って電話を切って、後でどんな説教をしてやろうかと考えながら手近な喫茶店に入った。一応、連絡は受けなければいけなかったから、携帯の電波が入るところを選んで。

 目の前にジャムがやってきたら、人との約束の大切さや、遅くなる時の礼儀をせいぜい叩き込んでやろうと思った。ジャムからしてみれば自分に原因があるわけではないから別に悪くないです、といったところなのであろうことは容易に想像できたけれど、それで済ませるわけにはいかなかった。ここが日本である以上私には、ジャムに対して日本人的な感情論も〝授業〟として行なってやらなければいけなかったのだ。

 店員に見せられたメニューの中で一番写真が大きかったアイスカフェラテを注文した。別に何でも良かったのだ。ホットよりもアイスのほうがいくらか長持ちするかも、程度の考えはあったかもしれない。

 長い時間待つ予定なんかなかったから雑誌も何も持っていなかったし、喫茶店には新聞もテレビも無かった。天井のスピーカーから流れてくるBGMはあったけれど、好きでもない、聴いたことのない曲なんか、何の暇つぶしにもならなかった。

 待ち始めてからしばらくは携帯電話をいじくったりして遊んでいたけれどすぐに飽きて、ジャムに説くべき教えを考えたり、目の前に出されたきり放っておいたアイスカフェラテをかき混ぜたり。飲み干したら出ていかなければいけないような雰囲気の店だったから、飲んでしまうわけにもいかずにぐるぐる。カランカラン、と氷が鳴って、ゆるやかに溶け始めて、グラスが少しずつ汗をかきはじめた。 

〝もう、つきます〟

 ジャムから短すぎるメールが来て少しイラついたけれど、仕方が無いから居場所を返信すると、三分くらいで彼は来た。急いでいる素振りなんか一つも見せず、悠然と、歩いて。

「ちょっと遅れちゃったよ、ごめん、ナカさん」

「ごめんじゃないよ、ちょっとそこ座りなさい」

 鞄をどかして、反対側の席にジャムを座らせて説教開始だ。日本人がそもそもの部分で礼節を重んじていることから始めて、なるべく分かりやすいように。ジャムの、成長途中のボキャブラリーでも理解できる範囲の話。あんまり一気に言い過ぎると「難しい日本語分からないよ」と冗談なのか本気なのか分からない切り返しで茶化されるから、そうならないように。時々、「言っていることは分かる?」と確認しながら。

「とにかく、あんまり人を待たせない事。ジャム、オウケイ?」

「オウケイ、ナカさんちょっと怒り過ぎだと思うけどごめんだって分かったよ」

 説教が終わって、放置していたアイスカフェラテに口をつけた。氷もすっかり溶け切って、かさが少し増していた。美味しいわけがなかった。頭に来たからジャムにもう一杯奢らせた。

「そんなお金持ってないよ。ナカさん、ちょっとひどく思いますよ」

「二百六十円くらい文句言わずに出すの。罰よ、罰」

「本当にもう遅れないようにしますよ。ワタシ、これ以上遅れたら何買わせられるか分からないからね」

「それが〝反省〟という事。ほら、勉強になったでしょ。次も遅れたら奢らせるからね」

 我ながら悪くない思い出だ。思い出していくと、少し笑えてくる。ちなみに、こんなやり取りがあった事なんかまるで忘れてしまったかのようにジャムはこれ以降も待ち合わせに遅れ続け、その都度、私に罰として飲み物を奢り続けた。それが大体半年くらいで、その後、ジャムが冗談抜きにお金が足りなくて困りあぐねている事を本人の口から聞いて、この制度は廃止となった。三百円あればおにぎりとソーセージが買えるんだよ、と切なる訴えをぶつけられてしまっては私としても無理な事は言えなかった。

 ちなみに罰が無ければ進歩は無いと考えた結果、遅刻の代償は、ちょっとした雑用を押しつけるという形に落ち着いた。荷物持ち、靴磨きなどなど。思いつかなかった時はスクワット三十回とか、腹筋百回。犬のしつけに近いものがあった。全く更生の兆しが見えなかったところを見れば、さして意味のある事ではなかったようだけれど、まあ、面白かったから良いのだ。



 夏の日の回想を再開しよう。どうせ今日も電話はかかってこない。まだ、時間はあるはずだから、なるべく、楽しい事だけ思い出していたい。

 ジャムに連れられて向かった先は、細い路地の奥にある食肉店だった。駅から徒歩二十分くらい。いつからか此処にあって、いつまでもあり続けそうな、そんな店構え。枯れ木のような老人が一人、店の奥に腰掛けていた。ジャムが挨拶をすると、のんびりとした笑顔。愛嬌のある顔だけれど、歯はもうあまり無いらしくて、動かしづらそうな口をもごもごと動かしながら「また来たんか」と言った。

「いつものやつ、またお願いね」

「あんまり肉ばかり食うと、歯がなくなるぞ」

「冗談うまいよね、いつも面白い人」

 ジャムは私を特に紹介せず、老人も、私の方には視線一つよこさなかった。さくさくと話はまとまったらしく、大体五分後、ジャムの両手には、千切れそうなくらいに中身の詰まったビニール袋が二つ握られていた。

「お待たせです、ナカさん」

「ずいぶん買ってるけど……お金無いんじゃなかったっけ?」

「もらってきてます、ボスに」

 聞いたところによると年に何回かのバーベキューが開かれる時はいつも社長が真の主催者で、開催に至るまでの段取りを全てジャムが取り仕切ることになっているらしかった。

「なるべくたくさんゲスト欲しいから、って。ナカさんの話したら社長に連れて来いって言われたよ」

「そういう事だったんだ。次は下ごしらえ?」

「そう、本番。ナカさんの出番」

 生肉を抱えて電車に乗って、連れていかれたのはジャムの家だった。落ち着く暇もなく始まった〝本番〟。これが、笑っちゃうくらいに酷かった。

 まず生肉を巨大なボウルに開ける。全部鶏肉で、買って来た総量は7キロ。一体、何人でやるバーベキューなのかが気になる量だったけれど、そんな事を考えている暇も無いくらいの強烈な匂いがするスパイスがジャムによってボウルにぶち込まれ、私に下った指令はそれをひたすらに混ぜ合わせる事だった。

「ワタシはこっちで同じ事してますから」

 そう言ってジャムも、別のボウルに鶏肉を移し、手で混ぜ始めた。嫌だとか臭いだとか文句を言う暇もなく私もひたすら混ぜた。これまであまり家事や料理を手伝ってこなかった私は、母が時折こぼす「料理してると食欲無くなっちゃうのよ」という言葉の意味を理解出来ずにいたけれど、それがようやく分かったような、そんな気がした。

 作業は一時間半くらいかかった。7キロ全部の肉をスパイスまみれにして、それからそれを1キロずつ小分けの袋に入れた。その後はジャムがヨーグルトソースを仕込み、私は総量ニキロの野菜をひたすらに刻んだ。全ての用意がようやく整った時にはもう殆ど夜になっていた。

「社長が車で迎えに来るから、怖くないよ」

「言葉が変。大変じゃない、とか疲れない、とかそういう事?」

「それですよ。ナカさんはやっぱりワタシの先生だから、たまに間違えてあげないとつまらないでしょ?」

「バカな事言ってないで、社長さんっていつ頃来るの?」

「もうすぐだよ」

ジャムが言うのを見計らっていたかのように彼の電話が鳴り、日本語では無い、遠い世界の言葉で何らかのやり取り。それからすぐにジャムが言うところの、社長がやって来た。

 ジャムの暮らすアパートに横付けされたワンボックスカーから降りてきたのは、長身でさっぱりとしていて、体全体が筋肉の塊のような人だった。深夜の通販番組でエクササイズ器具を売っている人みたいな感じ。いかにも肉食な感じで、強そうだった。

ジャムと同じ、パキスタンの生まれで、奥さんは日本人。そのうち帰化しようか、と考えているらしい。

「はじめまして、シファーズです。社長です、偉いんですよ、ワタシ」

 喋り方が何処かジャムっぽくて笑えた。日本語のパキスタンなまり。きっと、何らか発音しづらい音があったりするのかもしれない。私が自己紹介をするとニコリと微笑んでくれた。

「頭が良さそうだ。貴方はとても日本人ですね」

 褒めてくれたのかどうかはよく分からない。

 


 スパイスまみれの肉と切り刻んだ野菜にヨーグルトソースと一緒に車に乗せられて連れていかれたのは、何台も輸出待ちの車が置かれている広場だった。ジャムに「ここ、置き場ね」と紹介された。シンプルで良い名前だと思う。なんだか、変身ヒーローが怪人と殴り合ってそうな場所だった。

 私にはスクラップとしか言いようのない車が何台も無造作に置かれていて、脇には、車載用トラックが一台。

「近くにあんまり人が住んでないし、広いから大丈夫。怒られない」

 言いながらジャムはもう、バーベキューセットの準備に取り掛かっていた。手伝おうかどうしようか様子を窺っていると、すぐにシファーズさんが横から手を出し、私が何をする暇もなくセットはすぐに組み上げられてしまった。その後も、あっと言う間もないくらい。丸めた新聞紙に火をつけて、その上からシファーズさんが何だか分からない液体をかけると、火は瞬く間に、キャンプファイヤーのような勢いで燃え上がった。

「ジャム、今さ、シファーズさん何かけたの?」

「ガソリン。よく燃えたでしょ」

 バーベキューのメンバーは、私と、ジャム、シファーズさんにシファーズさんの奥さん。シファーズさんの弟で一緒に事務所で仕事をしているらしいシファーナさんの、全部で五人。想像していたよりもこじんまりとしたバーベキューパーティーだった。

 肉も野菜も、味付けが私には辛すぎて、喉が渇いて仕方なかった。なのに、出てくる飲み物はコーラだけ。すぐに口の中が痛くなった。気がつけば鉄板の上は肉だけになっていて、コーラのペットボトルは三本目が殆ど空になっていた。つければ辛くないよ、と言われて渡されたヨーグルトソースは、今度は酸っぱすぎ。またコーラを飲む。口が痛くなる。そんな繰り返しだった。

 シファーズさん夫婦もシファーナさんも話していて面白かったからいいけれど、もうバーベキューパーティーには誘われてもいかない、と帰り道、家まで送ってくれたシファーズさんの車の中で固く誓った。そんな、夏の思い出。



 ジャムからの電話を待ちながらの喫茶店待機を始めてから、ちょうど一週間が経っていた。ジャムからの電話は、それが当たり前であるかのようにかかってこない。破られるべくして破られる約束。おなじみのパターンだから、別に悲しくなんかない。そう、いつもの事。

 この日に注文していたのは残念ながらアイスカフェラテではなくて、ホットのカフェラテだったけれど、そんな事は別にどうだっていい。私はいつもと同じように、飲みものを手持無沙汰そうにかき混ぜて、少しだけすすって、また何かしら思い出したり、それに飽きたら文庫本を読んだり、携帯電話をいじくりまわしたり。多分、私がいい加減待ちつかれた頃、いい加減にしろよ、なんて思い始めたころに携帯が待ち構えていたかのように鳴るのだ。私は、小窓に表示される〝ジャム〟という文字を確認してから、さも、待ってなんかいませんでしたよ、といった素振りで電話に出るのだ。そして、約束違反の罰則を申しつけることになる。きっと、相変わらずお金は無いだろうから、何か、別の事。反復横とび三十セットなんて、見ていて面白いかもしれない。何でもいいから、早く会いたかった。話したい事が沢山あった。聞きたいことも、沢山。言ってほしい言葉も山積みだ。

 バーベキューの事を思い出した、と話してみようと思う。もう二度と食べたくないと思っていたあの強烈な味を、今現在は、ほんのすこし恋しく感じている。シファーズさん達は今頃、どうしているのだろう。パキスタンの言葉も、少し習ってみたい。

 ジャムのいつものパターン。約束は、遅れて守られる。出来ることは、信じて待つだけ。待つべきものが明確だし、大丈夫、と思えるから、まだ私はきっと幸せなのだ。

そう思う事にして、頭上に流れる 〝本日の営業を間もなく終了します〟というアナウンスを無視するかのようにラテを一口。いつか守られるのであろう約束を思って飲めば、冷めきったラテでも、いくらか、私を励ましてくれる。

 店員に促されて、席を立った。今日も約束は守られなかった。明日は、アイスカフェラテにしようと思う。グラスが汗をかき始めるまで、混ぜ続けてやる。それから、今度は何を思い出そうか。甘過ぎるチャーイについて。もしくは、初めてジャムと会った日の事。一緒に居たい、と素直に思えた日の事も悪くない。まだ大丈夫。待てる。だから、また明日。

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