第6話 葬送行進曲

 午前二時を過ぎて、騒々しさをずっと保ち続けていた外もぐっと静かになった。そこそこに大きな都市の、駅前ホテル、シングルルーム。五階の部屋で、窓からは、死んだような駅と無数のビルが見える。沢山の赤い光が、それぞれに呼応するかのように明滅している。ゆったりとした動きの作業用車両が、真っ直ぐに前だけを見据えて駅を通り過ぎていく。それらが窓を通り抜け、一かたまりに部屋に投げ込まれ、かすかに揺らめく。

 俺が動く。影が少し揺れる。煙草に火を点ける。煙がよたよたと部屋を漂い始める。何かを始めよう。少し前からそんな事ばかりを考え続けていた。

 思い返したくも無いくらいに、ここ最近、沢山のものを失った。まず最初に仕事。次に恋人。お金。夢。理想。将来。行く先。健康もそこに加えていいかもしれない。自分から捨てたものなんか何も無い。みんな、勝手に何処かへと吹き飛んで行ったのだ。

 この先給料が遅れるかもしれない、と仕事場で通達されたのが二ヶ月くらい前の事だ。こぢんまりとした家具店で正社員をしていた。労働に対して適切な代価を支払わないのは契約違反ではないのか、と社長に確認しに行ったら早期退職を強く勧められた。俺は間違った事を言ったつもりはない。そうであるにもかかわらず、学生時代からの恋人はそんな俺を愚か者扱いして、何処かへと姿を晦ましてしまった。

 それとほぼ同じころ、安定性を強く推されて買っていた株がその企業の馬鹿馬鹿しい不祥事で大きく下がり、損切りをした。資産は半分以下になった。手持ちの現金ではアパートの更新料が支払えなかったから外に出た。実家への一時避難も検討したけれど、結局漫画喫茶で寝泊りするようになった。実家はあまりにも遠すぎる。きっと戻ってこられなくなる。そんな意地がどうでもよくなってきた頃、酷い風邪をひいた。肩や腰にじわじわとした痛みを感じるようになった。一日中頭痛を感じるようにもなった。少しずつ所持金がすり減っていった。

 幾つか、短期間のアルバイトをした。周りを見渡せば、みじめな奴らばかりだった。まともに就職をしたことのない奴もいたし、会社に捨てられた奴もいた。悩んだ事なんか一度も無さそうな奴。アルバイト相手に威張り散らすことしか出来ない、無能な現場監督者。見れば見るほど悲しい連中だ。自分もその一部なのかと考える度に、自己嫌悪で吐きそうになった。

 何かを始めなければいけない。何処かへ向かって明確に舵を切り、漕ぎ出さなければいけない。漫画喫茶のリクライニングシートに座るたびにそう思った。そして、決めたのだ。俺は、何かを始める。

 なけなしの所持金でホテルを二日間。ぐっすり眠り、体調を整え、進むべき針路を定める。今夜はその二日目の夜。決めなければいけない日だった。

 出来ることは限りなくある。死んだ気持ちになって、なんてよく聞く言葉だけれど、本当にその通りだ。命を一つの代償として考えれば、それこそ可能性は無限に広がる。死ぬにせよ、生きるにせよ、そこには、守らなければいけないものが何も無い。

 例えば、国を大騒ぎにするような悪事だって企める。鮮度の悪い魚のような目をして単純作業に身をやつしたっていい。ちょっとした悪事を繰り返して生き延びる小悪党でもいい。それに、いざとなれば、死んでしまうのも一つの方向性かもしれない。何だって出来る。問題は、何をするか、だ。



 三時になった。何をするべきかもろくに思いつかなくて、中学生の頃に気に入っていた音楽を幾つか思い出していた。実家の近く、海岸線に沿って伸びるコンクリート製の防波堤に、電池で動くCDラジカセを置いて聴いた何曲か。タイトルもアーティストもろくに覚えていないけれど、脳裏に残る旋律の欠片を、俺は集め、繋ぎ、鳴らす。少しずつ、それを邪魔するかのように、繰り返し押し寄せてくる波の音が混ざり始める。

 当時の俺は自らに規定していたのだ。音楽は、誰にも邪魔されないように海岸で聴く。それが正しいと決め込んでいた。中学生がその手のルールを自らに課す時、それはほぼ間違いなく、単なるポーズでしかない。

 そして、一定のところまで記憶を辿っていったところで、記憶は一つの情景にたどり着く。そのBGMとして鳴る曲は、ショパンのピアノソナタ第二番、第三楽章。葬送行進曲。たどり着いた情景を俺は見渡す。少し、優しい気持ちになる。

 古臭い田舎町の古臭い中学校で俺は、クラスの女の子に古臭い恋をした。彼女が音楽部に入っていてピアノを弾いていたから、俺もピアノ曲を聴くようになった。町の中だと万が一の露見が有り得る。そう思って、休みの日にわざわざ電車に乗って三つ先の駅にある大きなCDショップまで行った。店員に、クラシックのピアノ曲で有名なのってどれですか、だなんて尋ねて買ったのが、ピアノソナタ第二番だった。誰の演奏でいつの録音だったのかなんか覚えていないし、確認しようも無い。CDは恋が終わったその時に二つに折って捨ててしまったし、ジャケットは破って燃やしてしまった。そんなわけで、俺の脳裏にはその旋律だけが、瘡蓋のように残っている。

 最初は何処か寂しそうに。次第にそれは葬送の列が近づいてくるかのように、大きく。重ねられる和音。ある一定のポイントで立ち止まる。そして、そこからは流麗で細やかな音が慎重に刻まれる。忘れてはいけない幾つかの物事をゆっくりと愛しむかのようにそれは続き、止まる。淡々と響く和音が、再び戻ってくる。そして、去っていく。第四楽章が殆ど隙間なく始まる。

 俺がこの曲を忘れられなくなったのは、勿論、当時の下手くそな恋愛もその理由として挙げることが出来るけれど、もう一つ、ちょっとした〝物語的経験〟を得た事が大きい。

 十一月、雲が多くて鬱陶しい雰囲気の日曜日の朝のことだ。早起きをして何枚かのCDを携えて海に行くのは当時、完全な習慣になっていたし、俺が朝、陣取る場所はいつも同じだった。家の前を伸びる路地をまっすぐ進んで、海沿い道に出てすぐのところ。ちょうどその場所が、海岸沿いに並ぶ幾つかのホテルのエリアを抜けた位置になっていて、夏でも冬でも、町の海岸線の中では一番静かな場所。そこで出くわした。これは、運命と呼ぶべきかもしれない。

 その日は珍しく、砂浜に先客がいた。たまにゴミを拾う役場の人や、散歩をする爺様なんかがいたりする事はあったけれど、その日そこにいた人は、何処から見ても役場の人では無かったし、散歩でも無さそうだった。

 俺よりも十歳くらい上の男性で、スポーツウェアを着ていて、手にはシャベル。周囲を気にする事なく、ただ穴を掘っていた。足元に、段ボール箱が一つ。蓋は閉じられていた。そして、海岸沿いの通りには、見るからにボロボロな車が一台。緑色の塗装があちこち剥がれてしまっていて、フロントガラスに大きな罅が一つ。ワイパーには両方とも錆が浮かんでいたし、フロントの左タイヤは、パンクした時のためのスペアだった。

 俺は自転車を停めてしばらくそれらを見ていたけれど、やがて待ちきれなくなって、ラジカセをセットした。

 頭出しして、葬送行進曲から。ボリュームのつまみを回すと次第に、波の音に負けじと和音が辺りに広がりだした。シャベル男にもその音はちゃんと聞こえたらしい。こちらを振り返った。目があった。俺は、何が起きても大丈夫なようにと気持ちだけはいつでも逃げられるように身構えた。けれど、何も起きなかった。男は予定通りの穴を掘り終えたらしく、しばらくその穴を眺め、満足そうに頷き、それから段ボール箱を開き、中からタオルにくるまった何かを取り出すとそれを穴に入れた。

 そこからは、早かった。穴は即座に埋め戻され、砂浜は丁寧にならされ、そこには黒っぽい跡だけがひっそりと残った。シャベル男は、空の段ボール箱にシャベルを入れ、ゆっくりと登ってきた。

「猫を埋めていたんだ。別に、怪しくはない」

 俺の横まで来て男はそう言った。何かを尋ねたわけでもない。逃げだしたい気持ちで一杯だった。

「猫?」

「近所に住み着いていたんだけど、家の車庫で今朝死んでた。役場の人に聞いたら、町の決まりだと、動物の死骸は生ゴミ扱いらしい」

「それで埋めに?」

「生ゴミとして燃やされて灰になるよりは幸せだと思う。死に場所が選べなかっただろうし、それなら、せめて〝まだマシ〟な方向に連れてってやるのが残った奴の仕事だと思わない?」

 シャベル男は俺の返事を待たず、そのまま車で走り去って行った。酷いエンジン音がその場を暫くの間漂っていた。気がつくと、葬送行進曲はもう終盤だった。

 俺は、海岸に埋められた猫にに向けて思考の舵を切った。ペットも飼った事が無いし、親戚、両親、みんな健在だった俺にとって、〝死〟やそれに類する事象は、あまりにも深く、暗い。そこには、言葉に出来ない何かしかない。ただ漠然と悲しい。言葉になんか出来ない。

 自分に出来る事は何だろう、と考えた。シャベル男は、確かに猫を埋葬した。その時、そこに死後の安寧を願う言葉があったかどうかは知らない。俺はそこに居合わせた。言うなれば俺は、葬儀の参列者だ。運命的に巡り合った俺が、一人きりの参列者としての義務を果たさなければならなかった。

 防波堤の所々にある階段から砂浜に降り、シャベル男がならしていった、その場所へ。白い砂浜の一部が黒くなっているその場所。すぐ脇に俺は座り、膝の上にラジカセ。目一杯のボリュームで、ピアノソナタ二番を、最初から最後まで。足が途中で痺れたけれど、そんなの、大した事じゃ無かった。俺は自分の行動に満足していた。自分が、今出来る最善の事をしている、その自信があった。部外者の、いかにも部外者的な満足感だ。その馬鹿馬鹿しさをからかうように、波の音が繰り返し聞こえた。一際、大きな波が来たらしい。離れた場所から、サーファーの「ひゃー」という声が聞こえた。 



 午前五時。少し、窓の向こうに青みがつきはじめた。街はその機能を再び取り戻し始めていた。考え事はもはやその体を成さなくなっていた。俺の思考は、海と猫の記憶を経由して、これまで関わってきた色々な人へと向いていた。初めて付き合った女の子とか、会社にいた、いかにも温和そうな上司、その他諸々。そのうちの何人が、仮に今すぐ死んでしまったとして、少しでもベターな方向へと運んでくれる誰かを持っているだろうか。考えたら、虚しくなった。今の俺には、多分いない。もしこの場で死んだらただの変死だ。マンガ喫茶で息絶えても同じ。解剖されて、事件性無し、と判断されて、所持品から実家を割り出される。そこには何も無い。ただの真っ暗だ。聞きたくもない念仏がずらずらと並べられて、棺ごと焼却炉に放り込まれておしまい。一般的な法要があって、たまに思い出されればまだ幸せ。結論。俺はまだ死ねない。命を代償とした賭けに出られるような状態ではない。

 実家までその距離およそ三百キロ。特急に乗れば、そんなに長い時間がかかるわけでもない。とにかく一度帰る。そして、態勢を整える。生き延びる。日本中の求人案内を調べる。長く、確かに前に進んで行けるような仕事を探す。焦る必要は無い筈だ。最後の手段として、命はいつでも懐にある。それを残しておける限り、俺は何だって出来る。死ねない、と一つ条件がつけば、簡単な事だった。条件を守れる可能性の高い選択肢に絞り込んでいく、それだけだ。

 帰ったら海岸へ行く。帰り道で何枚か、所持金で買える分だけのCDを買う。ちゃんとショパンも。防波堤上にラジカセを置いて聴く。確か、当時のラジカセが実家の押入れに放り込んである筈だから、それが壊れていなければの話。

 もう考えるべき事は何も無かった。問題無い。少しだけ眠ったら、動きだす。そう思い、横になった。洗濯されたばかりのシーツの香りが鼻腔に入り込んできた。眠りが、満足感を包みこんでいくかのように広がっていった。願わくば、目が覚めてからも、今の気持ちがちゃんと続いていますように。

 窓の向こう、急ぐ車のクラクションが聞こえた。ドアの向こうからは、パタパタと誰かの足音。やるべき事を持つ人が、行くべき場所へと突き進んでいく。心配無い。すぐに追いつく。それだけの事だ。

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