第5話 続 ミセス・シェイク
「吹く風や、陽光の持つ力や空の青さ、みどりの深さ。夏の、夏らしい風景の片隅。少しだけ夕暮れが待ち遠しくなるようなそんな時、誰かが誰かを呼ぶ声が聞こえる。声は、幾つも重なる。一か所に集まったそれらは、消えてしまう前に、少しだけ揺らぐ。そんな場所。此処は〝約束された場所〟。さあ、これからどうするか、それが問題」
こういうややっこしい事を言うのは、いつでも同じ奴だ。背中についてる黒い模様がご自慢の、クロサン。先輩だから、サンはつけとかないといけないんだけど、正直、こいつ嫌い。
何処で何を知ったんだか、口を開けばこんな事ばっかり。いい加減、顎とか痒くなってくる。何だかさっぱり分らないっていつも文句を言ってるんだけど効果は無い。今日も同じ。それでしばらく喧嘩して、結局どうでもよくなってまあ、つまり、今日もいつもどおり。
昔、この場所は今なんか比べものにならないくらい温かかった。そんなことを言うとボスに怒られるかもしれないけど、それは本当のこと。みんなきっと、言わないだけでそう思っている。
ちょっと前まであった、何も怖くなくなるくらいに強い温かさ。ボスが言うには、それは全部解決した後に思い出すべき事、だって。懐かしんで何が悪いのさって思うんだけど。小難しいことしか言えないクロサンは、ボスがそういう事を言う度に「そう、その通り」だなんてお追従。本当、こいつ嫌い。
*
僕と三浦君は、二人で夏の坂道を登っていた。汗が際限なく出てきて、そのうちにミイラにでもなってしまうんじゃないか、と思えてくる。持っていたファーストフードショップのロゴマーク入り紙袋も、幾分しなびていた。
ミセスシェイクに会う事が出来るかどうか、というのはそれほど問題ではなかった。かつての三浦君がそこで見たものをほんの少しでも共有できれば、それでよかったのだ。そのために坂を登っていた。手には、ミルクコーヒー味のシェイク。額に汗。身体の奥底には、絶えまなく湧き出てくる後悔。
それは三浦君も同じだったようで、坂を登りながら僕に「終わったらビール」と要求を繰り返していた。気持ちは分かるし、確かにその約束もしていたから、要求そのものは構わないけれど、この暑い中、坂を登りながらビールという単語を口走るのはやめてほしい。
「飲みたくなるだろ」
「いいんだって、俺は今すぐにでも飲みたい」
「あと、どれくらいかかる?」
ほんの少し何かを探すような顔をした後で「大体十五分くらい」と答えた三浦君の顔には、大きな汗の玉が浮かび上がっていた。きっと、僕以上に後悔していることだろう。
ようやく坂道を抜けると、そこは丘の上に密集した、まずまずのクラスであろうことが窺える住宅街だった。道幅が広くないせいか、各家のガレージには軽自動車やコンパクトカーが目立つ。ただし、そのコンパクトカーはベンツのAタイプであったり、プジョーの206であったりしていたし、軽自動車は、日本製の最上級グレードだったり、スマートだったり。貧乏でも大金持ちでもない人々が暮らす街。もうすぐ目的地だった。街の奥に向かって進んで行った先。幾つもの河川が流れ込む湖のような形をしている公園。三浦君が便宜的な呼び名として〝ミセス公園〟という名前を与えてくれたから、僕もそれに倣おうと思う。――ミセス公園まで、あと少し。
*
大切なものがなくなるなんて、結構簡単だ。手に入れるまでと違って、いつの間にか、気づかないうちに無くなっている事が殆どだし。そりゃあ、肌やヒゲの先にほんの少し感じるくらいの事はあるけど、敏感な我々としたら、そんな事一つ一つに気を払っていたら身がもたない。
最初のうちは毎日毎晩、会議、会議、会議。ああでもない、こうでもない。繰り返し、同じような話ばっかり。今から思えば、もうちょっと良いやり方があったような気もする。新しい場所に皆で行こうか、なんて意見もあったし、そのうちに戻ってくるでしょ、なんていう楽天的意見も。意見が出るたびに、それを皆で多数決した。
その結果、決まったのは現状維持。消極的だ、なんて怒って毛を逆立てる奴もいたけれど、最後はボスが決めた。「ソウスルシカアルマイ」とか言って。
今のところ、なんとかやれている。見たところ、周りの様子におかしなところは無い。もしかしたら気が付いていないだけで色々なものが変化していたのかもしれないけれど、別に、気が付かない程度の事でぎゃあぎゃあ騒いだりしないのだ。皆、もう、大人だし。気がつかなければ痛くもない。つらくもない。そんなものは怖くない。
*
ミセス公園は、静かだった。ミセスはいなくとも猫くらいはいるだろう、と思って鞄に猫の餌もほんの少し忍ばせてくていたのだけれど、気配なし。遊んでいる子供もいない。さびれていて、猫にすら捨てられてしまったらしい、哀れな公園だった。
「ここ?」
「そう、ここ。でも、前に俺が来た時よりずっとさびしくなってる感じ」
ここまで来て何もしないで帰るのは嫌だ、という方向で僕達の意見はまとまり、熱くなったベンチに腰をおろして、だいぶん溶けてしまったミルクコーヒー味のシェイクを二人で食べた。買って来たのは全部で三つ。僕の分と、三浦君の分と、もしベンチにミセスがいたら渡してやろうと思ってもう一つ。ちょっとした思いつきだった。よく顔も知らないような人間にいきなりシェイクを渡されたら、ミセスはどんな顔をするだろう。そんな事を言いながら三浦君は楽しそうだった。勿論、坂を登り始める前までは、と付け加えておく必要があるのだが。
「ミセスがいたら名乗ってやろうと思ったのに」
「何て名乗るんだよ」
「あの店の元店員です。ミルクコーヒーシェイク、復活したんですよってさ」
「もし僕がミセスだったらそんな何年も前の事覚えている自信ないけどな」
「案外、年とっている人ってそういうの覚えてるもんだって。うちのじいちゃんとかそうだったし」
半分以上が溶けてしまっていたシェイクは、不味くはないものの、不愉快でないか、と言われればちょっと首をひねってしまうくらいのものにはなっていた。上手く伝えられない感触だ。百八十九円が九十八円くらいにはなってしまっているかもしれない。うん、大体、そんな感じだ。ちょっと曖昧かもしれない。何せ、僕としても半分以上溶けてしまったシェイクを食べる機会など、そうないのだ。これを完璧に表現するためにはあと百回とは言わなくとも、三十回くらいは同様の経験を積む必要がある。そんなもの積みたくもないけれど。たとえこの拒否によって、溶けたシェイクの感覚を的確に伝える術を手にする機会が永遠に失われたのだとしても、僕は別に構わない。
シェイクをほとんど食べ終わったあたりで、猫が一匹、草むらから姿を現した。赤茶けた毛をしていて、体格はかなり良い。食べるのに困っている、という様子ではなさそうだった。彼(彼女)は僕の方を見て、それから、三浦君を見て、「にゃあ」とひと鳴きしてから草むらに帰って行った。なんだか〝出て行け〟と言われたみたいだ。
「今の猫もミセスの周りにいた奴かな?」
「それこそ、俺が覚えているわけないじゃん」
持っていた紙袋にシェイクの空き容器をしまいながら三浦君は言った。シェイクで身体の中身だけ半端に冷やされたせいか余計に際立った暑さの中では、あの猫がミセスの関係者なのかどうかなんてどうでもいい事に違いなかったし、出て行けと言われなくても、長居できるような場所じゃなかった。
「もう飲みに行こうぜ」
そうして、僕達はベンチから立ち上がった。草むらの方が、かすかにガサガサと鳴った。猫はきっと喜んでいるのだ。部外者が帰る、よかった、何もされなかった。今日も我々の勝利なのだ、なんて思っているに違いない。この場所では猫が会議で評決をし、部外者の排除を行い、その日一日の無事を喜びながら親愛なる長であるミセスシェイクの帰りを待ち続けているのだ。リーダーがいて、いつもそいつは寝ているけれど、大事な時、誰よりも優れた決定を下す。その下には、自由でいい加減な楽天家や皆から変わり者扱いを受けている芸術家風の奴。気難しくて、扱いの難しい学者風の奴。他にも沢山。毎日毎夜、わいわいにゃあにゃあとやって、虫じゃなくてササミが食べたい、だとか、ノミ許すまじ、だとか。
そんな想像と、頬を伝う汗。現実は今日もしっかりと僕たちの身体に絡みついている。分かっている。それ自体は別に悪いことではない。左手の甲にやぶ蚊が一匹、張り付いていた。
*
「帰った?」
「おそらくは。しかし、確証が得られないうちは軽率な行動を起こすべきではないと考えられる」
「また来るかな?」
「どうでもいいだろそんなの。腹減ったよ」
「もしまた会えたらその時こそは、一声挨拶、我ここに有り」
「仲良くなろうとしてどうすんのさ。ねえ、それより、また来たらどうする?」
「文句言いに行こうよ、そこには座らないでって」
「言う事聞いてくれなかったら?」
「そんなこと知らないよ。早く、食事探しに行こうぜ」
「あの人たち、何か持ってたね」
「うん。だけど、何か持ってる人たちなんていっぱいいるよ」
「まあ、そうだけどさ」
「少しは静かにしたまえ。何が起ころうと臆する事はあるまい。我々は皆で話し、決めることが出来る。その術を持っている我々が恐れるべきことなど、そんなに沢山はない」
皆で好き勝手に騒いでいると、ようやく陽が傾いてきた。時たまやってくる気まぐれな人たちも、このぐらいの頃合いになると皆帰っていく。ようやく、安心の時間。
ボスの声。ご飯を探しに行く時間みたい。忙しくなるみたいなので、また後で。
*
夜が来た。風が気持ち良い夜。もうすぐ秋だ。お腹も一杯になったところでボスの号令。今夜の会議が始まった。
これからは現状維持じゃなくて、現状打破だとか何とか。クロサンの言うことほどじゃないけど、ボスの言葉も結構難しくて分らないことが多い。でも、ボスは好き。難しいことを言った後で、ちゃんと優しく教えてくれる。クロサンも少しは見習えって、毎日のように思う。
全員揃って会議に飽きたあたりで、またしてもクロサンが意味不明な事を言い出した。
「囁き声が、小さな渦のように広がっていく。やがて、決めるべき事が決まると、朝が待ち遠しくなってくる」
「まだ何も決まってないんじゃないかなって思うんだけどね」
文句を言ってやった。あっさり無視された。
「宵闇の中で、誰かが私を呼んでいる」
「呼んでるんじゃなくて、意味分からないから止めてって文句言ってるんだよ」
「夏の夜。深い緑と空の黒。風が一筋、通り過ぎて行く。ここは、〝約束された場所〟。温もりがあった場所。さて、これからどうするか。それが問題」
もういいや、どうぞご自由に。
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