第4話 HOME
家は広大な農場の一番奥にあった。十世帯ばかりが共同経営する農場で、僕の家がその全体のリーダーを務めていた。隣の国とのこじれきった関係なんかまるで無視して、父親はいつでも天気の事を気にしていた。外の世界で何が起こっていようと農場が気にするべきは作物の実りだけ。父は、僕や農場全体に何度となくそう言っていた。
農場の中心を蛇行しながら貫く道を歩くのが好きだった。季節ごとに色合いが決まっていて、農場全体が殆ど足並みを乱さずにそれに倣っているのを見るのは気分良かったそうやって穏やかに日々が繰り返されていく事がいかに幸せであるかを僕に教えてくれたのも父だ。当時の記憶は、大体がそんな父の教えを中心としている。
そのイメージは幸せで、前向きで、希望に満ち溢れた世界。夜明け過ぎから始まって、夕暮れとともに終わる一日。季節ごとに違う農場の仕事を終えて家に戻ると、温かい夕食があって、明日すべき事を確認して、犬と一緒に眠る。そんな毎日。幸せで、前向き。今ならば言える。そんなもの、続くわけがない。
農場を僕が出ることになったのは、十歳になってすぐの事だ。父に支度を命じられ、母が、不思議がる僕を半ば無視して荷造りをした。何かが起こりつつある事を当時の僕よりも早く気付いた犬が、その日はしきりに吠え続けていた。
出発の朝は、溶け始めた雪の上に音も無く冷たい雨が降っていた。家の前に、市街で暮らす祖父母の車がつけられた。母が、外套のフードをかぶせてくれた。どうして行かなければならないのかは最後まで教えてくれなかった。父は黙りこくったまま、僕の方ではない、何処か遠くを睨み続けていた。
僕が乗り込むとすぐに車は動き始めた。吠える事にも疲れたらしい犬が、じっとこちらを見ていた。父も母も俯いていた。不安で、怖くて、窓を開いたり、運転する祖父を問い詰めたりしていたら、隣に座っていた祖母が優しく抱きかかえてくれた。
「大丈夫、今より悪くはならないから、きっと、ね」
意味なんか、殆ど理解出来なかった。理解したくなかっただけかもしれない。
*
市街で暮らした時間を否定するつもりは無い。嫌な事も沢山あったけれど、楽しい事だってそれなりにあった。人が多くて、目まぐるしくて、やってみたい事も知りたい事も、途絶える事なく押し寄せてきた。父が教えてくれた〝幸せ〟とは程遠かったけれど、それもじきに忘れた。
家からは、時々手紙が届いた。農場の様子を伝える簡単な手紙と、祖父母に宛てられた、当時の僕には理解出来なかった手紙。いつも、二通一緒に届いた。難しいほうの手紙に何が書かれていたのかは知らないままだ。祖父は、読み終わるとそれを必ず暖炉で焼いていた。きっと、断片的にでも当時の僕に知らせたくなかったのだろう。焼いているのを見つけた僕がそれについて文句を言う度、祖父はただ静かに、大丈夫だよ、とだけ言った。何度か繰り返して、祖父がそれに触れて欲しくないのであろう事に気付いて、僕は何も訊かなくなった。
農場を出なければいけなくなった理由を知ったのは十五歳の頃だ。字を読み、その意味を理解出来るようになった僕は、新聞記事や、何冊かの本によってそれを知った。僕が農場を出た年は、数年来の不作がより窮まった年であり、隣国との小競り合いが本格化し始めた年。戦争になったら真っ先に農場から壊される。そんな噂も広がり始めていた。それは所詮噂に過ぎなかったけれど、国の政策として農場に暮らす子供のうち健康な者は軍の予備隊として専門の学校に入校させる旨の通達があったらしい。先手を打ち、祖父母の面倒を見るという口実を与えて僕を外に出したというのが本当のところらしい。
農場からの便りが無くなったのが十七の頃で、それとほぼ時を同じくして祖母が死んだ。祖父は相変わらず〝大丈夫だよ〟と言い続けていたけれど、十八の誕生日まであと三日、というところで亡くなった。
僕はそれを伝えようと、何度も農場に手紙を書いた。返事は一度も戻ってこなかった。何通目だったかは忘れたけれど、〝そこには誰も住んでいません〟と通知が戻ってきて、諦めた。国中の農場の整理、集積と、それによって浮く人手の徴兵が進められていた年だった。転居の可能性は十分にあるし、祖父がそれを報せる手紙を焼いた可能性は極めて高い。今からおよそ三年前。当時の僕は、自分ではもう十分大人のつもりだったけれど、祖父は僕のことを最後まで子供として扱った。住所を知った僕がろくに考えずに農場に帰ってしまうことを危惧していたのだと思う。悲しいけれど仕方がない。もう、過ぎた事だ。
*
一人になって、何もする事が無くなった僕は、気の向くままに色々な仕事をした。新聞も配ったし、解体工もした。農場出身の人間を求める塾で、農場がどんな場所だったかを子供に教えたりもした。テキストに書かれている農場の歴史に、自分が見ていた景色を重ね合わせて喋るだけ。市街で生まれ、市街に暮らす子供達は、僕が話す昔の農場が、遥か彼方の理想郷のように思えたらしい。本当にそうなのだろうか、と思った。もしかしたら、本当にそうなのかもしれない。
塾で使ったテキストによると、かつて国はその政策によって、市街と農場を明確に区分した。それによって出来たのが、国の南側に複数ある、大規模農場だ。区域ごとに国が作物を指定し、事前に定められた量までは国が買い上げ、その作物が市街に流通する。農場は貨幣を得て、自分のところの作物以外の物品を買う。このシステムは、国家の安定に大きく寄与したらしい。本当かどうかは知らない。
市街と農場の人口バランスは国によって調整され、農場が人手不足に陥れば市街に暮らす人々のうち、希望する人間が農場にまわされる。国全体の人口は増加の一途だったから、システム構築直後のそれとは比べものにならないほど小さな農場が数え切れないほどに作られた。僕が子供の頃過ごしたのも、その手の小規模農場の一つらしい。子供の目からすれば、世界にも等しい広さだったのだけれど。
十年前、隣国との関係がいよいよ後戻りの出来ない状況に至った直後から国は、農場に関する方針を一変させた。一定以下の規模の農場をほぼ全て閉鎖し、浮いた土地や機械を軍用化、手の空いた人間は軍隊へ。そんな計画を力任せに推し進めていた。その結果、市場からは物が減り、それにつれて物価が急騰、多くの人が飢え始めた。国外に逃げ出す人も年々増加している。このままの状況が続けば、そう遠くない未来に国ごと壊れる。農場が死に、市街が死に、誰もいなくなる。その時、僕は何処でどうしているのだろう。逃げ場所のあてもないから、多分、兵士にでもなって、昔を懐かしみながら死んでいくことになるのだろう。主観的には、自分は人並みに不幸だと思うけれど、祖父母が人よりも裕福であったおかげで、僕は今のところまだ、飢えてはいない。手元には、遺してくれたお金がまだ十分にある。おそらく、向こうしばらくは困らずに生きていける。相対的に見れば幸せなのかもしれない。
*
思い出しながら歩く農場の道は、耳が壊れそうなほどに静かだ。足を一歩、前に出す。足音が周囲に広がり、何に邪魔されることなく消える。今にも雨が降り出しそうな空が、頭上に広がっている。誰の声も聞こえない。足元にあった石を蹴りあげると、道の脇にあった、随分昔に枯れてしまったらしい木に当たり、僕を馬鹿にしているかのような間抜けな音を一つ鳴らした。季節は冬の始まり。もう少し経てば、雪が辺り一面を覆い尽くす。雪を待つこの時期は、一年を通して一番寒々しい。
軍に入る事になって、一度帰っておきたくなった。何の意味もない。十年経って様変わりしているだろうし、両親がもう何処かに行ってしまっている事も確定している。きっと、僕が見て面白いものなんか、何もない。分かっていながら、それでも来た。多分、そうしなければ区切りがつかなかったからだ。もう、農場から逃がされた僕ではない。その確認。
十年前は毎日のように通った道。農場を、蛇行しながら奥まで貫く道。農場で生きる人々の家がまばらに建っていて、それぞれの家が管理する農地が広がっていた場所。収穫時期には、柔らかい風が実った作物を一斉に揺らして、穏やかで幸せそうな風景を作っていた場所。今はもう、誰ひとりとしていなくなっていた。
農耕用の車両が置き捨てられている。随分前に積み上げられたままらしい藁の山が幾つか見える。道の脇、幾つもの家は、その殆どが価値を失っている。僕は、目に着いた風景を、祖父の遺品のカメラで撮影した。いつか思い出したくなった時に、きっと必要になる。
しばらく歩いて行くと、途中で家族らしい一団がトラックに荷物を積み込んでいるところに遭遇した。知らない一家だ。住んでいた頃は、当たり前のように全ての家と顔見知りだった。時間が経てば、新しい人だって来る。そんなの、驚くことでもなんでもない。出て行く人だっている。それも当たり前。その一家も見るからに、出ていこうとしている様子だった。
「お引っ越しですか?」
「此処も閉鎖だ。行きたくなくたって行くしかねえよ……まあ、軍に刈り出されないだけ幸せかもしれんけどね。俺は、ここがあんまり良くないんだ」
トラックの荷台で荷物を縛っていた一家の主らしい男に声をかけると、男は返事に続けて、自分の胸の辺りを軽く叩いた。
「東側から飛行機が来る。去年くらいからやたらと増えたよ。そのせいかね、咳が一度始まると止まらなくなるような体になっちまった。医者のお墨付きも貰って、軍からも免除の手紙が来た。なのに咳で死にそうなんだぜ? まだ死ねねえんだけどな、ガキも小せえし」
見るからに裏の無さそうな笑顔を崩さず話す男と別れて更に奥へと進むと、雨がパラつきだした。肌を触れる感覚で、まだ雪にはならないであろう事が分かる。あと、五回か六回、こうして雨が降る度に気温が下がっていって、そのうちに農場は白く閉ざされる。僕がいようといなかろうと変わらないし、この場所に住む人が誰もいなくなっても、変わらない。今さら何を、と自分で考えていておかしくなってくる。こんなの、これまでわざわざ言葉にする必要も無かった事だ。ひとつひとつの当たり前が、嘘みたいに痛い。帰ってこなければよかったのかもしれない。
*
家についた。間違いなく、かつて僕が住んでいた家だ。随分前に出て行って、それ以来誰も住んでいないらしい。“FOR RENT”と書かれた看板は、判読に苦労するくらいに文字がかすれていた。看板が用意された頃はまだ、誰かに貸すつもりだったのだろう。
鍵はかけられていなかった。中に入って真っすぐ進むと、すぐにダイニングキッチンがある。その奥は寝室やトイレ、物置代わりにしていた客室。誰もいない事なんて、わざわざ確認するまでもない。
ダイニングキッチンの壁は、当時飼っていた犬のせいであちこちが削れている。木製の床は、あまり脚のよくなかった母が杖をついていたせいもあって、いたるところに小さなへこみがある。僕が住んでいた頃にあった家具の類は、ダイニングキッチンのテーブルセット以外、全てなくなっていた。家に最初から備え付けてあったものなのだろう。埃にまみれながらそこにあり続けるテーブルセットはきっと、世界中でも上から数えたほうが早いくらいに不幸で哀れだ。何処にも行けない。行くべき場所も無い。帰る時にいっその事燃やしてやったら、いつか、生まれ変わって恩返しにでも来るかもしれない。
四脚ある椅子の中から当時座っていた椅子を選んで座る。あの頃は座ると足が床に届かなかった。今では少し窮屈なくらいだ。見れば分かるのに、どうして僕はそんなことをいちいち確認しているのだろう。埃まみれのテーブルにそのまま突っ伏し、思いを巡らせた。埃と木の臭いが鼻につく。まるで僕に抗議しているかのようだ。今更何をしに来やがった、とでも言いたいのかもしれない。そんなもの無視だ。後でちゃんと燃やしてやる。
心の中心に痛みが一つ、居座り続けていた。多分、落胆と呼ぶべきもの。そうだとして、僕は一体何に落胆しているのだろう。僕がこの場所に来た理由はただ一つ。今日までと明日からをはっきり分けたかった。それだけだ。僕はそれ以外何も期待していない。落胆する理由なんか何処にもない。僕はそう主張する。何かがそれを否定する。痛みが、じわりと蠢く。僕は答えを探し続ける。落胆の薄闇の中を、奥へ、奥へと分け入っていく。そこに何も存在しない事なんか最初から知れたことだ。
雨は少しずつその勢いを増していき、今では屋根に当たる音がうるさいほどだ。答え探しに疲れた僕は、もうすぐ始まる〝明日から〟について、誰にともなく祈る。願わくば、新しい日々が、穏やかで幸せなものでありますように。
誰に何を言われようと、晴れるまでは動かない。そう決めて、僕はそれまでよりも固く目をつむった。
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