第3話 調香師
バス停の片隅にはベンチが一つ置いてあって、そこにいつも座っている老人がいた。そのバスにとっては終点にあたる停留所で、市街の中心地。朝のラッシュ時には、バスが停留所につくたびに何らかの刑罰を終えたかのような人の群れがどさりと吐きだされてそれぞれの行くべき場所へと向かう。老人はそんな光景を見ているようなそうでないような、ぼやりとした顔つきで眺める。何度か目線を送ってみたけれど、老人の目は、わたしよりもずっと遠くを見ているらしく、目線がぶつかったりすることはなかった。
朝夕も天気も関係なく老人はずっとその場所に居続けている。平日、職場に出るために私がそのバス停を使う時にはいつもいた。同じ職場の友人によると、休みの日でも変わりなくいるらしい。酷い雨降りの日はずぶ濡れになりながら相変わらずの遠い目をしていたし、台風が近づく強風の日は、かぶっているハットを手で押さえながら、やはり何処かを眺めていた。
よれよれのスーツに、同じぐらいくたびれたハット、塗装が剥げた古いステッキに、銀縁の丸眼鏡。擦り傷だらけの革靴は、よく見ると左右が別の靴だった。多分、行くべき場所も帰るところもない種類の人なのだとは思う。その良し悪しは私の興味の範疇じゃないけれど、世の中にはそういう人が確かにいる。毛嫌いする理由は無いけれど、別にお近づきになりたいとは思わないし、思えない。
「おかけなさい。きっとすぐに良くなるだろう」
老人にそう言われたのは夏の盛りのことで、私は朝から体調が悪かった上にラッシュのバスで揺すられて今にも倒れそうな状態だった。きっと、酷い顔をしていたのだろう。バスから降りるなりそう言われた。座れ、と言われれば何処へでも座り込みそうな気分の悪さだったけれど、それでも少し逡巡した。その老人に声をかけられているだけでもバス停から早足でそれぞれの会社へと向かう人々のうち何人かが私の方を見ていた。隣に座りでもしたら、きっと、もっと多くの人が私のことを記憶に留めるはず。もしかしたら同僚にも見られるかもしれない。そんなことになったら、きっと私は会社を辞めたくなる。だって、完全な誤解なのだ。私は皆と同じ、老人を無視してさっさと仕事へと向かう極めて一般的な人間だ。バス停に無目的に居続けるおかしな老人と一緒にしないでくれ……なんて、こんなにはっきりと嫌悪しているわけでもないけれど、じっくりと探ってみれば、多分そういう気持ち。皆と違う行動に出ることがただ怖いだけ。結局座った。あれやこれやの迷いなんかどうでもよくなるほどに体調が悪かった。腰かけると、良い香り。シトラス系? 心に新鮮な空気が行き渡るような感じ。
「香りというものは、それ自身が扉にもなるし、また、鍵にもなりうる」
老人はそう言い、枯れ果てた樹皮のような拳の中握っていた、飾り気のない小瓶を私に見せてくれた。
「どうやら、貴方はこの香りと相性が良いらしい」
にこりと老人が笑ったから、私もあまり得意な表情ではないけれどにこりと笑った。鞄の中から携帯を出して、会社に連絡を入れた。具合が悪いので少し休んでからいきます。いつもだったら、そんなに簡単に休んだり遅刻したりしないのに。
*
十五年前ぐらいまでは調香師として第一線で働いていたらしい。定年で引退してそれから十年ぐらいは大人しくしていたけれど最近はこうして外に出続けている。近くにアパートを借りていて、終バスを見送ると帰って眠り、また始バスの頃に起き出してきて此処に座る。それが、老人の教えてくれたプロフィールだった。
「帰る場所はもう無い。妻に先立たれた時、家の中が線香の匂いで満ちてしまった。つまりそれは死の香りなんだ。妻には悪いが家を捨てた。此処は色々な匂いが落ちている。私はそれを一つずつ嗅ぐ。時々、そう、扉が開くんだな」
私も自分のことを話した。老人に、「貴方はどんな人なのかな?」と訊かれたから。話したくはなかったけれど仕方が無かった。元々は私が「どうしていつも此処に座っているんですか?」なんて余計なことを訊いたのが悪いのだ。
私。二十七歳、女、独身。缶詰をひたすら製造する会社の受付。あちらこちらからやってくる来客をより分けるのが仕事だ。お約束はございますか? なんて言って。一日に少なくとも二人は飛び込みの営業がやってくる。どうせなら、うちみたいな受付を設置していないもっと小さなところに行けばいいのに。
先の事なんかは考えても悲しくなるだけだから考えない。十年後には結婚していたいけれど予定もなければ相手もいない。もし今のままの状況で私が仮に突然死したら悲しむ人間は十人もいないはず。仕事は好きだけれど死ぬまで同じことをしていたいとも思わない。だからと言って他に何かやりたいことがあるわけでもない。それが私。
私がいつも使うバスよりも一台遅い便がやってきて、ひとかたまりの群衆を置き捨てていった。沢山の人が私と老人の方を見て、それから歩いていく。今日は仲間がいる、とでも思っているのだろう。少しずつ体調が良くなってくるにつれて、そんな類の人々の目線なんかどうでもよくなってきていた。人々を降ろしきったバスが行き先表示を〝回送―Out of service―〟に変えて走り去っていった。ディーゼルエンジンが身軽になった喜びを表すかのようなうなり声をあげ、周囲にガスの臭いが広がる。老人はそれを喜ぶかのように目を細めていた。
「大きな車と言うのは、大変なものだね。乗っている時には何も考えなくとも、降りた直後に臭い、煩いと文句を言う輩も多い。貴方もそういう気持ちになる時があるでしょう?」
「それはまあ……なりますけど」
「そういう時はね、気持ちに一枚の扉を立てれば良い。とても、とても簡単なことなんだ。排気ガスの臭いが我々の生活と切り離せない以上、最も簡単で理想的な方法かね」
老人はジャケットの胸ポケットから先程のものとは違う小瓶を取り出し、その蓋を開いた。
「これはアロマオイルだがね。ベンゾイン、つまりは安息香だな。甘く、どっしりと重い香りがする。この深遠な香りが、気持ちの中でも特に壊れやすい部分をそっと守ってくれる」
老人は私の鼻先にその瓶を近づけてくれた。確かに言う通り、甘くて強い、眩暈のするような匂いがした。私は少し苦手だ。それに、気分が良くない時に嗅ぐべき匂いではない気がする。
「あまり貴方には向かない匂いだったようだ。失礼」
そう言って老人は瓶に蓋をし、元通りそれをポケットに収めた。
「いつもそうやって、何種類も香水を持っているんですか?」
「そうさね。必要に応じてではあるけれど、五種類か六種類ぐらい。その場所に適した香りを探したり、その人に適した香り……更には、その人の、その時の気分に適した香り。ぴったりとはまるものが見つかれば嬉しいし、なかなか見つけられない時には残念な気持ちにもなる。趣味だが、これまで生きてきた証のようなものでもある」
気分は殆ど〝異常なし〟と言えるぐらいに復調していた。そろそろ会社に行こうと思います、と老人に挨拶をして立ち上がると、老人はまた先程とは別の小瓶を取り出し、それを渡してきた。
「今の貴方には相応しくないからまだ開かないように。今度ね、元気で、時間があって、特にすることがないような……出来れば午後が良い。開いてみなさい。私が読みとった、貴方にぴったりの香りだから」
いらなくなればトイレにでも流してしまえばいい、と言われたから一応、受け取っておいた。この場で頑なに拒むほど邪魔になるものでも無かった。私にぴったりの香り、なんていう、街のあちらこちらの化粧品店なんかでさんざん耳にするようなフレーズには一つも心を動かされなかったけれど。
*
夏が終わって、秋が過ぎて、冬物を出さないと、なんて思っているうちに年末になっていた。寒いのが得意でない私としては暖冬傾向おおいに結構……自然保護団体が耳にすれば怒り出しそうだ。年がいよいよ押し迫ってくると、ちゃんと寒くなった。これでお前らも満足だろう? と何処かにいる自然保護団体とやらに悪態をついてみる。気持ちがくだらないことでぎすぎすとするのは全部寒さが悪いのだ。
缶詰工場は年末になると結構な忙しさに見舞われる。贈答品や年越し用の保存食なんかの需要があるせいだ。私は受付だからあまり関係は無いけれど、全社を挙げて就業時間を一時間半延長する、などという馬鹿げたルールがあるせいで影響を受ける。それでも、私達のような生産や営業に関わらない社員にはちゃんと残業手当がつくからまだマシだ。主要部門の連中には一円の残業代もつかない。賞与でその分を充当している、とか言う会社の一方的な主張によって。よくもまあ皆、怒らずに働いているものだなあ、と思う。
例の香水瓶はずっと鞄に入れたままだった。元気で時間があって特にすることのないような午後、なんて私にとっては異世界だった。いつでもどれかが欠ける。時間が有り余っているくせに体調が良くない時もあるし、元気で活力に満ち溢れているのにそれが深夜遅くで、さてこの元気を何処に捨てればいいか……なんて時も。世の中が上手くいかない、なんてあまりにも多くの人が言うことではあるけれど、もうちょっとなんとかならないものか、と私はいつも思うのだ。
老人とは平日毎朝、毎夕バス停で会う。会話はしない。私自身にその理由が無かった。ベンチに座っている時間も無かった。老人は私と目が合うたびににこりと笑う。仕方がないから私も、にこりと笑う。得意じゃないって分かり切っているのに。
*
いよいよ、と言うほど大げさなことではないかもしれないけれど、私は今、例の香水を開こうとしている。体調の極めて良い休日の午後で、特にやるべきことはなかった。会社の同僚と買い物に行く約束をしていたけれど、その友人が前夜に転んで足を挫いて中止になっていた。冷え込みの厳しい日だったけれど快晴だった。状況良し、好機到来。と言うよりも、今日を逃したらもう永遠に開かないような気もする。
家のリビング、テーブルの上に小瓶を置き、そっと蓋を開く。
穏やかな、木漏れ日のような香りが最初感じられた。強くはない。注意深くしていなければ分からないような、かすかな芳香が小瓶の口から立ち上り、部屋をゆらゆらと漂う。空気が透き通っていく。築十五年家賃八万円1LDKの部屋の屋根や壁が一緒に透き通っていく。私は何処とも分からない大きな木の下で、刻々と姿を変える木漏れ日に顔を向け、目を閉じて深呼吸をする。私の身体もまた透き通っていく。遠い世界に運ばれる。必要なものだけがそこにはあって、私は一番小さな単位まで分解される。私の中にうずたかく積もっている気持ちの山が次々に壊れて、何処かへとばらばらになって飛んでいく。何でも出来るような気持ちになってくる。何処へでも行ける。何も怖くない。今日の一歩先に明日がある。後ろにはちゃんと、昨日、一昨日、先週。これからも、もうしばらくは大丈夫。私が、透き通っていく。
*
翌日朝、バス停にいつもと変わらない姿で座っていた老人に香水を開いたことを話した。
「そう。どうでしたかな?」
貧弱な語彙でもって私は香水から感じたイメージを伝えた。老人はただ笑うばかりだった。
「貴方がそう言うのならきっとそうなのでしょう」
「あれ、なんていう香水なんですか?」
「名前はないですな。何処かで売っているものでもないし、自作だよ。それに、もう代えはないしね。随分昔に作ったものだからもう配合を覚えていないんですよ。年ですな」
「そうなんですか? 良かったからもし売ってれば買おうかなと思ったのに」
「そう。ありがとうね」
私の降りたバスが、路線の反対側の停留所の名前を行き先表示板に出し、走り去って行った。老人がにこりと笑う。私も、にこりと笑う。これまでよりはちゃんと笑えた気がした。
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