第2話 風

 五年前、彼は中南米に殆ど何の準備もせずに乗り込んで、本当に最低限しか用意していなかったいくらかの手元現金のほぼ全てを脅しとられた。現地に暮らす日本人の〝コウさん〟とやらの助けがなければ死んでいたというのは彼自身の談。後から立て替えてもらった航空チケットの代金を返金する約束をしていたと言うが、今のところその約束は果たされていないはずだ。彼は、銀行振込みすらろくに出来ないのだ。海外送金などという高度な作業を彼に覚えさせるには少なく見積もっても十五年は必要だと思う。彼は何処までもいい加減で、自由で、自分勝手だった。当時の僕はそんな彼をいくらかの眩しさと気味悪さを持って受け止めていた。

 中南米から戻った彼は一月ほどしてまたすぐにいなくなってしまった。目的地は不明。それから彼は三か月ぐらいして特に前触れもなく戻ってきた。いったい何処へ行っていたのやら。

 三年前、彼はイギリスで不穏当な事――彼は決してそれについて語ろうとしない――をして二週間ほど留置場に入れられていたらしい。中南米の頃よりも旅慣れた彼は、彼曰く「入念な準備」を行ったそうだが、結果的にはそれはろくに役立たなかったのだろう。分解して持ち運び可能な自転車は初日に川に沈んだ――どうしてそうなる?――そうだし、現金は脅し取られることは無かったそうだが途中で物乞いに半分を渡し、残り半分も〝気が付いたら〟無くなっていたそうだ。そして身柄拘束。それでも強制送還ではなく自力で帰国してきた彼はまず間違いなく一般的な成人男性と比べても遥かにタフで、幸運だと思う。もし僕が彼と同じような振る舞いをしたら、おそらく三日と持たず自己嫌悪で立ち上がれなくなるだろうし、例えば彼と同じような渡航を実行に移してしまったすぐさま射殺なりされて、ニュース番組の隅で一週間ぐらいの間馬鹿にされることになると思う。つまり、そう、彼は選ばれているのだ。誰にかは分からないが、確実に選ばれている。そんな彼は今、僕の目の前でハンバーガーを食っている。トレーの上に一番安いバーガーばかり四個並べて、幸せそうな顔をして。

 都心の地下鉄駅からほど近いファストフード店。洗練という言葉の真逆に位置していそうな、すりきれた軍払い下げ品のリュックサックに、白いタンクトップ、足元は下駄ばき。白く粉を吹いている短い黒髪に、片側のレンズがひび割れた眼鏡をかけた彼は、一心不乱にハンバーガーを食っている。二つめの包みに手を伸ばした。

「大事な話がある」

 彼からの呼び出しは三日前。珍しく慎重そうな声色だったし彼と最後に会ってからそれなりの時間も経っていたから懐かしさもあって約束した。二十台だった僕はまだ彼に眩しさを感じることも確かにあったけれど、三十はやはり一つの節目なのだと思う。今、僕は後悔と鬱陶しさしか感じていない。来なければ良かった。



 彼と初めて知り合ったのは、僕が最初の就職に失敗してフリーターになった直後ぐらいの事で、僕は二十三歳だった。不法侵入まがいのチラシ投函を請け負う会社に勤めた一年弱については思い出したくもない。何のために大学に行ったのかも分からなかったし、就職で何がしたかったのかも分からなかった。十年後どうするのか、であるとかその手の事は何も考えていなくて、好き勝手に生きて失敗した結果として出来た二十三歳の僕は、どこまでも不自由で、子供でも大人でもなくて、税金もろくに支払えない人間だった。そして、面倒な事にそういう出来の悪さと自己嫌悪がまっすぐに結びついていた。あまり関わり合いになりたくない種類の人間であったことは間違いないし、仮に今の僕が当時の僕と他人として知り合うことが出来たとしたら、まず親密になることはない。僕は、二十三歳の頃の僕のような人間が大嫌いなのだ。

 再就職をして人生を立て直さなければいけないような気もしていたけれどその方法を僕は知らなくて、いかにもインスタントなフリーターになった。誰がやっても同じ仕事が生産され、そして同時に消費されていく。僕はその消費者の一人で、生きる気力に満ち溢れているような事もなく、とりあえず最低限の稼ぎを得るためだけに仕事。僕にも僕なりの事情があって実家の両親には金銭的な援助を乞うことが出来なかったのだ。税金や年金は一時的に見なかったことにするにしても、衣食住を確保し維持していく必要があったのだ。

 コンビニの夜勤スタッフもやったし、解体現場で撤去もやった。同時期、彼は既に大ベテランのフリーターであり、僕と知り合ったのはパンの製造工場の積み込み作業だった。工場の中から次々に吐き出されるパンのコンテナをトラックに積み込んでいくだけの仕事。クリスマス前の忙しい時期で、バイトは僕と彼の他にも大勢いた。その中の誰よりも楽しそうに彼はパンを積み込んでいた。見るからに溌剌としていた。それほど明るくもない照明の下での作業なのに、彼だけは、本当にギラギラと、まるで彼自身が発光体であるかのようにその目を輝かせていたのだ。まだ眼鏡にひびも入っていなかった。 

 あらゆる物事を保留していた僕とは異なり、彼は極めて前向きに物事を処理している、前進中のフリーターだった。資金を貯めて海外へ出る。日本という枠組みは馬鹿馬鹿しい。自分は良くも悪くも日本人としては〝変〟。夢は一人芝居の役者。休憩室で「どうしてそんなに元気なのか」とちょっと声をかけたところから始まった彼の演説はそれほど長いものではなかったけれど、シンプルで、とても完成されているように僕には思えた。真っすぐに僕の目を見て喋る彼は異次元的な引力を発していて、その引力に僕は吸い込まれたのだ。確かに当時の彼には引力があった。今の彼にもあるのかもしれない。もしかしたらそれは、彼の事を知らない人間にしか作用しないのかもしれないが、それはどちらでも良いことだと思う。僕は吸い寄せられた。圧倒的に。



「最近あんまり良いバイトがないんだ。派遣が良いの悪いのって、ほら、よく分からんけどそういう事になってるから迷惑だよ。困るわ」

 三つめのバーガーの包みをほどきながら彼はそれほど困っているようには見えない様子だった。好き勝手に季節問わず動き回っているから年中浅黒い彼の肌は前に会った時よりも更に黒さを増しているように見えた。前に会ったのが二年前で、僕は二十台の最終コーナーを曲がりはじめていた。彼は自分が何歳であるのかも忘れたように変わらず自由奔放のままで、次は中東をずっと歩くだのなんだのと実現するのかどうかもよく分からない旅行計画について話していた……ちなみに実現したらしい。より黒くなった原因が砂漠地帯の直射日光がどうこう、という彼の話が本当なのかどうかは分からないが蠍に刺された痕とやらまで見せられた。何にしても自宅と職場を往復するような標準的な生活をしていたわけではないことは確かなようだった。

 バーガーを綺麗に片付けて、今度は水。カップに入った氷ごと口に放り込んでがりがりとかみ砕くと、四つ目のバーガーに手を伸ばしかけてやめた。

「食うか?」

「……いらない」

「そうか」

 彼はそれを躊躇う様子もなく自分のリュックサックにそのまま放り込んだ。

「こういう店のやつって一週間ぐらい鞄に放り込んでてもそのまま食えるんだ。すげえよな」

「大事な話ってなんだよ」

 知り合った当初から彼はまるで変わらない。放っておけばいつまでも行先不明の話題を探しては放り投げ、また探す。つい先を急かして僕は我ながら意外なほどに寂しい気持ちを覚えた。分かっている。彼みたいに〝留まって〟いられるほうが稀有なのだ。みんな順番に進んでいく。或いはこぼれていく。押し出されていくのだ。

「ああ、今度公演やるから、その案内とか」

「深刻そうに〝大事な話〟って言ってたのに」

「それ、実は今度の芝居のキャッチフレーズでな。〝大事な話がある〟って太いゴシックで書いたチラシのイメージ? まあ作らないんだけど」

「作ればいいじゃないか」

「パソコンとか持ってないし、よく分からんもん」

 パソコンとプリンターぐらいなら家にあるから作ってやろうか、と思った気持ちは声になることもなく消えた。あらゆる物事を保留していた当時の僕とは異なるのだ。時間は有限で、僕は好むと好まざるとに関わらず前進を強いられている。会社で推挙されて係長になった。折込広告の営業職、今年で五年目。あれこれと文章を書くこともなくなったし、本を読むことも殆ど無くなった。押し出されて、前進を強いられているのだ。押しているのは多分、彼のような種類の人間だ。彼が彼であり続けるためにそれが必要だから。それぐらい、今の僕にはちゃんと分かるのだ。三十歳は多分、そういう事に気が付き始める年齢だから。

「でさ、ビデオカメラ回してほしいんだよ。ネットに公開して、人が少しでも見ればそれが小銭になるって、誰だったっけな、なんか聞いたんだよ。いいだろ?」

 いつその芝居の公演があるのかすら聞いていないのに。

「テロップとか入れてさ、それっぽく作ったら格好良くなるし結構見てもらえると思うんだよ」

 〝パソコンとかよく分からん〟のにどうやって作るつもりなのだろう。

「本当に小銭になるなら儲けものだろ? お前やってよ」

 信じているものは絶対で、自分が面白いものは誰しもが面白がるに決まっている、とそう信じることが出来たなら生きていくことはずいぶん楽しいに違いない。それに、彼の言うことが間違っているわけではない。綺麗にテロップを入れて、余計なシーンをカットして動画にすれば、そのものの品質は確かにあがるだろう。そんなことは分かっている。アクセスが集まるかどうかなんか知らない。彼の芝居公演がどのぐらいの認知を集めているのかも知らないし、認知されるのに十分な品質を保持しているのかどうかも知らない。随分久しぶりに会ったし、僕のほうから用事があって連絡することなんか皆無なのだ。用事があれば呼び出される僕はたぶんこれから先も呼び出される側で、彼みたいなタイプの人間はずっと、たぶん消えてなくなるその日まで呼び出す側に位置し続ける。そうして、僕みたいな人間の背中を力任せに前へ、前へと押し続ける。責任をとらせ続けるのだ……僕はいったい、どうしてこんなにも苛立っているのだろう?



 適当なところで話を切り上げて、フライドポテトを彼にご馳走してすぐに僕は帰った。用事を思い出したのだ。苛立つことがいかに無駄なエネルギー消費であるのかを僕はとっくに知り得ている。僕は僕だし彼は彼だ。彼は別に悪意や意志を持って僕に責任をとらせようとしているわけではないし、僕を後ろから突き飛ばし続けているわけでもない。彼は何もしていない。僕は何も出来ないでいる。

 大事な話がある。そんな言葉、使ったこともない。砂漠で死にかけたこともないし海外で拘留されたこと、追いはぎにあったこともない。なのに僕は苛立ちを覚えた。〝だから〟苛立った? そうかもしれない。

 地下鉄駅に向かう背中が強風に押された。少し湿り気を含んだ風は季節が移り変わる時期に吹くそれで、僕はかすかに、次なる前進の気配を感じる。彼もバーガーショップから外に出たのならこの風を感じているかもしれない。何処へなりとも歩いていくが良いのだ。自分でも馬鹿馬鹿しくなるぐらいに、僕はもう少しも苛立っていなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る