第1話 To the freedom

 外見の傷み具合にしては軽快に走っている原付を陸橋上で追い越した後、周囲には対向車線も含めて誰もいなくなった。オレンジ色の街灯がほぼ等間隔に照らす暗くて明るい路面。湿気の多い季節らしい、いくらか靄がかった、薄汚れた大気が周囲を漂っている。時速四十キロ制限だからオービスが設置されているような心配もない。アクセルを強めに踏み込む。車は特に躊躇いを見せるでもなく加速し、速度計が八十を指し、超える。都市部からはもう百キロ近く離れているこの界隈では、時代錯誤な道交法がいかに四十キロ制限を主張したところで、それに従う者はほぼいない。深夜二時を過ぎた誰もいない、信号も無いバイパス道。県内を東西に貫く道を西から東へ。はるか前方に大型車らしきテールランプが見える。



 逃げたいと感じたのが全ての始まりだったと言える。何から逃げたいのだろう。不明。上手く言葉に出来ないものから。何処に? それも不明。知っている道が、知らない道に変わっていき、その更に先。一度も属したことのない何処かへ。多分、精神的な故障をきたしているのだと思う。こんな行為が何かをもたらすような奇跡は、まず起こらない。それを十分に理解しながら、その理解を無視し、走る。何処かへ。だから、上手く説明することなんか出来ない。


 高速のインターチェンジの横を通り過ぎ、バイパスと旧道が合流。交通量がわずかに増える。大型トラックや、運転に不慣れなドライバーは大体が第二通行帯、第三通行帯を進む。第一通行帯はところどころに違法駐車があるのが常で、そうするのが効率的だと考えるのだろう――もっとも、大型車は法令や条例で規制されている場合もある――が、移動効率が最も高い選択肢は第一通行帯を真っ直ぐに進行し、違法駐車を躱す時だけ第二通行帯に入る、これだ。例えば日中、左折車輛が横断者によって長く滞留させられるような大きな交差点の場合はケースによるが、それぞれの通行帯がまずまず順調に流れている場合ならばこの〝左まくり、右割り込み〟の繰り返しがベターと言えるだろう……違う。こんな話をしたいわけではない……けれどもう一つだけ付け加えるならば、時折バックミラーを確認するのは癖のようなもので、要するに警察車両への警戒だ。正直に赤色灯を回している巡回車輛ならばまだしも、近年の姑息な警察はわざわざ覆面車輛で赤色を隠して交通取り締まりをしたりするから始末が悪い。そもそも、違反抑止のための巡回ならば覆面にする必要性はまるで無いわけで、要するに反則金を徴収するための取り締まりで、やっていることは繁華街のキャッチどもと大して変わらない。金が目当て。捕まったらその場で免許証焼き払ってやろうか、なんて。よく見て警戒していれば遠方からでも覆面はそれと分かるから、そんな間抜けな取り締まりの餌食になったことは無いが。


 車輛後方に、敵影無し。ミラー左隅に黒い塊。学生時代からずっと一緒のギターケース。最初の出会いはゴミ捨て場だった。レスポールタイプがぴったりと収まるハードケースで、留め金の部分が壊れていた。違法に投棄されていたらしく、〝これは粗大ごみです〟のシールが貼られていた。それをもらってきて、シールを剥がして、壊れた部分を修理して……そのケースに収めるに足るギターを始めて買ったのが七年前。大学を辞めた直後のことだった。ギブソンレスポールスタンダード。中古の格安だったけれどピックアップもネックも元気だったから今も一緒に居ることが出来ている。車で出る時はリアハッチの左側が指定席。運命的なまでに収まりが良くて、車が揺れても倒れたりすることは殆ど無い。この逃亡に連れてきた、ただ一つの仲間。狭くて広い牢獄みたいな世界の中で、こいつだけ。他に連れていきたくなるような奴は誰も居なかったし、そもそも誰も、その資格を有していなかった。なんだか不幸せな響きだけれど、病んだ少年めいたこの手の発想はそんなに嫌いではない。



 次第に目的地が近づいてくる。より正確に表すならば、目的地が定まり始めている。行くべき場所。行うべきこと。何から逃げているのか。何処へ逃げるのか。次第に固まりつつあるそれらが、それほど大きな意味を持つものではないことぐらい理解しているつもり。結果がもたらすものの質量の小ささについても。それでも止まらないのは……やはりこれが逃亡だからなのだろう。逃げるのだ。安全で自由な場所まで。その事の結果は多分、それほど重要ではない。

 幾つかの無意味な信号。本当に少ない人影。この辺りは昔からこの程度だ。以前に〝都心〟と呼ばれる場所に住んでいた頃は、何処を歩いても人とぶつかることが出来る光景を楽しんでいたような気もするし、皆殺しにしてやりたい衝動を抑えていたような気もする。遠い昔の話。


 そして、街が終わる。


 道は幾度かのカーブを繰り返して、次第に北西へ。少しずつ海に近い場所へ向かうその中途にある遊休地の中腹でハンドルを力任せに左に切り、その中へ突っ込む。ただ〝立ち入り禁止〟と主張するしょぼいポールが幾つか置かれているだけだったからたやすいものだった。ここが目的地。本当に? 本当にそうだろうか。多分、そうだ。光景が目に飛び込んできたその瞬間に、それが分かった。それはギターと、ケースのサイドポケットに入っている約束に誓って、嘘じゃない。

 車から降りると、騒々しい虫の声。周囲の雑草どもに蹴りを入れたら、いくらか静かになったような気もする。いっその事、丸ごと焼き払ってしまえたら気持ち良さそうだけれどさすがにそんな暴挙には出ない。それは、約束に含まれていない。もたらされる結果は可能な限り収束されているべきだ。巻き添えやとばっちりなんて、与えるのも受けるのも嫌だ。それは、とことん自由じゃない。この場所に暮らす全てと、この場所に潜むあらゆる物語は、最大限の現状維持。ただ、一つの約束の果たされる場所として選ばれてしまった不幸にのみ目をつぶってくれれば、それで良い。申し訳なさは感じないでもない。どのような結果にしても、暫くは騒々しくなるだろうから。



 後部座席から引きずり出したギターケースから中身を取り出す。チューナーを入れてくるのを忘れた。適当に、音感だけでチューニング。狂っている。多分、色々な人の人生とか、価値観と同じように。同じ程度に。そんなの、何の問題も無いことだ。♭でも♯でも、そんなものは基準点からの相違に過ぎないし、誰かが譜面に起こすような真似をしなければ、みんな等しく「音」でしかない。生きることも死んでいくことも同じ。振り返るな。位置なんか確かめるな。基準点なんか、存在させる方が間違っている。こんな事ばかり考えているから、こうして此処に居るのだと思う。実際のところは、もう、遠く離れすぎて基準点なんか見えないだけなのに。

 深く落ちて、沈んで、這い上がろうと思うような事もなかった。ギターの腕前。世界が牢獄であることの証明。誰かとの距離感。今日と明日の違い。楽しそうな奴ら。差し出された約束。飛びついて、後悔して、忘れたふり。忘れきれなくて、今、此処にいる。逃げた。追いつかれそうになりながら。登坂の待避スペースを見る度にUターンかましたくなりながら。後部座席で時折ガタコン、と抗議するギターをなだめながら。世界の終わりみたいな雑音しか流れない壊れた車載のラジオを殴りつけながら。無意味にウォッシャーボタンを長押しして、異音が鳴るまでワイパーを動かした。誰も居ない路上。誰かのためのハザードランプ――何も、何一つ止まらない。遠い世界の雨音。接近を願う。何かの変化を切に願う。何も変わらなかった。辿り着いた。もうすぐ、終わり。思いつくままのコードを鳴らしながら、そんな意味の歌を唄う。理論も定まりもここにはない。その場で生まれ、順々に消滅していく世界。2弦が切れた。ピックを暗い空に向けて放り投げた。僅かな着地音すら聞こえない。

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