第2話

 捨てられたのか、元々孤児だったのか、わからない。

 憶えていないし、教えてくれる人も周りにいなかったから、と少年は言った。

 物心つくとこうしていた。つまり、犬たちと暮らしていた、と。

 犬たちと拾ったものを食い、犬たちに寄り添って暖を取った。

 三、四歳の頃、泣きながら肩よりも高い草の原を歩いていたぼんやりした記憶があるが、果たして、あれは俺だったのか? それとも、俺が見た誰かの光景だったのか……?

「周り中、赤いトンボが飛んでいたっけ。さて、で、おまえは?」

 今度は雪丸が生い立ちを語る番だ。

 その頃には二人は風を避けた窪みでくつろいで座っていた。

 思えば、雪丸、自分の来歴を他人に話すのはこれが初めてだった。今、周囲にいる人たちは誰も他人の素性など知りたがる者はいなかった。

「おまえと似たようなものじゃ」

 父は知らない。母は歩き巫女みこ白拍子しらびょうしだったらしい。ある日、いきなり河原に現れて赤子を産み落として死んだ。その赤子が雪丸だった。

 同情した同業の女たちが雪丸を取り上げ、育ててくれた。

 但し、名は母が息を引き取る前につけたのだという。

 別に雪が降っていたわけではない。それは春の日で、風に舞っていたのは桜の花びらだ。だが、母は、これだけははっきりと言ったという。

『〝雪〟じゃ。雪踏み分けて……君を見んとは……の、降る〝雪〟じや。この子にはその名をつけてやって。問われたら、印だと……その雪が……』

「尤も、坊主どもはその字を嫌うて行幸みゆき丸と俺を呼んだが」

「?」

 枝を持って雪丸は地面に書いて見せた。

「音が同じなのさ。こっちが降る〝ゆき〟。こっちは幸せの〝ゆき〟じゃ」

 少年は別のことに驚いた。

「おまえ、字が書けるのか!」

「ああ。だから、坊主どもに教わったのさ」

 雪丸が河原で歩き巫女たちと暮らしたのは数年だった。

 四歳くらいになったある日、高僧が弟子を率いてやって来た時、雪丸を連れて帰った。

 巫女たちとどんなやりとりがあったのかはわからない。

 その高僧の寺に去年までいた。

 昨年、ちょっとしたことがあって雪丸は寺から逃げ出した。

 他に知る場所もなかったせいか、気づくと河原に立っていた。

 だが、勿論、そこに見知った顔はなかった。その上、大きくなっていたのでもう巫女の仲間には入れてもらえなかった。それで、河原を根城にするもう片方の集団、清目キヨメの群れに潜り込んだのだ。

※清目=中世、清掃、葬儀等を生業とした集団

 こうして、この一年、検非遺使けびいしやその配下の放免ほうめんに命じられるままに往来や河原の掃除をして食い繋いで来た。京師みやこの人たちからも請われれば仕事を請け負った。

「どんな仕事じゃ?」

「もっぱら死人を捨てに行くのさ」

 そうだなあ、と雪丸はうなじを掻いた。

「子供や女なら背負って一人で運べる。男や、棺に入れたのは頭数を揃える。だが、なるべくなら一人でする仕事の方がいいな。取り分で揉めないから。歳が若いとその分、ナメられて損じゃ」

 とはいえ、雪丸は器用で頭が回り口も達者なので、最近は結構、要領よく稼げるようになった。

「ふうん。人と組むのは厄介そうだな?」

 少年が心底憐れんだ口調で言う。例の兄弟のような痩せ犬がその膝にぴったりくっついていた。

 まるで、雪丸と少年の話を熱心に聞いているようだった。

「待てよ、いいことを思いついたぞ!」

 突然、雪丸が叫んだ。周りで犬たちが一斉に頭を上げる。

「おまえ、この犬たちを自在に操れるとみたが、どうじゃ?」

 まだらを撫でながら少年が頷く。

「まあな」

「ならば、ここら一帯の犬という犬、全部引き連れて移動しろ」

「何処へ?」

「何処でもいい。取り敢えず目立たない処。そうだな──鳥辺野とりべのはどうじゃ?」

「それで?」

「俺は、犬は狩り尽くしたと報告する。実際、犬の姿が見当たらなくなれば今回の〈犬狩り〉は終わる。俺は約束の報酬をもらえる。それを二人で分けるんだ」

 こういう機転がいかにも、雪丸なのだ。

「どうだ? それなら、おまえの〝仲間〟がこれ以上被害を受けずに済むし、俺もおまえも楽して潤うのだぞ! これ以上、上手い話があるか?」

「なるほど」

 すかさず雪丸は手を差し出した。

「了解か、アヤツコ?」

 一旦伸ばしかけた手を止めて、少年、

「アヤツコ?」

「おまえの名じゃ。名無しではこの先不便だ。だから、今、俺が名づけた。嫌か?」

 怪訝そうに眉を寄せる少年の額に、刻まれた一字があった。

 それを指差して雪丸は言うのだ。

「ほら、おまえの〝それ〟」

「ああ、これか?」

 思い当たって少年は額に手をやった。

 これは、俺が唯一身につけていたものなのだ、と少年は言う。

 元々は墨で書いてあった。

 偶々たまたま暫く一緒に野宿した僧形の男に教えられて、自分ではその時初めて知った。

 水溜りに顔を映して見ると、確かに、額に何か記されていた。

『それはお守りだ』

 僧は教えてくれた。

『読めるか? それは文字でな、〈犬〉という字じゃ。子供の外出時に書く魔除け……まじないの類じゃ」

『何故、〈犬〉なのだ?』

『犬のように元気に育つように。または、犬は悪霊の匂いを嗅ぎとるから、災厄を寄せ付けないと考えたか──』

 いずれにせよ、現実に犬と暮らしているおまえの額にその字があると言うのが面白い、と僧は笑った。

 このように、子供の額に〈犬〉の字を書く風習は〝アヤツコ〟と称された。

 一方、雪丸はふと別のことを思った。

(ひょっとして、こいつは元々はかなりの身分の若君かも知れぬな?)

 アヤツコを書く習俗は貴人のそれだったから。

「俺は字など知らぬ。それで、消えてしまって、忘れるのが怖くて──」

 ある日、決心して、水鏡に映しながら尖った石で字の通り刻んだ。

 万が一にもこれが目印となって肉親が探し当ててくれる日が来るかも知れないから、とはアヤツコは口に出しては言わなかった。

 雪丸の方も、アヤツコを書くのはせいぜい七歳くらいまでだ、とは口に出しては言わなかった。

 二人はそのまま焚き火をして暖をとり、夜の更けるのを待った。

 そうして、アヤツコは闇に紛れて、犬たちを引き連れて鳥辺野へ移って行った。



 一夜明けて。

 河原へやって来た検非遺使は、昨日、突然姿をくらました雪丸を叱った。

 雪丸は、実は一人で犬を狩り尽くした、と弁明した。

 流石に、検非遺使は胡乱な目で雪丸を見たが、事実、周囲は森閑として、何処を探っても犬は一匹も見当たらない。

 予定していたよりも早く、厄介な仕事を終えることができたと知って、検非遺使は喜んだ。

 約束通りの報酬を雪丸はもらった。

 袋いっぱいの雑穀ときじ肉だ。雉肉の方は検非遺使が趣味の狩りで獲ったものを好意で分けてくれた。

 その上、今後仕事がある時は率先しておまえを使ってやろうと言ってくれた。

「私の家にもおまえくらいの息子がいるよ。おまえは、品がいいな? こんな処にいるようには見えないが。何か事情があるのだろう」

 名前を憶えてもらうのは悪いことではない。

 雪丸もこの検非遺使に好感を持った。同じくらいだという息子にも会ってみたいものだ。父親に似てやはり人が好いのだろうな?

「検非遺使様のご子息ならさぞや優秀なのでしょうね?」

 すかさず雪丸はお世辞を言った。雉肉分の返礼である。

 案の定、検非遺使は相好を崩した。

「それがなあ、書物が嫌いでなあ! あれでは文官は無理だな。だが、体は頑強だぞ!」



 さて、雪丸は袋を担いだその足で鳥辺野へ向かった。

 落ち合う場所は決めてあったがそこよりもずっと早く、道の先にアヤツコは姿を見せた。

 きっと仲間の犬たちが嗅ぎ取って知らせたのだろう。

 出迎えたアヤツコは驚いた顔をしてみせた。

「へえ? 約束を守るとはな!」

 袋を地面に下ろすと、その場で雪丸はかっきり二分した。そして、一方をアヤツコに押しやった。

 その礼に、と言うのでもないだろうが。

 アヤツコは雪丸を引き止めて、自分の分から取った雑穀と肉で雪丸を持てなした。

 勿論、雪丸は辞退しなかった。快く馳走ちそうになった。

 昨夜移って来たと言うのに、アヤツコとその仲間はもういっぱしの家財道具を揃えていた。

 少々欠けていたが土器かわらけで美味いかゆを作ってくれた。

「こっちも礼を言わねばな」

 アヤツコはニヤニヤして、

内野うちのよりこっちの方が住みやすい。あんなシケた処よりも早くこっちへ来れば良かった」

 そりゃそうだろう、と雪丸も頷く。

 行き倒れた屍骸などは河原に積むが、都人は死者をこの鳥辺野まで運ぶ。

 ここは葬送の地である。

 供物や衣類はもはや死人には必要ない。生きている者にこそ価値があるのだ。

 畢竟ひっきょう、死者は生者を養えるということ。



 久々に腹も心も満たされて雪丸は山を降りた。

 あんまり幸せな気分で、これと言って道を選ばず歩いたせいでふと気づくと普段通ったことのない場所に立っていた。

「?」

 だが、雪丸が足を止めたのは、道に迷ったせいではない。──匂いだ。

 えも言われぬ清涼な香りが周囲に漂っていた。

 見回すと、崩れた築地塀ついじべいと傾いだ四足門よつあしもんが目に入った。


「ほう? こんな処に?」



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